第34話 水は通せ。人は通すな
王都の三人が黒塔を出たのは、朝の点呼が終わって間もなくのことだった。
外門の前には三頭の馬と、小型の荷馬車が待っている。
夜のうちに冷えた石畳にはまだ薄く水が残り、蹄が動くたびに泥が跳ねた。
ローデンは外套の留め具を締めると、俺へ一枚の受領書を差し出した。
「こちらで確認した資料の一覧です。原本はすべて返却済み。持ち帰るのは、許可を得て作成した写しだけです」
「確認しました」
「アルヴァン・ギレスの死刑執行停止は、王都で判断が出るまで継続を求めます」
「分かりました」
「バルト、ヘルム、ルースの件についても報告します。ただし、昨日説明した通り、三名を一つの事件として扱う内容ではありません」
「それで構いません」
ローデンが少しだけ目を細める。
「監獄長が構うかどうかで決めるものではありませんが」
「それもそうですね」
「通常業務へ戻ってください」
「言われなくても、そのつもりです」
荷馬車の御者が手綱を持ち直す。
革がきしみ、馬が白い息を吐いた。
ローデンは乗り込む前に黒塔を一度振り返った。
「次に来る時、何も増えていないことを願います」
「囚人の数ですか、問題の数ですか」
「後者です」
「それは俺も願っています」
無理だろうな、とは口にしなかった。
三人を乗せた荷馬車が外門を抜けていく。
車輪の音が街道の方へ遠ざかるのを聞きながら、俺は肩を回した。
これでようやく王都の事情聴取から解放される。
そう思ったところで、背後から足音が来た。
「所長」
グラッドだった。
「北壁から至急確認してほしいとの連絡です」
「問題が増えないことを願った直後なんだが」
「ローデン殿には聞こえていません」
「ならいい。行こう」
◇
北壁では、補修した基礎そのものに異常はなかった。
問題は、その下だ。
ノエラが壁際の地面に膝をつき、石板の隙間へ細い鉄棒を差し込んでいる。
周囲の作業は止められていた。
囚人たちは少し離れた場所で石材を選別し、荷車へ積んでいる。
「何があった」
「昨日までに補修した部分は安定しています」
「では?」
「水が逃げません」
ノエラが立ち上がった。
鉄棒の先が黒く濡れている。
「基礎の外側だけ直しても、排水が死んだままだとまた同じことになります。ここに溜まった水が地盤へ回れば、時間をかけて下を緩めます」
最初に見つかった十二本の排水路。
外側の出口が石と瀝青で塞がれていたやつだ。
「塞がれている排水路を戻す必要がある?」
「全部ではありません。細い枝は掃除すれば使えます。ただ、北側の水をまとめて外へ出す主排水が二本あります」
ノエラが壁に沿って歩き出す。
ドニが鉄の棒と槌を持って後ろについた。
十数歩先で止まる。
「この下です」
地面近くの石積み。
見ただけなら壁の一部にしか見えない。
だが、よく見ると周囲より新しい色の石が四枚、長方形に詰められている。
隙間には黒い瀝青。
「これを外すのか」
「はい」
「大きさは?」
「中の通路は、幅がおよそ五十センチ。高さは七十センチ近くあります」
グラッドが俺を見る。
俺も同じことを考えた。
「人が通れるな」
「小柄な人間なら普通に。大人でも肩を縮めれば進めます」
ノエラは平然と答えた。
「なぜそんな大きさなんだ」
「掃除のためでしょう。泥や木の枝が詰まった時、人が中へ入れるように作られています」
合理的ではある。
監獄でなければ。
俺は塞がれた石を見る。
「出口は外まで一直線か」
「曲がっています。ただ、外へ繋がっています」
「途中に格子は?」
「本来はあったと思います」
ノエラが石枠の内側を指した。
「固定具を差す溝が残っています。ただ、今あるかどうかは塞ぎ石を外さないと見えません」
「囚人には外させるな」
グラッドがすぐに看守へ指示を出す。
「この周辺から作業班を離せ。壁際は職員だけにする」
「承知しました」
看守が声を掛け、近くにいた囚人を石材置き場の方へ移動させる。
不満の声は出なかった。
何人かがこちらを振り返ったが、作業そのものは続いている。
ノエラが腕を組んだ。
「開けなければ排水できません」
「分かっている」
「塞いだまま補修を終えたことにはできませんよ」
「それも分かっている」
「なら話は早いですね」
「水だけ通したい」
