第32話 その印を押したのは、誰だ
翌朝、古い印章台帳は封を切らないまま王都の担当官へ渡した。
保管庫の小部屋には、紙と革と蝋が混じった古い匂いがこもっている。壁際の棚には年ごとに束ねられた書類が並び、窓から差す朝日を受けて細かな埃がゆっくり舞っていた。
机の中央には、昨夜グラッドと職員一名の立ち会いで封をした帳面。
ローデンは封の印影を確認してから俺を見る。
「発見後、開いていませんね」
「昨夜、規定を確認したところまでは見ています。その後は封印しました」
「誰が見た?」
「俺とグラッド、それに保管庫担当の職員一名です」
「内容について相談は?」
「していません」
ローデンがグラッドを見る。
「副監獄長?」
「同じです。発見場所と規定の記述を確認した後、監獄長の指示で封をしました」
書記官がそのやり取りを書き留める。
蝋を割る乾いた音が、小さな保管庫に響いた。
帳面が開かれる。
紙は黄ばんでいた。
端は何度もめくられたせいで柔らかくなり、黒いインクはところどころ茶色へ変色している。
「これが当時の印章管理規定です」
グラッドが別の冊子を差し出した。
ローデンは該当箇所を黙って読む。
監獄長印は、監獄長が管理する。
ただし、公務による不在その他やむを得ない事情がある場合、副監獄長または当直責任者による代理使用を認める。
代理で押した場合は、使用者と理由を台帳へ記す。
「つまり、規則上は監獄長本人以外も使えた」
ローデンが言った。
「はい」
「保管箱の鍵は?」
「当時の規定では監獄長、副監獄長、それと夜間用の封印鍵が一本です」
グラッドが答える。
「夜間用は当直責任者へ引き継ぐ形になっています」
「現在も?」
「いいえ。今は夜間に監獄長印が必要になる書類自体を限定しています。緊急案件は責任者判断で動き、押印が必要なら事後確認です」
ローデンはそこで俺を見た。
「変更したのは?」
「俺です」
「いつ?」
日付を答える。
書記官が現在の運用記録と照合し、頷いた。
「一致しています」
ローデンはそれ以上、今の制度については聞かなかった。
調べたいのは二年前だ。
◇
問題の引継書が机へ置かれた。
三人の名前。
バルト・レイン。
ヘルム・カーン。
ルース・バーデン。
そして、
《護送任務に関する申立ては受理せず》
という一文。
紙の右下には黒塔監獄長印。
見慣れた印だ。
俺が現在使っているものと同じ紋様が、二年前の紙にも押されている。
「これをあなたが押した記憶はない」
「ありません」
「代理使用を許可した記憶も?」
「ありません」
「当時、この印を誰が扱っていたかについての記憶は?」
「答えられるものはありません」
「分かりました」
ローデンは淡々としていた。
もう「覚えていない」を責めもしない。
代わりに台帳と書類を比べ始める。
問題の日。
印章台帳には記載がなかった。
「この書類が押印されているのに、使用記録はない」
俺が言うと、ローデンはすぐには頷かなかった。
「それだけなら、台帳への記載漏れです」
「誰かが勝手に使った証拠にはならない?」
「なりません」
予想どおりだった。
「では、この前後を見ます」
書記官二人が棚から同時期の書類を出していく。
食料の受領書。
工具購入の承認書。
囚人移送の受入書。
医薬品の追加購入。
外部作業に関する許可。
古い紙が机へ積まれるたび、乾いた埃の匂いが濃くなった。
俺とグラッドは手を出さない。
ローデンたちが一枚ずつ印影と台帳の日付を照らし合わせる。
十五件確認したところで、書記官が数字をまとめた。
「台帳に記載があるもの、九件です」
「残り六件は?」
「監獄長印がありますが、台帳にはありません」
俺は帳面を見る。
三人の引継書だけが抜けていたわけではない。
ローデンはさらに六件を分けた。
うち二件には、印の脇に小さく代理者の署名がある。
一件は副監獄長代理。
もう一件は当直責任者代理。
「代理使用なのに、台帳へ記入していない例が二件」
ローデンが確認する。
「そうなります」
書記官が答えた。
「残り四件は?」
「代理者の記載もありません」
「監獄長本人が押した可能性は?」
「あります」
「代理者が記名を忘れた可能性は?」
「それもあります」
ローデンが小さく頷いた。
「では、この帳面は押印者を確定する資料には使えない」
俺に都合のいい答えでも、悪い答えでもなかった。
単に、管理が雑だった。
それだけだ。
◇
次に確認されたのは、問題の日の勤務関係書類だった。
