第35話 壁が直ると、飯が減る
三日後、北壁の危険区画から最後の仮支柱が外された。
朝の冷気が残る中、太い木材が二人がかりで引き抜かれる。湿った土と新しく削った木の匂いが混じり、石壁の向こうでは主排水を流れる水音が低く続いていた。
ノエラは壁から十歩ほど離れ、腕を組んだまましばらく動かなかった。
「どうだ」
俺が横へ並んでも、すぐには答えない。
壁の根元、石の継ぎ目、その下を流れる排水。順番に目で追ってから、ようやく息を吐いた。
「応急段階は終わりです」
「応急?」
「北壁全部が新品になったわけではありませんから」
「分かっている。崩れかけていた箇所は?」
「今すぐ崩れる状態ではなくなりました」
それで十分大きい。
最初に見た時、この一帯は基礎の下へ水が回り、石積みの内側まで土が緩んでいた。壁の表面だけ直していれば、いずれ重みに耐えられなくなっていたはずだ。
今は水が抜けている。
補修した八メートルの基礎も落ち着き、新しい排水格子も入った。
ドニが少し離れた場所で石槌を腰へ戻す。
「昨夜の見回りでも動きはありませんでした」
「石の浮きも?」
「なしです」
バルクも排水口から戻ってきた。
「水量も昨日と大して変わりません。泥も増えてないです」
ノエラが頷く。
「ですから、人を減らします」
「何人まで?」
「十二人」
今は二十四人。
最初に組んだ十二人へ、土運びや石材搬送のためにさらに十二人を加えた形だ。
「半分で足りるのか」
「大きな掘り返しは終わりました。これからは石積みの仕上げと排水の経過確認が中心です。二十四人いたら、働く場所より人の方が多くなります」
「分かった。増員した十二人は元の配置へ戻す」
後ろで資材を片づけていた何人かが、こちらを見た。
聞こえたらしい。
特に反応はない。
その時はそう思った。
◇
問題が出たのは昼だった。
食堂へ入ると、いつもより列の進みが少し遅い。
煮込んだ豆と芋の匂いが湯気に乗り、木皿のぶつかる乾いた音があちこちから聞こえる。厨房係が大鍋をかき混ぜるたび、柄杓が鍋肌へ当たって鈍く鳴った。
列の脇でグラッドが一人の囚人と話している。
言い争ってはいない。
ただ、男の顔には明らかに不満が出ていた。
「どうした」
近づくと、グラッドが振り返った。
「北壁の増員を明日から元の配置へ戻す件です」
四十代くらいの囚人が、俺を見て頭を下げるでもなく立っている。
無礼というほどではない。
何か言いたい顔だ。
「話して構わない」
そう言うと、男は厨房の方へ一度目をやった。
「明日から、重労働の追加分はなくなるんですか」
「北壁で重労働をしなくなるなら、その分は付かない」
「通常の飯まで減らすわけじゃないんですよね」
「ああ。通常食は変えない」
男は少し考えたあと、眉間へ皺を寄せた。
「それなら、俺は北壁に残れませんか」
「理由を聞こう」
「追加の飯があるからです」
ずいぶん率直だ。
周囲にいた何人かが、こちらへ視線を向ける。
看守が口を挟もうとしたので、手で止めた。
「他にも同じ考えの者がいるのか」
男が後ろを見る。
増員組らしい数人が、微妙な顔をした。
一人が肩をすくめる。
「俺も、残れるなら残りたいです」
別の男も頷いた。
「石運びはきついですけど、追加が出るなら悪くない」
なるほど。
仕組みとしては間違っていない。
重い石や土を何時間も運ばせるなら、それだけ食わせる必要がある。だから実際に重労働をした日に追加配給を出すようにした。
ところが、食事が増える以上、その仕事を選びたがる人間も出る。
「北壁へ行けば飯が増える、と思っているのか」
俺が聞くと、最初の男は少し迷ってから答えた。
「実際、増えてますから」
「正確には、北壁だからではない。重い物を運んだ分だ」
「同じじゃないですか」
「明日から違う」
男が黙る。
「大きな土運びと石材運搬が終わる。残る十二人も、重労働をしていない日は追加が付かない」
「残る奴も?」
「ああ」
その辺りは最初から変えていない。
所属する班の名前ではなく、実際の作業で決める。
「北壁に名前だけ残せば毎日追加が出る、という扱いにはしない」
男は唇を引き結んだが、怒鳴りはしなかった。
「じゃあ、仕事が終わったら損ですね」
「損ではない。消費する分が減る」
「腹は同じように減りますよ」
それはそうだろう。
人間は数字どおりに腹を空かせてくれない。
横でグラッドが少しだけ視線を落とした。笑ったわけではないが、俺も返事には少し困った。
「通常食で足りていないという話なら、別に確認する」
「足りないとは言ってません」
「なら、追加分が欲しいという話だな」
「そうです」
男はそこで少しだけ笑った。
ようやく話が分かりやすくなった。
「欲しいのは理解した。ただ、食わせるためだけに必要のない重労働を作るつもりはない」
「そりゃそうでしょうけど」
「元の配置に戻ってくれ。今後、北壁や別の補修で人手が必要になれば、今回の経験は残しておく」
「また呼ばれる可能性はある?」
「必要があって、条件が合えばな」
約束はしない。
男もそこは分かったらしい。
「分かりました」
列へ戻ろうとして、一度だけ振り返る。
「監獄長」
「何だ」
「北壁の仕事、飯だけが理由じゃないですよ」
