第37話 鑿が一本、戻ってこない
木工場から、鑿が一本消えた。
報告を受けたのは、ベンが材木の下敷きになった翌日の午後だった。
「外門は?」
執務室へ入ってきたグラッドに尋ねる。
「通常どおりです。木工場の六名は全員、その場に残しています。まだ作業終了前なので、外へ出た者はいません」
「工具を最後に確認したのは?」
「昼休憩の後です。その時点では揃っていました」
昨日まで七人だった木工場は、ベンが医務室に入ったため六人になっている。
人数は合っている。
今度は人ではなく鉄の道具が一つ足りない。
「種類は?」
「刃幅の細い鑿です。全長は柄を含めて二十センチほど。木工用ですが、鉄です」
人を刺せる。
扉の隙間をこじることもできる。
木片とは扱いが違う。
「木工場を閉じたままにしてくれ。六人は別々に座らせる。ただし身体検査は看守二名以上で、乱暴にやるな」
「承知しました」
「作業場と材料置き場を先に探す。本人たちから話を聞くのはその後だ」
俺も立ち上がった。
◇
木工場へ着くと、鋸も槌も作業台から消えていた。
すべて施錠棚へ戻されている。
昨日と同じ木屑の匂いがするが、空気はまるで違った。
六人の囚人は壁際に間隔を空けて座らされている。
看守は警棒を手に持っていない。
ただし入口と奥の材木庫、それぞれに二人ずつ立っていた。
床には、作業途中の椅子や箱がそのまま残されている。
「誰も作業場から出していないな」
「はい」
担当看守が答える。
「昼休憩後、工具棚から出した時は?」
「鑿は四本ありました。作業終了前の確認で三本しか戻っていません」
「誰が使ったか記録は?」
看守の顔が曇った。
「個別には付けていません。工具棚を開け、必要な物を作業台ごとに渡しています」
「細い鑿を使っていた者は覚えているか」
「二人います」
視線が壁際へ動いた。
一人は以前から木工場にいる男。
もう一人は北壁の増員から戻ったばかりの男だった。
その瞬間、座っていた囚人の一人が口を開いた。
「戻ってきた奴じゃないですか」
担当看守が振り返る。
「黙っていろ」
「だって、昨日からですよ。あいつが戻ってきてから――」
「今は聞いていない」
グラッドの声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも男は口を閉じた。
北壁から戻った男は何も言わず、膝の上で両手を握っている。
「名前は?」
俺が尋ねる。
「レド・マーシュです」
「レド。今日、細い鑿を使ったか」
「使いました」
声は落ち着いている。
「何に?」
「配膳台車の車輪です。ベンが途中まで直していたやつを、残った者で続けろと言われました。軸受けの溝を削るのに使いました」
「使い終わった後は?」
「作業台へ置きました」
「工具棚へ戻した?」
「俺は戻してません」
「なぜだ」
「まだ作業を続けると思っていたからです」
そこまで言って、レドは担当看守を見る。
「休憩の合図が鳴って、戻った時にはもうありませんでした」
「その時に報告したか」
「鑿がなくなったとは思ってませんでした。誰かが使ってると思ったんです」
あり得る話ではある。
だが、それだけで事実にはならない。
「もう一人は?」
古株の男が顔を上げた。
「俺も使いました。箱の蝶番を直すのに。でも太い方です。細いのは触ってません」
担当看守が眉を寄せる。
「さっきは細いのも使ったと言わなかったか」
「使ったかもしれないって言ったんだ。昨日と混ざってる」
こうなる。
道具を一本ずつ誰へ渡したか残していない以上、人の記憶に頼るしかない。
「先に探す」
俺は六人を見る。
「誰かが持っていると決めているわけではない。作業場に残っている可能性から潰す」
最初にレドを疑った男が、不満そうに口を曲げた。
「でも、なかったら?」
「その時に次を考える」
◇
捜索は、作業台を一台ずつ空にするところから始めた。
引き出し。
木箱。
削り屑を集める桶。
修理途中の台車。
板を立て掛ける隙間。
昨日ベンが挟まれた材木庫も、保守担当を入れて確認した。
木片を乱暴にひっくり返すことはしない。
釘や小さな金具まで散れば、別の危険物を作るだけだ。
看守二人が一組になり、調べた場所へ白い木札を置いていく。
済んだところをもう一度探す無駄もない。
削り屑の桶へ手を入れた看守が、腕を止めた。
「鉄があります」
全員の視線が集まる。
取り出されたのは短い釘だった。