「監獄長の公用外出記録はありません」
書記官が言った。
「つまり俺は黒塔にいた?」
ローデンがこちらを見る。
「そこまで言えません」
「外出記録がないのに?」
「公務で外へ出た記録がないだけです。終日執務室にいたことを証明する記録ではない」
もっともだった。
「監獄長が黒塔内にいた場合、代理押印は禁止ですか」
グラッドが尋ねる。
「規定上は原則として本人が使用することになっています」
ローデンが冊子の一文を指した。
「ただし、先ほど確認した実務が規定どおりだったとは限らない」
「台帳すら抜けていますからね」
「ええ」
机の上には、その証拠が六件も並んでいる。
「では、現時点で言えることは?」
俺が聞いた。
ローデンは問題の引継書を指先で押さえた。
「この印が正規の監獄長印である可能性は高い。少なくとも、現在確認した範囲で偽造を疑う材料はありません」
胸の奥が少し重くなる。
「押した人間は?」
「特定できません」
「俺かもしれない」
「はい」
「代理者かもしれない」
「はい」
「それ以上は?」
「今ある資料だけでは言えません」
ローデンはそこで一度言葉を切った。
「ただし、一つだけは分けて考える必要があります」
「何でしょう」
「誰が印を押したかと、黒塔がこの書類を受け取ったかどうかです」
引継書を軽く持ち上げる。
「書類は黒塔側で保管され、その内容と一致する形で三人は収容初日に通常と異なる扱いを受けている。受領そのものまで否定するのは難しい」
そこだった。
仮に俺が押していなかったとしても、黒塔は書類を受け取った。
その後、三人は「分離」と書かれているのに同じ旧懲罰室へ連れていかれた。
書面どおりですらない。
「個人として俺が押したかどうかは未確定。ただ、監獄として受領した事実は残る」
「現段階では、その理解で構いません」
ローデンが答えた。
逃げ道が一本増えたように見えて、実際にはそうでもない。
椅子に座っていた人間が誰であれ、黒塔の中で起きたことだからだ。
◇
確認作業は昼前まで続いた。
十五件で終わらず、対象期間を広げてさらに二十件。
結果は似たようなものだった。
台帳へ記録された押印もあれば、記録されていない押印もある。
代理者名が丁寧に残るものもあれば、何もないものもあった。
規則は存在した。
運用は揃っていなかった。
「よくこれで回っていましたね」
書記官が思わず漏らした。
ローデンが視線だけを向ける。
書記官は気まずそうに口を閉じた。
「回っていたから、こうなったんでしょう」
俺が言う。
ローデンの眉が少し動く。
「どういう意味です」
「毎日何かが止まるほど酷ければ、もっと早く直されたはずです。多少雑でもその日は回る。だから放置される」
食料の受領も同じだった。
工具も、点呼も、採石場もそうだ。
一日だけなら何とかなる。
誰かが帳尻を合わせる。
その積み重ねで、どこからおかしくなったのか分からなくなる。
「自分にも当てはまると思いますか」
ローデンが尋ねた。
「当時の俺については、記憶がない以上、都合のいい答えはしません」
「現在なら?」
「記録が抜けていても現場が回っているから放置する、という判断はしないつもりです」
「つもり?」
「絶対に漏らさないと言った方が信用できますか」
ローデンは少しだけ口元を緩めた。
「いいえ」
「なら、そういうことです」
◇
昼過ぎ、王都側が追加の照合を始めたため、俺とグラッドは保管庫を出た。
外へ出ると、古い紙の匂いからようやく解放された。
風は昨日より乾いている。
北壁へ向かう途中、石槌の音が一定の間隔で聞こえてきた。
「ノエラから報告が来ています」
グラッドが歩きながら言う。
「昨日乾かした区画か」
「朝の確認で作業再開可能と判断したそうです。ただ、監獄長にも見せたいものがあると」
「嫌な言い方だな」
「問題ではないそうです」
それなら先に言ってほしい。
北壁へ着くと、昨日まで湿っていた地面はかなり色が薄くなっていた。
ノエラが俺たちを手招きする。
「こっちです」
補修中の区画の手前に、浅い水路が作られていた。
「水を流します」
バルクが上流側の板を外す。
溜めていた水が土の溝を走り、補修した壁際へ流れていく。
ざあっ、と乾いた作業場には似合わない水音が広がった。
俺は思わず足元を見る。
「試験か」
「ええ。昨日の雨で自然に確認できた部分もありますが、流れが弱かった場所はこれで見ます」
水は補修した基礎の手前で溜まらず、整え直した排水側へ抜けていった。
