第4話 腐った薬草を病人に使うな
翌朝、医薬品庫の扉を開けた瞬間、湿った草と黴の臭いが鼻を突いた。
「……これは酷いな」
俺が顔をしかめる横で、ガイラスは棚ではなく床を見ていた。
「石床へ直接置いておりますな」
麻袋が壁際まで積み上がっている。
薬草、包帯用の布、軟膏の壺、酒。
量だけ見れば、それなりの備蓄があるように見える。
だが麻袋を一つ持ち上げると、底が湿っていた。中の薬草には白い黴が広がっている。
「これ、使ってたのか?」
俺が尋ねると、医務係のラッセルが言いにくそうに口を開いた。
「状態の悪いものは、なるべく避けていました」
「なるべく?」
「廃棄すると在庫が減りますので」
「使えない物まで在庫に数えてどうする」
ラッセルは黙り込んだ。
三十代後半ほどの痩せた男だ。
王国軍で衛生兵をしていた経験があり、簡単な傷の処置や薬草の扱いを知っている。そのため黒塔では医務係を任されていた。
「捨てたいとは思わなかったのか?」
「思いました」
意外にも即答だった。
「以前、一度だけ廃棄を申請しました。しかし予算が増えるという理由で却下されました。それ以来、ひどく傷んだものだけ密かに除いていました」
前のディルクが原因の一つなのは間違いない。
だが、それだけでもなさそうだ。
「在庫確認は?」
「年に一度、帳簿上の数を合わせます」
「現物を見るのは?」
「……決まりにはありません」
「誰かが休んだときの引き継ぎは?」
「特に」
なるほど。
監獄長が金を惜しみ、現場はどうせ言っても無駄だと諦め、制度そのものも腐っていた。
一人だけ殴れば直る話じゃない。
「使えない薬草は全部分けろ。黴、虫食い、変色。判断できないものはラッセルが見る」
「はい」
「使える物まで勢いで捨てるなよ」
「そこまで乱暴には扱いません」
ラッセルが少しだけむっとした。
それくらい言い返す元気があるなら問題ない。
「棚も必要ですな」
ガイラスが壁際を指した。
「床から離し、壁にも密着させない方がいいでしょう。湿気が抜けません」
「木工所に頼もう」
俺が言うと、今度はグラッドが先に動いた。
「木工経験のある囚人を名簿から探します。作業監督は、経験者を中心に組ませます」
俺は思わずグラッドを見る。
「何です?」
「いや」
昨日までなら、
『囚人に任せるのですか?』
と聞いていただろう。
少しずつだが、こいつも考え方を変え始めているらしい。
「それでいい。棚は今日中じゃなくてもいい。ただ、薬草を床へ直置きするのは今すぐやめろ」
「承知しました」
医薬品庫をラッセルたちに任せ、俺たちは医務室へ向かった。
途中の廊下で足を止める。
昨日より人が増えていた。
壁際へ藁を敷き、毛布に包まれた囚人たちが何人も横になっている。
「患者は?」
「今朝で五十一名です」
ラッセルが答えた。
昨日は四十三名だった。
「第三井戸は止めたんだろ?」
「昨夜から使わせていません。ただ、すでに飲んでいた者が今になって症状を出しているのだと思います」
それなら不自然ではない。
「死者は?」
「今のところおりません。ただ、熱の高い者が三人。腹を下して水も飲みたがらない者もいます」
医務室へ入る。
寝台は十二。
当然足りず、残りは床だ。
しかも腹を壊した者、発熱した者、骨折した者まで同じ部屋に押し込められている。
「空いてる部屋はないか?」
俺がグラッドを見る。
「南棟の作業倉庫なら使えます。古材と麻縄がありますが、別の倉庫へ移せます」
今度は俺が言う前に答えた。
「やれ」
「はい。症状のある者をそちらへ移します。怪我人はこちらへ残した方が?」
俺はラッセルを見る。
「どう思う」
「分けられるなら、その方が助かります。発熱と腹の症状がある者は一ヶ所へまとめたいです」
「じゃあそれで」
「南棟の囚人全員も確認します」
ラッセルが続けた。
「全員をここへ連れてくると混乱しますので、私と補助二名で各房を回ります」
