第36話 一人足りない。門を閉めろ
夕方の点呼が始まって間もなく、執務室の扉が強く叩かれた。
「所長」
入ってきたグラッドの顔を見ただけで、いつもの報告ではないと分かった。
「どうした」
「一名、所在が確認できません」
椅子を引いた。
「誰だ」
「ベン・ローダーです」
家具職人だった男だ。
木工場で働かせている。
「最後に確認された場所は?」
「木工場です。午後の作業には入っています。ただし、終了時の確認にいません」
「外門を閉めろ。出庫待ちの荷車も動かすな」
「すでに止めています」
さすがに早い。
「各棟の点呼はやり直す。ただし全員を中庭へ出すな。今いる場所で名前まで確認しろ。作業場、医務室、懲罰房、高警戒区画もだ」
「手配済みです」
「なら木工場へ行く」
◇
夕暮れの中庭には、いつもと違う空気が流れていた。
騒ぎにはなっていない。
看守も走り回ってはいない。
だが外門は閉じられ、その手前では食料商人の空荷車が二台止められている。
御者の一人が不満そうに腕を組んでいたが、門番と揉めてはいなかった。
囚人たちは各棟で点呼中だ。
遠くから名前を呼ぶ声が響き、それに応える声が石壁へ反射している。
木工場へ近づくにつれ、木屑と油の匂いが濃くなった。
入口では担当看守が青い顔をして待っている。
「監獄長」
「順番に話せ。ベンを最後に見たのはいつだ」
「午後の作業中です。厨房用の配膳台車の車輪を直していました」
「一人だったのか」
「いいえ。木工場には六名いました。そこへ北壁から元の配置へ戻った囚人が一名、今日から復帰しています」
昨日、北壁の増員十二人を元の持ち場へ戻した。
そのうちの一人が木工場だったわけだ。
「七人いた?」
「午後は七人です」
「作業終了時は?」
看守の顔がさらに硬くなる。
「六人いることを確認して……揃っていると思いました」
「名前は確認しなかったのか」
「……していません」
理由が見えた。
北壁へ一人出していた間、この木工場は六人で動いていた。
その感覚のまま人数だけ数えた。
戻ってきた一人が加わったことで、ベンが抜けても六人いる。
「復帰した囚人の名前は?」
看守が答える。
「そいつはいるのか」
「はい。房へ戻っています」
「他の五人も?」
「確認済みです」
つまり、木工場から消えたのはベンだけだ。
グラッドが作業記録を開く。
「工具は?」
「すべて戻っています。刃物、金槌、錐、鋸、数は合っています」
「服装は通常の作業着。外套なし。外門の通過記録も当然なし」
「はい」
「木工場から直接外周へ出られる場所は?」
「ありません」
それでも、いない。
「中をもう一度見る」
◇
木工場には、削ったばかりの板の匂いが残っていた。
窓際の作業台には細かな木屑。
壁の工具掛けは空になっており、道具は施錠棚へ戻されている。
修理中だった配膳台車もあった。
片側だけ新しい車輪が入り、木製の軸受けにはまだ削り跡が白く残っている。
「これをベンが?」
「はい」
担当看守が答える。
「午後遅くまで、この台車を触っていました」
「その後は?」
「交換する軸材を探しに、奥の材木庫へ行ったと思います」
「思う?」
「本人がそう言っていたのは聞きました。ただ、入るところまでは見ていません」
奥を見る。
作業場のさらに先に、小さな扉があった。
「材木庫は確認したか」
「一度しました。誰もいませんでした」
「どこまで入った」
看守が黙った。
グラッドが扉へ向かう。
「鍵は?」
「掛けていません」
開ける。
ぎい、と蝶番が鳴った。
中は薄暗い。
ランタンを持った看守が先に入り、俺たちが続く。
壁沿いに板材が立てられ、奥には太い角材が横積みにされている。
乾いた木の匂いが強い。
「ベン!」
グラッドが呼ぶ。
返事はない。
一歩進んだ時だった。
