第40話 鍵職人に、監獄の鍵は触らせない
洗濯場で、仕事を始めない囚人が一人いる。
そう聞いた時、最初に思い浮かんだのは体調不良だった。
「医務室には?」
「行っていません。本人も具合が悪いとは言っていません」
報告に来た看守は、困ったように眉を寄せている。
「では、作業内容への不満か」
「配置を変えてほしいそうです」
「理由は?」
「鍵職人だから、と」
そこで思い出した。
以前、囚人の前職を記録した時にいた男だ。
三十六歳。
入る前は十二年間、鍵職人をしていたと本人は申告している。
ただし、黒塔では洗濯場勤務。
鍵にも錠にも触らせていない。
「洗濯場へ行く」
◇
朝の洗濯場は、外よりも暖かかった。
大鍋から上がる湯気が天井近くに薄く溜まり、石鹸と灰汁、それに濡れた布の匂いが鼻をつく。
桶へ布を沈める音。
木の棒で衣類を押す音。
絞った水が石床へ落ちる音。
十数人がすでに仕事へ入っていた。
一人を除いて。
壁際の長椅子に男が座っている。
仕事を放棄して寝ているわけではない。背筋を伸ばし、両手を膝へ置いていた。
「ミロ・ヴァンスだな」
「はい」
立ち上がる。
「監獄長に話があるそうだな」
「あります」
「聞こう」
周囲の囚人が手を止めかける。
担当看守が声を飛ばした。
「作業を続けろ」
桶の音が再び動き始める。
完全に聞こえなくなるわけではないが、それでいい。
「洗濯場から外してもらいたいんです」
ミロが言った。
「希望する配置は?」
「修理仕事です。できれば鍵か錠前を扱う場所に」
「理由は、元鍵職人だからか」
「それもあります」
男は少し言葉を選んだ。
「カレブが出る時、ここでやっていた仕事の証明をもらったと聞きました」
やはりそこか。
「自分も刑期を終える時、洗濯を何年やったと書かれるんでしょう」
「ここで実際に洗濯を担当していた期間なら書ける」
「俺は十二年、鍵を作ってました」
「その申告も記録には残っている」
「でも、証明はしてくれない」
「確認していないからな」
ミロの顎に力が入った。
「だったら確認してください」
「黒塔の錠前で?」
「それが一番早いでしょう」
「却下だ」
そこは考える余地がない。
ミロの表情が険しくなる。
「俺が鍵職人だから信用できない?」
「鍵職人だからだ」
男が黙った。
「黒塔の房、工具庫、外門、保管庫。そういう錠前の構造を囚人へ覚えさせるつもりはない」
「全部違う錠でしょう」
「違うから見せてもいい、とはならない」
俺が錠前の専門家なら、どこまで見せれば危険なのか判断できるかもしれない。
だが俺は刑務官だった人間であって、鍵職人ではない。
分からない部分で賭ける理由がなかった。
◇
「じゃあ、俺はここで洗濯を続けろと?」
「現在の配置に問題があるなら聞く」
「そういう話じゃありません」
「作業量が過大か。手を傷めているか。誰かに嫌がらせを受けているか」
「違います」
「なら、今のところ配置を変える理由はない」
ミロが大きく息を吐いた。
怒鳴らない。
ただ、不満は隠していなかった。
「前は、囚人の技能を捨てるなって話だったでしょう」
誰からどう伝わったのか、ずいぶん簡略化されている。
「使える技能を記録するようにはした」
「同じじゃないですか」
「違う」
濡れた布を絞る音が近くで響く。
二人掛かりで大きなシーツを捻っていた囚人が、こちらを気にしながらも手は止めていない。
「技能があるからといって、本人の希望どおりの仕事へ就けるわけではない。必要性と安全性が先だ」
「鍵職人なのに鍵を触れない?」
「ここが監獄でなければ、好きにすればいい」
ミロは口元を歪めた。
「便利ですね。監獄だから、で全部終わる」
「全部には使わない。ただ、鍵の話には十分な理由だ」
そこは譲れない。
「刃物を使っていた料理人だから厨房へ入れるとも限らない。馬車職人だから外門の荷車を自由に触らせるとも限らない。過去の仕事と、ここで任せられる仕事は別だ」
「それなら、技能を記録した意味がない」
「必要になった時、使える可能性がある」
「俺の技能は必要にならない」
「黒塔の鍵を扱わせる意味では、できれば必要にならない方がいい」
ミロが初めて苦笑した。
「そこまではっきり言われると、腹を立てにくいですね」
「腹を立てるのは自由だ。配置が変わるとは限らない」
◇
そこで担当看守が口を挟んだ。