ノエラが眉を上げた。
「人は通すな、ですか」
「そういうことだ」
◇
その場で塞ぎ石を外すことはしなかった。
まず図面ではなく、現物を測った。
二本ある主排水路はどちらも人間が入れる大きさだった。
ほかの十本はそれより細く、一番太いものでも肩を入れるのは難しい。
「主排水だけ対策すればいいわけではありません」
グラッドが言う。
「細い方も、腕を差し込めるなら工具や物を受け渡せます」
「そうだな」
脱獄は人間一人が通れれば成立する、というほど単純でもない。
外から縄や工具を入れられる穴も困る。
「全部、内外両方を確認する」
「外側へ回る人員を出します」
「囚人は連れていくな」
「当然です」
ノエラが横から口を挟む。
「確認が終わるまで、私は基礎の次工程を止めます」
「どれくらい止まる」
「排水をどうするか決まるまでです。見切り発車して、また掘り返したくありません」
「分かった」
昨日までなら、壁が直ってきたことを喜んでいたところだ。
だが水の出口を戻せば、人の出口まで作ることになる。
ゲームの中では、北壁の崩落が大脱獄のきっかけだった。
その崩落を防いでも、監獄という場所には逃げ道になり得るものがいくらでもある。
壁しか見ていなければ、別の穴から抜かれる。
◇
昼前には、外側の確認結果も上がってきた。
主排水路二本の出口は、どちらも同じように石で塞がれている。
問題は、古い格子だった。
「一つは残っています」
グラッドが机の上へ簡単な見取り図を置いた。
「ただし、鉄棒が二本折れています。錆も酷く、手で揺らしただけで動くそうです」
「もう一つは?」
「格子そのものがありません」
「固定跡だけ?」
「はい」
誰が外したのか。
いつ外したのか。
そこへ話を飛ばすのは簡単だ。
だが今それを始めても、また二十年前の帳面を掘り返すことになる。
「意図的に外されたとは決めない」
「老朽化で撤去した可能性もあります」
グラッドも同じ考えだった。
「重要なのは、今使えないことです」
「そうだな」
机の向こうにはノエラも座っている。
珍しく土のついていない服だったが、指先にはまだ黒い汚れが残っていた。
「新しい格子を入れれば済むか」
俺が尋ねる。
「格子だけなら」
「排水としては?」
「泥と枯れ枝が引っ掛かります。目を細かくしすぎると詰まります」
「人を通さないために狭くすると、水が止まる?」
「正確には、ゴミが止まります。清掃しなければその後に水も止まります」
なるほど。
防犯だけ考えて目の細かい鉄格子を入れれば、数年後にはまた水が溜まる。
「掃除のために開けられるようにしたら、今度は鍵が必要ですね」
グラッドが言う。
「しかも外側だけに開閉部を置いた方がいい」
「内側から触れないように?」
「はい」
ノエラが見取り図を引き寄せる。
「なら、こうしてください」
炭筆で排水路の断面を描く。
外側の出口近くに太い鉄格子。
その少し内側に、枝や大きなゴミを止める取り外し可能な柵。
「内側の柵は清掃用です。こちらは人を止めるものではありません。外の格子だけ、人間が通れない間隔にする」
「二つの役割を分けるのか」
「一つで両方やろうとすると、たぶんどちらも中途半端になります」
それは分かりやすい。
「外側の格子は固定?」
「下半分は固定。上側に清掃口を作るなら、外からだけ開けられる構造にできます」
「鍵は?」
グラッドが答える。
「外周担当の看守へ一本。予備は管理棟。貸出記録を残します」
「清掃へ囚人を使う場合は?」
「外側へは出しません」
「内側から届く範囲までか」
「それで十分です」
ノエラが頷いた。
「人が中へ入らないと取れない詰まりなら、職員立ち会いで保守担当を入れるしかありません」
俺は図を見る。
完璧ではない。
だが水を殺して壁を壊すよりはいい。
「これでいこう」
◇
問題は、鉄格子がその場で生えてこないことだった。
監獄内の保守工房で作れるが、二基を仕上げるには二日かかる。
「その間、排水路は開けません」
ノエラが言う。
「基礎は大丈夫か」
「今すぐ崩れる状態ではありません。ただ、また強い雨が降る前には開けたいです」
空を見る。
昼の雲は薄い。
少なくとも今日降りそうにはなかった。
「二日なら待つ」
「では、その間は別の区画を進めます」