奥から、ごん、と何かを叩く音がした。
全員が止まる。
もう一度。
ごん。
「そっちだ」
角材の山を回り込む。
その向こうには、さらに小さな資材置き場へ続く細い通路があった。
ランタンを向ける。
「……監獄長」
低い声が返ってきた。
ベンだった。
◇
倒れた板材の向こうに、ベンが座り込んでいた。
太腿から下が見えない。
長い板が何枚も崩れ、その上に角材が一本乗っている。
「動くな」
グラッドが言う。
「動けるなら、とっくに出てますよ」
声には力がある。
意識もしっかりしている。
「どこを挟まれている」
「右の脛です。足先は動きます。ただ、板を引っ張ると余計に重くなる」
俺は積み方を見る。
上に乗った角材を先にどけないまま板を引けば、確かに全部落ちる。
「人を呼べ。保守担当とラッセルも」
「はい」
看守が走っていく。
ベンが息を吐いた。
「ずいぶん大事になりましたね」
「一人足りなければ門を閉める。当然だ」
「逃げるつもりなら、材木の下敷きになる場所は選びませんよ」
「笑えない。黙って待っていろ」
「承知しました」
まだ冗談を言う余裕はあるらしい。
それでも額には汗が浮いていた。
秋に近い冷えた夕方だ。
暑さの汗ではない。
◇
救出には十五分ほどかかった。
角材を直接持ち上げず、保守担当が短い丸太を支点にして少しずつ荷重を逃がす。
木がきしむたび、材木庫の空気まで張り詰める。
「そのまま。右を上げすぎるな」
ベン自身が指示した。
家具職人だけあって、どこへ力を掛ければ板が崩れるか分かっている。
「今です。下の二枚だけ抜けます」
ドニではない保守担当の職員が二枚を滑らせる。
隙間が広がった。
「ベン、足を抜けるか」
「やります」
「無理ならやめろ」
ベンが身体を後ろへずらす。
顔が歪んだ。
右脚が板の間から抜けたところで、二人の看守が脇を支える。
「立つな」
遅れて入ってきたラッセルがすぐ止めた。
「そのまま座らせろ」
床へ毛布を敷き、ベンを寝かせる。
靴を脱がせると、脛から足首にかけて赤黒く腫れ始めていた。
ラッセルが指先を動かさせ、足の感覚を確かめる。
「痛む場所は?」
「脛の外側が一番です」
「ここは?」
「痛いですが、さっきよりはましです」
ラッセルは押しすぎない。
「明らかな変形はない。ただし、それだけで骨に異常がないとは言えない。今日は歩かせません」
「仕事は?」
「するな」
ベンが渋い顔をする。
「台車の車輪が片方――」
「明日まで片輪でも人は死なない」
ラッセルが遮った。
「今夜は医務室で様子を見る。腫れと痛みを見て、その後を決めます」
ベンは諦めたらしい。
「分かりました」
◇
材木が崩れた理由も、その場で大げさな謎にはならなかった。
壁へ立て掛けていた長板の束を縛る縄が一本切れている。
刃物で切った跡はない。
古くなった麻縄が毛羽立ち、途中から千切れていた。
「ベンが奥から軸材を抜こうとした時に、隣の束が動いたようです」
保守担当が言う。
「積み方にも問題があります。長さ別にはしてありますが、倒れ止めが足りません」
「誰かが仕掛けた形跡は?」
グラッドが尋ねる。
「見当たりません」
「なら、今の時点でそれ以上は言わなくていい」
事故を見つけるたびに悪意を探していたら、何も進まない。
「今日は材木庫を閉める。明日、保管方法を見直してから使え」
「承知しました」
問題はもう一つある。
俺は担当看守を見る。
「作業終了時、人数が六人だったから揃っていると思った」
「はい」
「北壁から一人戻ったことは知っていたな」
「知っていました」
「それでも昔の人数で確認した」
看守が唇を噛む。
「申し訳ありません」
「事故を起こしたのはお前ではない。ただ、確認を抜かしたのは別の話だ」
「はい」
「ベンを探し始めるのが点呼まで遅れた。そこは記録に残す」