「監獄長、一つよろしいですか」
「何だ」
「ミロは、仕事そのものを拒否したわけではありません」
俺は看守を見る。
「どういうことだ」
「作業開始前に配置変更の申出をしました。自分の扱いが決まるまでは待てと言ったのは私です」
なるほど。
「では、『仕事を始めない』という報告は正確ではないな」
看守が頭を下げる。
「申し訳ありません」
「次からは、拒否したのか、指示待ちなのかを分けて報告してくれ」
「承知しました」
ミロもこちらを見る。
「俺は作業を拒否したことになってたんですか」
「少なくとも俺にはそう聞こえた」
「それなら先に言ってくださいよ」
「俺に言うな。今確認したところだ」
担当看守が申し訳なさそうな顔をする。
「私の説明不足です」
ミロは何か言いかけたが、結局やめた。
話を戻す。
「ミロ。希望は聞いた。鍵や錠前を扱う配置にはしない」
「分かりました」
「ただし、お前が十二年鍵職人をしていたという申告まで、洗濯場勤務で上書きするつもりもない」
男の目が少し動いた。
「出所時の記録には?」
「本人申告の前職としてなら残せる」
「『鍵職人だったと言っている』だけ?」
「確認していない以上はな」
「確認する方法は本当にないんですか」
その質問には、少し考えた。
◇
「黒塔の錠前を触らせることはできない」
「それはもう分かりました」
「鍵以外ならどうだ」
「鍵以外?」
「金属の細かな加工だ」
鍵職人が十二年やっていたなら、錠前そのもの以外にも使う技術はあるはずだ。
「金属を削る。寸法を合わせる。小さな部品を整える。その辺りは?」
「やります」
「鍵ほど得意ではない?」
「いえ。錠前を作るなら普通に必要です」
俺は担当看守を見る。
「保守担当で、細かな金物仕事はあるか」
「確認しないと分かりません」
「今すぐ仕事を作る必要はない。次に必要が出た時、保安に関係しない物なら候補に入れてくれ」
ミロが眉を上げた。
「例えば?」
「蝶番の金具、箱の留め具、家具の小さな部品。そういう物だ」
「錠前は?」
「触らせない」
「徹底してますね」
「そこを曖昧にする方が嫌だろう」
ミロは数秒考えた。
「もし金物仕事をやって、ちゃんとできたら?」
「その仕事については確認済みの技能として残せる」
「鍵職人とは書けない?」
「鍵職人だったことを証明する資料が外から出れば別だ。黒塔の中だけで確認できる範囲なら、確認できたことだけを書く」
男は納得したような、まだ足りないような顔をした。
それでも最初の険しさは消えている。
「分かりました」
「洗濯場へ戻れるか」
「戻れます」
「なら頼む」
ミロが桶の方へ歩いていく。
途中で振り返った。
「監獄長」
「何だ」
「俺が本当に鍵職人だったら、もったいないとは思わないんですか」
「思う」
正直に答えた。
「だから記録には残している。ただし、もったいないから監獄の鍵を渡すほど馬鹿ではない」
今度は周囲から何人かの笑い声が漏れた。
ミロ自身も肩を揺らす。
「それなら納得します」
桶の前へ戻り、袖をまくった。
◇
執務室へ戻ると、机の上に新しい申出書が積まれていた。
七枚。
「これは?」
グラッドが横から答える。
「作業配置の希望です」
「急に増えたな」
「カレブの作業記録の話が広まってからです」
一枚目。
元パン職人。厨房希望。
二枚目。
荷車修理の経験あり。保守希望。
三枚目。
読み書きができるので記録仕事を希望。
四枚目は、元肉屋。
厨房希望。
「包丁を持たせろ、と書いていないだけましか」
「そこまで書いたら、むしろ正直ではあります」
グラッドが淡々と返す。
俺は紙束を置いた。
「希望を出すこと自体は禁止しない」
「配置転換しますか」
「必要があれば検討する。希望した順には動かさない」
「現在の配置に支障がある者もいます」
「そこも見る」
パン職人だから厨房。
読み書きができるから帳場。
そんな単純な割り振りを始めれば、今度は全員が都合のいい前職を名乗り始める。
「本人申告と確認済み技能を分けておいて正解でしたね」
「今のところはな」
「今のところ?」
「制度は使われ始めてから穴が見える」
工具の貸出しもそうだった。
作業終了の点呼もそうだ。
始めた日に完璧だと思える仕組みの方が怖い。
◇
午後、グラッドと一緒に申出書を見直した。
七人のうち、すぐ配置を変える者はいなかった。