「補助はいるのか?」
「傷の手当て程度ならできる看守が二人おります」
グラッドがすぐに答えた。
「北壁の補修班を組み直せば二名出せます。ノエラのところも、今は点検ではなく修理に入っていますから、昨日ほど監視人数は必要ありません」
「任せる」
指示を出す前に話が決まった。
昨日までなら、全部俺が一つずつ聞き出していたはずだ。
悪くない。
問題は水だった。
第三井戸を止めたため、南棟の約三百人分を残る二本から運んでいる。
朝から水桶を持った囚人が廊下を何度も往復していた。
ラッセルが一人の患者へ水を飲ませながら言う。
「病人へ飲ませる分だけでも、一度沸かしたいです」
「薪は足りるか?」
俺が聞く前に、ガイラスが顔をしかめた。
「そこですな」
「見たのか?」
「朝、薪倉庫も確認しました。今の使い方なら十四日ほど。ただし病人用の湯を増やし、厨房の煮炊きも増えればもっと早く減ります」
一つ直すために別の物が必要になる。
水を安全にするには薪が要るし、病人を養うには食料も薬もいる。
監獄というのは、人間を閉じ込めて鍵を掛ければ終わりではないらしい。
「全員分を沸かすのは無理だな」
「病人と南棟を優先しましょう」
ラッセルが言った。
「それと、井戸ごとに桶を分けたいです」
「理由は?」
「南棟で使った桶を、そのまま別の井戸へ入れるのは避けたいので」
「どうやって見分ける?」
今度はグラッドが答えた。
「取っ手へ色布を巻きましょう。北は青、中央は白、南は赤。離れていても分かります」
「それでいこう」
グラッドが看守を呼び、すぐに布を集めさせる。
俺が考えた案ではない。
それでも監獄は改善する。
むしろ、その方がいい。
昼前には南棟の作業倉庫が臨時療養室へ変わった。
古材を運び出し、床を掃除し、新しい藁を敷く。
患者を移している最中、ラッセルが一人の若い囚人の前で足を止めた。
「この者、昨日から食べていません」
「飯は出てるだろ?」
「腹を壊しているので、食べればまた吐くと思ったそうです」
囚人の唇は乾き、顔色も悪い。
「水は?」
「飲むとまた腹が痛むので……」
本人が弱々しく答えた。
前世でなら脱水を疑うところだが、俺は医者じゃない。
「ラッセル、何が必要だ」
「少しずつ水分を取らせます。湯へ塩を少量入れたものも使いたいです。それと、食べられるようになれば薄い粥を」
「厨房へ言え」
「私の判断で?」
「医務のことはお前が決めろ。ただし使った薬や物資は記録に残せ。大量に必要になるならガイラスにも回せ」
ラッセルが一瞬だけ黙った。
以前ならここで「本当にいいのですか」と聞いただろう。
だが今回は違った。
「分かりました。では、まず患者を三段階に分けます。寝たきり、歩ける者、回復してきた者。食事もそれに合わせます」
「任せる」
ラッセルはすぐに動き始めた。
少ししてガイラスが俺の横へ来る。
「ようやく、監獄長殿へ何でも聞かなくなりましたな」
「俺も助かる」
「それを狙っていたので?」
「最初から全部狙ってできるほど賢くない」
ガイラスが小さく笑った。
「その割には、随分と人へ任せます」
「俺より詳しい奴がいるなら、そいつにやらせた方が早いだけだ」
午後。
医薬品庫の整理結果が出た。
使える薬草は全体の四割ほど。
残りは黴、虫食い、変色、薬効が抜けた古い束。
軟膏も七壺が駄目になっていた。
帳簿だけなら十分な在庫があることになっている。
「今後は月に一回、現物も見る」
俺が言うと、ラッセルが頷いた。
「私だけではなく、もう一人確認者を付けましょう。数も一緒に記録します」
「そうしてくれ」
「廃棄した物も残します。理由も」
それも俺が言うつもりだった。
先回りされた。
「それと、薬草の補充ですが」
ラッセルが続ける。
「高価な調合薬ばかり買う必要はありません。熱や腹の不調に使う一般的な薬草なら、近隣の村でも手に入ります」
「仕入れ先は分かるか?」