壁の工事そのものを止める必要はない。
人員二十四も変えない。
やる場所をずらすだけだ。
◇
二日後。
北壁の外側に、新しい鉄格子が取り付けられた。
厚い鉄棒が縦横に組まれ、大人の頭が通らない間隔になっている。
外側の清掃口には錠。
鍵を持っているのは外周担当の看守だけだ。
予備は管理棟の鍵箱へ入れた。
「開けます」
ノエラが合図する。
内側では保守担当の職員が、塞ぎ石を一枚ずつ外していく。
瀝青が剥がれる独特の臭いが立ち、最後の石が抜かれた瞬間、隙間から冷たい空気が流れ込んだ。
続いて、水。
最初は濁った細い流れだった。
だが奥で溜まっていたものが動き始めると、音が一気に大きくなった。
ざあっ、と石の通路を水が走る。
泥混じりの水が外へ抜け、鉄格子の向こうへ流れていく。
俺とグラッドは外側へ回った。
格子は動かない。
水は通る。
小枝が内側の清掃柵へ引っ掛かっているが、外の格子までは来ていない。
「予定どおりです」
ノエラが外側から流れを確認する。
「もう一本も開けます」
二本目も同じだった。
北壁の足元に溜まっていた水が、ようやく外へ逃げ始める。
ドニたちは少し離れたところで作業を続けていた。
その中の一人が流れる水を見て、隣の囚人へ何か言う。
看守がこちらを見た。
「所長、作業員をさらに離しますか」
「いや。今の距離でいい」
格子の存在まで隠す必要はない。
むしろ排水路があること自体は、工事に入っている連中ならいずれ分かる。
問題は、そこを通れる状態にしないことだ。
少しして、作業班の中からノルが声を上げた。
「監獄長」
勝手にこちらへ近づいてはこない。
決められた場所からだ。
「何だ」
「あれ、前なら人が通れたんじゃないですか」
看守がノルを見る。
俺は止めなかった。
「通れただろうな」
「今は?」
「試してみたいなら、頭が格子を通るか測ってやるぞ」
ノルが新しい鉄格子を見る。
次に自分の頭へ手をやった。
「やめときます」
「賢明だ」
周囲で小さく笑いが起きる。
それで終わった。
隠したところで、囚人は馬鹿ではない。
穴を見れば出口かどうか考える。
なら、考えられても抜けられない状態にしておく方がいい。
◇
夕方、ノエラから正式な報告を受けた。
「主排水二本、流れは正常です。細い十本も詰まりを除去しました」
「北壁の基礎は?」
「水が抜け始めています。数日見てから次を判断します」
「補修は終わった?」
「まだです」
ノエラはきっぱり言った。
「壁だけならかなり進みました。でも、水の流れまで含めて安定するのを確認してからです」
「分かった。終わったことにはしない」
「お願いします」
グラッドが横から報告書を渡す。
「排水路十二本、すべて巡回表へ追加しました。主排水二本の外側格子は毎朝確認。清掃口を開けた場合は、担当者と時刻を記録します」
「やりすぎてないか」
「監獄長印の台帳を見た後なので、少し神経質になっています」
「それなら仕方ない」
グラッドが珍しく小さく笑った。
窓の外から、夕方の点呼を知らせる鐘が鳴る。
北壁を直せば、大脱獄の心配が消える。
そんな簡単な話ではなかった。
壁には水を逃がす穴が必要で、その穴は人間にとっても出口になり得る。
監獄という場所は、塞げば安全になるわけではないらしい。
「所長」
グラッドが窓の外を見ながら言った。
「明日から北壁の作業人数はどうしますか」
「二十四人のままでいい。ノエラが減らせと言うまでは変えない」
「承知しました」
「それと、排水口を見張るために看守を増やす必要もない」
「巡回で十分ですか」
「ああ。格子と鍵を確認する仕組みを作ったのに、その横へ一日中人を立たせるなら意味がない」
「分かりました」
俺は机の上の報告書へ目を落とした。
北壁は、以前より確実に丈夫になった。
そして出口になり得る穴も、以前より見えるようになった。
見えたなら、対処できる。
少なくとも、見えないまま崩れるよりはずっとましだった。
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YouTubeショート動画作ってみました。
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