現在の人員に不足がないからだ。
ただし、二人については記録を追加確認することにした。
一人は荷車修理経験者。
外門の荷車を触らせるのではなく、監獄内で使う手押し車や配膳台車の補修に人手が必要になった時の候補にする。
もう一人はパン職人。
厨房の欠員が出た時に限り、衛生状態と現在の規律記録を見た上で検討する。
元肉屋は保留。
読み書きのできる男も保留。
囚人へ囚人記録を扱わせるわけにはいかない。
「希望が通らなかったと不満は出るでしょうね」
グラッドが言う。
「出るだろう」
「説明を掲示しますか」
「長い規則文を増やすな」
「では?」
「作業担当の看守に伝える。希望は出せる。ただし配置は、安全、必要人数、技能、現在の担当を見て決める。それだけでいい」
「優先順位は?」
「固定しすぎると、今度はその順番だけで揉める」
例えば厨房が一人足りない時に、パン職人より病人食へ慣れた者が必要になるかもしれない。
現場は毎回同じではない。
「希望を聞くことと、希望どおりにすることは別ですね」
「そういうことだ」
◇
夕方、もう一度洗濯場の前を通った。
湯気は朝より薄い。
洗い終えた布が中庭側の干し場へ並び、風を受けてゆっくり揺れている。
ミロは大きなシーツをもう一人と二人掛かりで絞っていた。
こちらに気づいても、手を止めない。
「監獄長」
「何だ」
「金物仕事、本当に必要になったら呼んでください」
「必要になればな」
「忘れません?」
「記録に残っている」
「それならいいです」
水を絞り切った布を籠へ入れる。
その手つきを見ただけでは、十二年鍵職人だった男には見えない。
洗濯場で長く働いた男にしか見えなかった。
だが、それで過去の技能が消えたわけでもない。
使わないことと、なかったことにするのは違う。
「ミロ」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「外へ出た後に鍵職人へ戻るのは、黒塔の許可はいらない」
男は一瞬黙った。
やがて、少しだけ笑う。
「その日まで腕が残ってればいいんですけどね」
「だから、使える範囲は記録しておく」
「分かりました」
俺は洗濯場を離れた。
◇
執務棟へ戻る途中、外門の鐘が鳴った。
一度。
来訪者を知らせる音だ。
こんな時間に商人の予定はない。
門番が走ってくる。
「所長、王都から急使です」
「王都?」
「封書が一通。王都監察局と軍法部、双方の印があります」
差し出された封筒は、通常の連絡より厚かった。
赤い封蝋には二つの印。
ローデンたちが帰ってから、まだそれほど日は経っていない。
執務室へ戻り、グラッド立ち会いで封を切った。
最初の数行を読む。
もう一度読み直した。
「所長?」
グラッドがこちらを見る。
「アルヴァン・ギレスの件だ」
「判定が出たのですか」
「無罪でも有罪でもない」
紙を机へ置く。
王殺し未遂について、旧裁定の前提となった証拠評価に再検討すべき点が認められた。
よって、死刑執行停止を継続。
そして――
「正式な再審理に付す、とある」
グラッドの表情が変わった。
「判決そのものを、もう一度審理する?」
「ああ」
護送任務が実在したこと。
当時の裁定で、その任務が確認できなかったことがアルヴァンの信用性を下げる材料になっていたこと。
その前提が崩れた以上、旧判決をそのまま執行することはできない。
ただし、王の近くで抜刀し、護衛を負傷させた事実も消えていない。
だから無罪にはしない。
最初から調べ直す。
「身柄は?」
グラッドが尋ねる。
続きへ目を通した。
「当面、黒塔に留め置く。再審理の開始日は追って通知」
「では、まだここに」
「ああ」
窓の外から、夕方の点呼を告げる鐘が鳴った。
アルヴァンが初めて黒塔へ入ってきた時、俺の知っている未来では、大脱獄を起こす中心人物だった。
今も死刑囚であることに変わりはない。
俺を信用してもいない。
それでも、二年前に一度閉じられたはずの判決が、ようやく開き直された。
俺は封書を畳んだ。
「アルヴァン本人へ伝える」
グラッドが頷く。
洗濯場では鍵職人へ監獄の鍵を渡さなかった。
そして今度は、閉じられていた判決の方に鍵が差し込まれたらしい。
まだ扉が開いたわけではない。
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