予想外だった。
「石運んで、土掘って、毎日同じでしんどかったですけど……直っていくのが見えたんで」
言い終わると、今度こそ列へ戻っていった。
後ろにいた二人も続く。
グラッドが小さく息を吐いた。
「追加配給だけが目的ではなかったようですね」
「だからといって、必要のない十二人を残す理由にはならない」
「はい」
「ただ、北壁の経験は記録しておいてくれ。運搬だけではなく、石材選別や支保を覚えた者がいれば分けておく」
「確認します」
そこまでで十分だ。
仕事が上手くなった人間へ、仕事を作ってやる必要はない。
次に必要になった時、最初から素人を集め直さなければいい。
◇
午後、ノエラへその話をすると、露骨に嫌そうな顔をされた。
「十二人、残せと言わなかったでしょうね」
「言っていない」
「ならいいです」
「ずいぶん信用がないな」
「監獄長は時々、人を増やせば早くなると思っていますから」
「最近は学んだ」
「最近は、ですか」
「昔の話を掘るな」
ノエラが鼻で息を吐き、手元の板へ視線を戻した。
北壁の簡単な作業表だった。
「残す十二人は、最初から壁側に入っていた組でいいのか」
「基本はそれで構いません。ただ、一人だけ入れ替えたいです」
「誰を?」
ノエラが名前ではなく、作業記録を示した。
増員組の一人。
最初は土砂運搬だけだったが、途中から支柱の設置を手伝っている。寸法を覚えるのが早く、指示なしで動かず、危険箇所へ勝手に入らない。
「技能が高い?」
「そこまでではありません」
「では、なぜ残す」
「言ったことを守るからです」
実務ではかなり大事だ。
「代わりに誰を戻す」
「最初の十二人の中で、壁側より運搬の方が向いている者が一人います。その人を元へ戻します」
「本人たちへ説明できるか」
「できます」
「なら任せる」
ノエラが顔を上げた。
「監獄長が決めなくていいんですか」
「お前が作業責任者だろ」
「ようやく覚えましたね」
「その台詞は何度目だ」
「必要なくなるまで言います」
どうやら、まだ信用は回復していないらしい。
◇
夕方には、北壁の人員変更が伝えられた。
残る十二人。
元の配置へ戻る十二人。
食事についても、
《重労働の追加配給は、その日に対象作業を行った者へ出す》
という元からの扱いを改めて確認した。
北壁に所属しているかどうかでは決めない。
採石場でも同じだ。
増員組から文句が出るかと思ったが、大きな揉め事にはならなかった。
代わりに、朝とは違う空気があった。
作業場の片隅で、戻る者たちが使っていた手押し車を洗っている。
木の車輪へこびりついた泥を削り、水を掛ける。
ざばっ、と流れた泥水が排水溝へ吸い込まれていった。
その横ではドニが槌を一本ずつ確認し、欠けた柄へ印をつけている。
「それも戻すのか」
「予備以外は」
「数は?」
「今ので最後です」
看守が工具表と照合し、一本ずつ数える。
不足なし。
俺は壁へ近づいた。
補修した石積みは、周囲よりわずかに色が明るい。時間が経てば汚れ、元の壁と区別がつかなくなるだろう。
足元では水が細く流れている。
新しく入れた鉄格子の向こうへ、そのまま抜けていく。
ゲームの中では、ここが崩れた。
北壁の一部が落ち、混乱の中で囚人が外へ溢れた。
アルヴァンはその混乱を利用して大脱獄を組み立てる。
俺は最初に殺される。
頭の中にあるのは、それだけだ。
どういう音で壁が崩れ、誰が最初に走り、どこで看守が押し切られたかまで知っているわけではない。
ただ、今目の前にある壁は、最初に見た時とは違う。
「監獄長」
横からノエラが来た。
「まだ眺めているんですか」
「崩れないか確認している」
「見ただけで分かるなら、私の仕事がなくなります」
「それは困るな」
「こちらも困ります」
ノエラが壁を軽く叩いた。
「これで終わりではありません。沈み方、排水、継ぎ目を定期的に見ます。異常が出たらまた止めます」
「それでいい」
「ただし、以前みたいに一気に崩れる可能性はかなり下がったと思います」
その一言は大きかった。
「かなり、か」
「絶対と言ってほしいなら、別の人を雇ってください」
「いや。お前でいい」
「なら、かなりです」
十分だ。
◇
日が沈む頃、戻る十二人が作業場を出た。
朝、追加配給について尋ねてきた男もいる。
俺を見ると、足を止めた。
「明日は元の仕事へ戻ります」
「そうしてくれ」
「また壁が壊れたら呼んでください」
「縁起でもないことを言うな」
男が笑った。
「じゃあ、別の壁で」
「壊す前提にするな」
「修理ですって」
「分かっている」
今度は周囲の何人かも笑った。
看守が急かすこともなく、決められた列へ戻していく。
その背中には、数日前まで白い石粉と泥がべったり付いていた。
今日はかなり綺麗になっている。
俺は北壁を振り返った。
大脱獄そのものが消えたわけではない。
八百四十二人を閉じ込めている以上、壁を一枚直したところで終わる話ではない。
それでも、俺が知っている未来で最初に崩れるはずだった場所は、もう同じ状態ではなかった。
夕暮れの中、排水路を流れる水だけが静かに音を立てていた。
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