第38話 刑期が終わったなら、囚人ではない
朝の点呼が終わった直後、グラッドが一冊の薄い書類を持ってきた。
「本日、出所が一名です」
思わず顔を上げた。
「刑期満了か」
「はい。カレブ・フォード、四十四歳。八年前、倉庫への武器を持った侵入と窃盗、逃走時に追ってきた警備員へ怪我を負わせています。判決どおり八年、延長される懲罰も残っていません」
机の上へ出された書類には、収監日と刑期満了日が並んでいる。
アルヴァンのような再審査案件でも、処遇判断でもない。
今日で終わり。
それだけだ。
「本人には伝わっているな」
「もちろんです」
「荷物は?」
「確認中です。ただ、一つ問題があります」
「何だ」
「出たくないそうです」
今度は書類から顔を上げた。
「刑期が終わっているんだろう」
「終わっています」
「では、どういう意味だ」
グラッドは珍しく困った顔をした。
「本人から聞いた方が早いかと」
◇
カレブは釈放前の確認室にいた。
普段、移送前後の囚人を一時的に待たせる小部屋だ。
窓は一つ。
格子はある。
だが今日は扉が開いたままになっていた。
椅子に腰掛けた男は、囚人服ではない。
黒塔へ入った時の私物は八年も保管され、衣服として使える状態ではなかったため、規定の出所用衣類へ着替えている。
灰色の上着。
丈夫そうな濃い色のズボン。
使い込まれてはいるが、底の残った革靴。
髪と髭も整えられていた。
それだけで印象が大きく違う。
囚人番号で呼ばれる男ではなく、町中にいても不思議ではない四十代の男に見えた。
「カレブ」
「監獄長」
立とうとしたので手で止める。
「座っていて構わない」
向かいへ椅子を置いた。
机の上には、小さな布袋と書類がある。
「出所したくないと言ったそうだな」
「……はい」
「理由を聞かせてくれ」
怒っているわけでも、試しているわけでもない。
カレブは両手を膝へ置き、しばらく指を擦っていた。
手の甲には古い傷がいくつもある。
「八年前は、兄のところへ帰るつもりでした」
「今は?」
「三年前に手紙が戻ってきました。家を引き払ったそうです。その後の居場所は分かりません」
「ほかの家族は」
「いません」
「帰る家がないから、黒塔に残りたい?」
カレブはすぐには頷かなかった。
窓の外から朝の作業開始を告げる鐘が聞こえる。
「ここなら、今日やることが分かります」
低い声だった。
「起きる時間も、飯の時間も、寝る時間も決まってる。洗濯場へ行けば仕事もある」
「だから囚人のままでいたい、と?」
「囚人でいたいわけじゃありません」
カレブが顔を上げる。
「外へ出たいと思ってました。ずっとです」
その目に嘘は感じなかった。
「でも、門が開くとなったら……どっちへ歩けばいいのか分からなくなった」
八年。
短い時間ではない。
それでも、だからといって刑期を延ばす理由にはならない。
「カレブ」
「はい」
「今日でお前をここに拘束する権限はなくなる」
男の肩がわずかに強張った。
「希望するなら、もう何日か置いてやる、ということはできない」
「……そうですよね」
「黒塔は宿屋ではない。逆に言えば、刑期を終えた人間を、本人が不安そうだからという理由で閉じ込め続ける場所でもない」
カレブは黙って聞いている。
「門を出た後にどこへ行くかは、こちらで命令しない」
「仕事も?」
「黒塔の囚人として命令する仕事は、今日で終わりだ」
そこまで言ってから、机の書類を一枚取った。
「ただし、ここで何をしていたかを証明することはできる」
カレブが眉を上げた。
◇
以前、囚人の前職や技能を記録し始めた時、すでに働いている者についても確認できる範囲で作業内容を残すようにしていた。
カレブは元々、特別な職人ではない。
黒塔へ来る前は荷運びと倉庫仕事を転々としていた。
だが八年間のうち、直近四年は洗濯場。
布を傷めずに汚れを落とす手順。
大物を干す組み方。
石鹸と灰汁の扱い。
冬場に水量を読み違えないこと。
派手な技能ではない。
それでも、四年間続けた仕事だ。
「これは?」
「黒塔で担当した作業の記録だ。四年間、洗濯場勤務。直近二年は懲罰なし。作業放棄もなし」
カレブが紙を見つめる。
「こんなの、外で役に立ちますか」
「分からない」
そこは適当なことを言わない。
「これを持っていけば必ず雇ってもらえる、とまでは言えない。ただ、八年間何をしていたのか説明する時、口だけよりはましだ」
「監獄長の署名入り?」
「監獄の記録として出す。俺個人の推薦状ではない」
「推薦はしてくれないんですか」
「お前が外でどんな働き方をするかまで、俺は知らない」
一瞬きょとんとした後、カレブが小さく笑った。
「そうですよね」
「知っている範囲なら書ける。知らないところまで褒める気はない」
書類には、担当作業と確認期間。
懲罰の有無。
現在確認できる技能。
それだけが書かれている。
善人になったとも、二度と罪を犯さないとも書いていない。
そんなことは誰にも保証できない。
◇
釈放手続きを始めた。
まず身体検査。
最後まで囚人である間に、黒塔の工具や鍵、持ち出してはいけない物を隠していないか確認する。
看守二名が立ち会った。
乱暴に服を剥ぐことはない。
上着。
ズボン。
靴。
布袋。
問題なし。
次に私物の返却。
八年前の入所時に預けた物のうち、硬貨と小さな金属製の首飾りは残っていた。
衣類は劣化が酷く、本人の確認を取ったうえで処分記録へ回す。
「首飾りは?」
グラッドが尋ねる。
「俺のです」
カレブが受け取った。