曲がって捨てられたものだ。
「廃材側へ分けろ」
それから半刻ほど探したが、鑿は出ない。
六人の身体と衣服も調べた。
腰布。
靴の中。
袖。
作業着の縫い目。
何もない。
レドにもなかった。
「だから言っただろ」
最初に疑った男へ、レドが低い声を向ける。
「俺は何も――」
「二人とも黙れ」
担当看守が間へ入った。
今度は言葉だけで止まった。
俺は修理途中の配膳台車を見る。
昨日は片側の車輪だけ交換されていた。
今日は反対側の軸受けを調整している。
「台車そのものは見たか」
「下と荷台は確認しました」
「車輪を外したか?」
「そこまでは」
木工場の残り五人が一斉に台車を見る。
「動かすぞ」
床へ倒さない。
看守と保守担当で荷台を支え、片側だけ少し持ち上げる。
車輪をゆっくり回す。
ごり、と途中で鈍い抵抗があった。
「止めろ」
レドが立ち上がりかけた。
看守が手を出す前に、自分で座り直す。
「軸の内側です」
「見えるのか」
「違います。今日、そこが引っ掛かってたんです。だから削ってました」
ランタンを低くする。
軸受けの奥には、削った木粉が詰まっている。
だが鑿は見えない。
「外せます」
レドが言う。
「本人には触らせない」
俺が答える。
「やり方だけ説明してくれ」
「車輪の外側の楔を抜いて、軸を少し持ち上げます。急に引いたら荷台が落ちます」
保守担当が言われた通りに進める。
楔が抜け、車輪が軸から外れた。
木粉がぱらぱらと床へ落ちる。
その中にも鑿はない。
「違ったか」
グラッドが呟く。
レドが首を横へ振った。
「まだです。その奥に木栓が――」
そこまで言った時、保守担当が手を止めた。
「何か噛んでる」
細い鉤を入れる。
引き出されたのは、鑿ではなかった。
割れた木の柄。
長さは拳一つ分ほど。
担当看守の顔色が変わる。
「これ……」
木工場の隅に座っていた一人が、俯いた。
◇
四十前後の痩せた男だった。
名をドラスという。
木工場に入って一年近い。
「説明しろ」
グラッドに言われ、しばらく黙っていた。
やがて、膝の上で握っていた手を開いた。
「折りました」
「何を」
「鑿です」
木工場が静かになる。
外から風が入り、窓枠に残った木粉がさらさらと床へ落ちた。
「いつだ」
「昼の少し前です」
「どうやって?」
「固い節をこじったら、柄が割れました。刃の方が飛んで、台車の下へ入ったと思って……」
「思った?」
「探しました。でも休憩の鐘が鳴って、見つからなくて」
「なぜ報告しなかった」
ドラスの口が動いた。
声が出るまで少しかかった。
「昔は、道具を壊したら班全員が飯を減らされました」
誰も口を挟まなかった。
「見つからなかったら、もっと酷かった。だから柄だけ先に捨てれば……刃が後で見つかっても、誰が壊したか分からないと思って」
「鑿の鉄部分はどこだ」
「分かりません」
「隠したわけではない?」
「違います」
ドラスが初めて顔を上げた。
怯えというより、腹を決めた顔だった。
「そこは本当です。折れたのを隠そうとはしました。でも、刃を持って逃げようとか、誰かに渡そうとか、そういうつもりじゃありません」
「それを今ここで信じろとは言わない」
俺は台車を見る。
「まず鉄の方を見つける」
◇
今度は修理箇所が絞れた。
ドラスが作業していた場所を確認する。
台車ではない。
食堂で使う長椅子だった。
脚の一本に大きな節がある。
そこへ割れた鑿跡が残っていた。
「どちらへ飛んだ」
「こっちです」
ドラスが指だけで方向を示す。
看守が椅子を動かす。
床には細い隙間。
板張りではなく、大きな石板を並べた古い床で、継ぎ目に木屑が溜まっている。
ランタンを近づけると、奥で一瞬だけ光が返った。
「ある」
細い鉄鉤で木屑を掻き出す。
黒ずんだ鑿の刃が出てきた。
刃先が欠け、柄を差していた部分だけがむき出しになっている。
グラッドが布の上へ置いた。
「確認」
担当看守が工具台帳を見る。
刻印番号が一致した。
ようやく、なくなった一本が戻った。
レドが長く息を吐く。
最初に彼を疑った男は、気まずそうに目を逸らしている。
「これで終わりですか」
ドラスが尋ねた。
「鑿の捜索はな」
「俺は?」
「別だ」
当然だ。
「道具を壊したこと自体では処分しない」
ドラスが少し顔を上げる。
「仕事に使えば道具は壊れる。普通に使って折れたなら、破損として報告すればいい」
「でも俺は隠した」
「ああ」
そこは分ける。