頭を下げる。
「処分は?」
グラッドが聞いた。
「今ここで決めない。勤務記録と引継ぎを見てからだ」
人数を間違えた。
だから即座に何日停職。
そんな決め方をするために運用を変えてきたわけではない。
ただし、なかったことにもしない。
◇
中庭へ戻る頃には、日はほとんど落ちていた。
各棟から再点呼の結果が集まっている。
グラッドが最後の紙を受け取った。
「確認できました」
「総数は?」
「八百四十二名です。ベンは医務室へ移送済みとして計上しています」
「外門を開けろ」
門番へ伝令が走る。
止められていた荷車の御者が、ようやく手綱を握り直した。
木製の外門が軋みながら開き、夜の冷たい空気が中庭へ流れ込む。
一時間も止めていない。
それでも商人には迷惑を掛けた。
「出庫時刻を記録しておけ。遅れた理由もだ」
「承知しました」
グラッドが答える。
荷車が一台ずつ門を抜けていく。
車輪の音が遠ざかってから、グラッドが口を開いた。
「昔なら、全体の頭数が合えば終わっていたかもしれません」
「今日は頭数そのものが足りなかった」
「木工場では、六人いたから揃っていると思った」
そちらの話か。
「北壁から人を戻したことで、現場の『いつもの人数』が変わった」
「はい」
「配置を変えた側が、受け入れる側の確認方法まで変えていなかった」
そこは俺の仕事でもある。
「明日から、作業終了時は名前で引き渡す。全作業場へ一斉に複雑な帳面を増やす必要はない。始業時の名簿と照らして、戻った者へ印を付ければいい」
「途中で医務室へ移った者は?」
「移送先と付き添った看守を書けば足りる」
「臨時の配置変更は?」
「その日の名簿に足す」
グラッドが頷く。
「これなら現場でも回せます」
「回らない仕組みを作っても、また書かなくなるだけだからな」
俺たちは執務棟へ向かった。
◇
その前に医務室へ寄った。
ベンは寝台の上で右脚を高くしていた。
布越しに冷やしている。
「どうだ」
「逃亡は失敗しました」
俺は足を止めた。
「その冗談は今日だけにしろ」
「では、真面目に。痛いです」
「最初からそう言え」
ラッセルが記録を書きながら口を挟む。
「腫れは増えていますが、足先の感覚と動きは保たれています。今夜はこのまま安静。明朝もう一度診ます」
「北壁へ回せるような怪我ではないな」
ベンが嫌そうな顔をした。
「壁へ行く話はしてませんよ」
「追加の飯はもう出ないぞ」
「なおさら行きません」
四十男らしい、乾いた返しだった。
ラッセルが呆れたように息を吐く。
「しばらく仕事の話をやめてください」
「分かった」
俺はベンを見る。
「材木庫の積み方を直す時、お前の意見は聞く。ただし歩けるようになってからだ」
「寝たままでも言えます」
「現物を見ずに決めるな」
そう言うと、ベンは少しだけ笑った。
「それは監獄長に言われると効きますね」
「余計なところだけ覚えているな」
医務室を出た。
◇
廊下の窓から中庭を見る。
点呼を終えた各棟は静かになり、看守が一人ずつ所定の持ち場へ戻っている。
八百四十二人。
全員いる。
数字だけなら、それで終わりだ。
だが木工場には六人いた。
いつもの人数も揃っていた。
それでも、いるべき男はそこにいなかった。
人員配置を変えれば、紙の上だけではなく現場の感覚も変わる。
北壁から十二人を戻しただけで、こんなところに歪みが出るとは思っていなかった。
明日から名簿が一枚増える。
派手な改革でも何でもない。
それでも今日、ベンを見つけるのがあと少し遅ければ、暗い材木庫で一晩過ごさせるところだった。
外門の閂が下ろされる重い音が、夜の黒塔に響いた。
今夜は、八百四十二人全員が中にいる。
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