ノエラがしゃがみ込み、地面へ指を入れる。
そのまま数か所を確かめた。
「表面だけ濡れています。下へ回り込んでいません」
「問題なし?」
「この区画は」
そこは相変わらず慎重だ。
「補修した八メートルについては、次の工程へ進めます」
ドニたちが少し離れた場所で石を選別している。
作業が止まっていたわけではない。
ただ、無理に壁際を触らず、できる仕事を先へ回していた。
「昨日一日遅れた分を取り返す必要は?」
「ありません」
ノエラが即答した。
「人も石も逃げません。急いでまた沈めたら、その方が遅れます」
「了解した。そのまま進めてくれ」
「はい」
背後で水が細い溝を流れ続けている。
古い保管庫で紙ばかり見た後だからか、その音が妙に気持ちよく聞こえた。
◇
午後遅く、もう一度ローデンに呼ばれた。
今度は小会議室ではなく、保管庫の前だった。
机の上に広げられていた書類は片付けられ、それぞれ元の束へ戻すための札が付いている。
「印章関係について、今日の確認結果を残します」
ローデンが一枚の紙を見せた。
「読み上げます」
内容は簡潔だった。
問題の引継書に使用された印は、確認可能な範囲で正規の黒塔監獄長印と一致する。
当時の規定上、監獄長本人以外による代理使用は可能。
ただし、使用台帳には多数の記載漏れがあり、代理者記名も徹底されていない。
問題の日について監獄長の公用外出記録は確認できないが、終日在庁していたことを示す資料でもない。
よって、押印者を特定できない。
俺は最後まで聞いた。
「異論はありますか」
「ありません」
「署名を求めるものではありません。確認した内容を伝えただけです」
「分かりました」
「なお」
ローデンが紙を伏せる。
「押印者不明という結果は、この引継書を無効とするものではありません」
「黒塔が受け取った事実は残る」
「はい」
「そこも異論はありません」
ローデンが俺を見る。
「あなたにとって、不利な部分もありますが」
「俺が押していない可能性だけ拾って、受領した事実を捨てたら意味がないでしょう」
「そうですね」
短い返事だった。
そのくらいでいい。
ローデンは書類を袋へ入れた。
「三名の死亡については、個別に整理します。バルト、ヘルム、ルースを一つの事件としてまとめる材料は、現時点ではありません」
「意図的に三人を殺した証拠も?」
「現時点で確認できていません」
そこで安心するには早い。
「管理上の問題がなかった、という意味ではない?」
「もちろんです」
バルトは医務の休養指示が守られなかった。
ヘルムは冬場に長期間、食事を減らされている。
ルースは、いつ房へ戻ったのかすら確認できない。
一つの陰謀ではなくても、十分酷い。
「調査はまだ続けますか」
「必要な確認は続けます。ただ、同じ質問を何度も繰り返して答えを変えさせるつもりはありません」
「助かります」
「監獄長が言いますか」
「昨日、一日聞かれた側なので」
ローデンが小さく息を吐いた。
笑ったのかどうかは分からなかった。
◇
執務室へ戻ると、机の端に現在の監獄長印が置かれていた。
勝手に出ていたわけではない。
鍵付きの箱ごと、グラッドが持ってきている。
「一件、押印が必要です」
「何の書類だ」
「北壁で使う支持材の追加払出しです。ノエラから六本。倉庫側の残数確認済みです」
書類を見る。
申請者。
数量。
用途。
倉庫残数。
払出し後の残数。
受け取る担当者。
問題はない。
「六本で足りるのか」
「ノエラからは六本以上いらないと」
「なら承認する」
箱を開ける。
木の柄を握り、朱肉へ押し当てた。
紙の所定欄へ印を落とす。
ごく普通の作業だ。
数秒も掛からない。
グラッドが横の台帳へ日付と書類名を書き、俺の前へ向ける。
確認して署名する。
「これで終わりです」
「ああ」
印章を箱へ戻す。
蓋が閉まり、鍵が回った。
かちり、と小さな音がした。
二年後、誰かがこの書類を見るかもしれない。
その時に、俺が何を考えて六本を認めたかまでは分からないだろう。
だが、少なくとも誰が、いつ、何のために承認したのかは追える。
机の向こうでグラッドが箱を抱え直した。
「保管庫へ戻します」
「頼む」
扉が閉まる。
朱肉の匂いだけが、しばらく机の上に残っていた。
──────────────────
YouTubeショート動画作ってみました。
https://youtube.com/shorts/_zEBpYRUMc4?si=9bu0xxStFm2Bo5Z8