金属の小さな輪へ、磨り減った板が一枚ついている。
高価な物には見えない。
「誰かの形見か」
俺が何気なく聞くと、カレブは首を横に振った。
「昔、自分で買いました」
「そうか」
「何か立派な話じゃなくて、すみません」
「私物に立派な理由は必要ない」
カレブは首飾りをしばらく掌で見たあと、上着の内側へしまった。
最後に、刑期満了の書類を確認する。
本人の名前。
収監日。
満了日。
未処理の刑罰なし。
ほかの拘束命令なし。
グラッドと俺がそれぞれ確認した。
「これで手続き上は終わりです」
グラッドが言う。
担当看守が、習慣のようにカレブへ向いた。
「では、壁際へ並んで――」
途中で止まる。
自分で気づいたらしい。
カレブも看守を見る。
部屋の空気が一瞬だけ妙になった。
「もう並ばせる必要はない」
俺が言った。
担当看守が姿勢を正す。
「失礼しました」
「癖はすぐには抜けない。次から気をつけてくれ」
「はい」
カレブが自分の手首を見た。
手枷はない。
囚人服でもない。
「……本当に終わりなんですね」
「書類上はな」
「その言い方、もう少し何かないんですか」
「八年間お疲れさまでした、と言えば満足か」
「それはそれで変です」
「だろう」
カレブがまた少し笑った。
◇
外門までは俺とグラッドが同行した。
本来、監獄長が一人の刑期満了者を毎回見送る必要はない。
今回は最初だったからだ。
少なくとも、俺がこの身体になってからは。
中庭を歩いていると、洗濯場の前を通った。
濡れた布が風に揺れ、石鹸と湿った布の匂いが流れてくる。
作業中の囚人が二人、カレブに気づいた。
声を掛けることは禁止していない。
「本当に今日だったのか」
「ああ」
「戻ってくるなよ」
「戻るか」
「分からんぞ。外の飯が不味かったら」
「その時は店を変える」
看守が急かす必要もなかった。
短いやり取りで終わる。
もう一人が、干していた布の陰から顔を出した。
「カレブ」
「何だ」
「昨日、洗濯桶の右側、底が少し割れてた」
カレブが足を止めた。
「それを今言うのか」
「忘れてた」
「水張る前に替えろ。満杯にしてから割れたら全部やり直しだ」
「分かった」
そこまで言った後、カレブ自身が苦い顔をした。
「もう俺が言うことじゃないな」
「今日までは聞いといてやるよ」
洗濯場から笑い声が上がる。
俺たちは再び歩き出した。
◇
外門へ着いた。
朝の光が門の隙間から差し込んでいる。
厚い木戸。
鉄の金具。
俺が最初に見た時から何度も出入りしてきた門だ。
囚人にとっては、まるで別の物に見えるのかもしれない。
門番がグラッドから書類を受け取る。
「カレブ・フォード。刑期満了。持出品確認済み」
「確認しました」
外門の閂が上がる。
ごとり、と重い音。
門扉がゆっくり外側へ開いた。
朝の風が一気に入ってくる。
乾いた草と街道の土の匂い。
黒塔の石壁の中とは違う空気だ。
カレブは動かなかった。
門の外を見ている。
「どうした」
「いや……」
喉が一度動いた。
「八年前は、この門を見たら殺してでも出たいと思ったことがあります」
看守たちの表情が少し固くなる。
カレブは気づいているのかいないのか、そのまま続けた。
「今は開いてるのに、足が動かない」
「閉めるか」
カレブが俺を見た。
「冗談ですよね」
「嫌なら早く出ろ。門を一日中開けておく方が困る」
数秒、俺の顔を見ていた。
それから苦笑する。
「監獄長らしい送り方ですね」
「見送り方の訓練は受けていない」
カレブが一歩出た。
次にもう一歩。
外門の敷居を越える。
誰も止めない。
看守も号令を掛けない。
男は街道へ出たところで振り返った。
「もし仕事が見つからなかったら?」
「黒塔へ犯罪をして戻ってくる、という選択肢だけは勧めない」
「それは俺も嫌です」
「なら、別の方法を探せ」
「簡単に言いますね」
「簡単だとは言っていない」
カレブは黙った。
少しして、頷く。
「行ってきます」
「行ってこい」
男が歩き始める。
最初の数歩は遅かった。
やがて歩幅が広がっていく。
誰も追わない。
◇
「門を閉めます」
門番が言った。
「ああ」
重い扉が再び動き出す。
カレブの背中が少しずつ狭くなる視界の向こうへ消えていった。
最後に鉄の閂が落ちる。
腹に響くような音だった。
「所長」
グラッドが隣で書類を見ている。
「収容人数を訂正します」
「八百四十一だな」
「はい」
昨日まで八百四十二人。
今日から一人減った。
逃げたわけではない。
移送でもない。
刑期を終えて、正面の門から出ていった。
それが本来、一番普通の減り方のはずだった。
「カレブの作業記録の写しは渡したな」
「本人の荷物に入っています」
「なら終わりだ」
「心配ではありませんか」
「何が」
「外でやっていけるか」
俺は閉じた門を見た。
「心配したところで、ここへ戻して面倒を見るわけにはいかない」
「そうですね」
「それに、外でどう生きるかまで監獄長が決め始めたら、そっちの方が怖いだろう」
グラッドが少し笑った。
「確かに」
朝の中庭では、いつもの作業が始まっている。
洗濯場から水を張る音が聞こえた。
誰かが、
「その桶じゃない、右は替えろ!」
と声を上げている。
どうやら最後の忠告は届いたらしい。
俺は執務棟へ戻った。
今日の黒塔には、八百四十一人の囚人がいる。
そして一人は、もう囚人ではなかった。
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