「鉄の刃が一本、所在不明になると分かっていて黙った。そのせいで作業場を閉じ、六人全員の身体と持ち物を調べることになった。そこは事故ではない」
ドラスは黙って聞いていた。
「正式な処分は記録を確認して決める。ただ、少なくとも当面は木工場から外す」
「分かりました」
「通常食は変えない。医務も必要なら使える」
ドラスの顔に何か浮かび、すぐ消えた。
「……飯は減らさないんですか」
「鑿を隠したら腹が減らなくなる理由でもあるのか」
木工場の端で、誰かが小さく息を漏らした。
笑ったらしい。
「ありません」
「なら減らさない」
ドラスが頭を下げた。
◇
残ったのは、レドの方だった。
工具が見つかり、作業再開の準備をしているところへ、最初に疑った男が近づいた。
看守が様子を見る。
俺も止めずにいた。
「悪かった」
男が言う。
レドは返事をしない。
「昨日戻ってきたばっかりだったから……」
「だから俺だと思った?」
「ああ」
「便利だな」
低い声だった。
男が顔をしかめる。
「謝ってるだろ」
「聞いた」
「なら――」
「謝ったら、俺が笑って許さないと駄目なのか」
空気が少し張った。
担当看守が一歩だけ近づく。
警棒へ手は掛けていない。
「そこまでだ」
男が反論しかける。
「殴り合いになる前に止めている。話すなら声を落とせ」
二人とも黙った。
レドは数秒してから視線を外す。
「今日は話したくない」
「なら離れろ」
看守がそれぞれ別の作業台へ戻した。
それで終わった。
謝罪した。
だから仲直り。
そんな都合よく人間は切り替わらない。
少なくとも、殴り合いにはならなかった。
◇
工具の扱いをどうするかは、夕方にグラッドと木工場担当者で決めた。
「一本ずつ誰へ渡したか書くとなると、現場の負担は増えます」
担当看守が言う。
「木槌まで全部やる必要はない」
俺は工具表を見る。
「無くなった時に危険な物だけでいい。鑿、錐、鋸、刃物類。貸した相手の名前を横へ書いて、戻ったら線を引く」
「破損した場合は?」
「破片まで戻す」
グラッドが付け加える。
「見つからない破片があるなら、その場で申告させます」
「それでいこう」
複雑な帳簿は要らない。
危険な物が、今誰の手にあるか分かればいい。
「ドラスの処分は?」
グラッドが尋ねた。
「過去の懲罰記録は?」
「直近一年はありません」
「木工場から外すだけでは軽いか」
「意図的に所在を隠した以上、正式な規律違反として残すべきでしょう」
そこは俺も同意した。
逃亡や暴行目的ではない。
だが危険な鉄製工具が消えたことを知りながら黙っていた。
「懲罰房二日。通常の食事、水、寝具、医務は変えない。期間中は房内で安全な作業。終了後の配置は改めて決める」
「二日で?」
「事故で壊した分まで足すつもりはない」
「承知しました」
グラッドが記録へ書き込んだ。
◇
夕食前、木工場をもう一度通った。
六人から一人減り、五人で片づけをしている。
レドは修理途中の配膳台車を布で拭いていた。
担当看守の前では、別の囚人が木槌を差し出している。
「これ、柄に割れ目があります」
看守が受け取った。
「いつ気づいた」
「今です。振った時に少し動きました」
看守が柄を確認する。
「分かった。破損で記録する。今日は使うな」
「はい」
それだけだった。
飯を減らす話も、誰が壊したと怒鳴る声もない。
囚人は予備の木槌を受け取り、自分の作業台へ戻っていった。
レドがその様子を横目で見ている。
「監獄長」
「何だ」
「昨日までだったら、あいつ黙ってたと思いますよ」
「昨日まで?」
「もっと前、って意味です」
「紛らわしい言い方をするな」
「すみません」
レドは台車の車輪へ手を当て、軽く回した。
滑らかに一周する。
「ベンが戻るまでには直せそうです」
「急いで雑に仕上げるな。厨房には別の台車で回してもらっている」
「分かってます」
「それならいい」
木工場を出る。
背後で工具を棚へ戻す音が続いていた。
金属が木枠へ収まるたび、一つずつ番号が読み上げられる。
道具は壊れる。
人間は間違える。
そこまでは止められない。
ただ、壊したことを隠した方が得になる場所にしておけば、小さな破損はいずれ大きな穴になる。
廊下へ出たところで、木工場の扉が閉じた。
今日は、鑿が四本とも棚へ戻っている。
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