「軍にいた頃、この地方でも何度か買ったことがあります」
「じゃあ候補を出せ」
「はい。価格も調べます」
もう「勝手に買っていいですか」とは聞かなかった。
それでいい。
金額の上限だけ決め、そこまでは医務側の裁量にする。
毎回俺のところまで薬草一本の許可を取りに来られても困る。
夕方には木工所から仮の棚が運ばれてきた。
作業を仕切っていたのは、四十歳くらいの囚人だった。
名簿を見る。
ベン・ローダー。
元家具職人。
酒場で酔って相手の顎を折り、傷害罪。
それだけだ。
王国一の名工でもなければ、秘密の技能を持っているわけでもない。
「早かったな」
「板があったので。薬草を置くだけなら、飾りなんかいりません」
ベンが棚を壁から少し離して設置する。
脚も床から高さを取ってある。
「湿気対策か?」
「そうです。あと、下段には壺を置かない方がいい。蹴りますから」
ラッセルが頷く。
「では軟膏類は上へ。布は中央にしましょう」
二人で勝手に配置を決め始めた。
俺は口を出さなかった。
棚は家具職人、薬はラッセル、食料や薪はガイラスに任せればいい。専門外の俺が全部へ口を挟むより、その方がまともに回る。
「所長」
ベンが作業を終えてこちらを見る。
「何だ」
「一つ聞いても?」
「ああ」
「俺、明日も木工所に入っていいんですか?」
「今までどこだった」
「石割りです」
「なんで家具職人が石割ってた」
「囚人だからでしょう」
言いながら、ベン自身が少し笑った。
どうやらこの答えは黒塔共通らしい。
「木工所へ移れ。ただし勝手に人員を増やすな。必要なら看守へ言え」
「分かりました」
ベンはそれだけ言って戻っていった。
感涙もしない。
忠誠も誓わない。
ただ明日から、自分ができる仕事をする。
そのくらいでいい。
二日後。
患者は五十一名から三十八名まで減っていた。
新しく症状を訴える者も一日数人程度になり、重症だった三人も水を飲めるようになったという。
第三井戸はまだ使用禁止。
壊れていた汚水槽はノエラとバルクが修理を進めている。
臨時療養室も、少なくとも廊下へ患者を寝かせる必要はなくなった。
「今回の件で死者は?」
「出ていません」
ラッセルが答える。
「ならいい」
患者が減れば、人手も戻る。
医務係の負担も減る。
結局、人間を雑に扱って後から全部崩れるより、最初からまともに扱った方が安く済む。
それだけだった。
「所長」
夕刻。
グラッドが執務室へ入ってきた。
いつになく表情が硬い。
「王都から収監通知です」
「何人だ」
「二十四名。明日の昼に到着予定です」
「また増えるのか」
食料、寝床、水。
頭の中で必要量を考えながら書状を受け取る。
一覧を眺めて、途中で指が止まった。
一人だけ、名前の横に赤い印が付いている。
アルヴァン・ギレス。
元王国騎士団第三大隊長。
罪状――国王暗殺未遂。
死刑判決済み。
執行日が決まるまで黒塔監獄へ収監。
「……こいつか」
「ご存じなのですか?」
「名前だけな」
本当は、もっと知っている。
ゲームの《黒塔大脱獄》。
北壁が崩れた直後、最初に武器庫を奪った男。
混乱していた囚人たちをまとめ、看守たちの抵抗を潰し、大脱獄を一気に成功へ近づけた中心人物。
しかも、こいつは待遇改善くらいで大人しくなるような男ではなかったはずだ。
「グラッド」
「はい」
「明日の受け入れ、普段通りでいい。ただしアルヴァンだけは俺も立ち会う」
「危険人物ですが」
「だからだ」
北壁を直した。
食料を増やした。
水も薬も、少しずつまともになってきた。
だが、それで全員がこちらを信用するわけではない。
恨みも、思想も、罪も消えない。
そして翌日。
鎖につながれた二十四人の囚人の先頭で、アルヴァン・ギレスは俺を見るなり、こう言った。
「お前がディルクか」
その目には、恐怖も期待もなかった。
「処刑される前に、一度だけお前を殺しておきたかった」
なるほど。
こいつは簡単にはいかなそうだ。




