第31話 四人の証言が、揃わない
翌朝、アルヴァン・ギレスが房から出された。
俺は高警戒区画へ続く渡り廊下で、その一行とすれ違った。
前を二人、後ろを二人の看守が固めている。
アルヴァンの両手には手枷があり、腰へ短い鎖で繋がれていた。足にも歩幅を制限する鉄鎖が付いている。さらに事情聴取を行う部屋には、別の看守二人が先に配置されている。
合わせて六人。
死刑執行が止まったからといって、王殺し未遂で死刑判決を受けた元騎士団長という扱いまで変えたわけではない。
夜明け前まで降っていた雨のせいで、吹き込む風は冷たかった。
濡れた石床を靴が踏み、アルヴァンの足元から金属の触れ合う低い音が響く。
向こうも俺に気づいた。
灰色の目がこちらへ向く。
何も言わない。
俺も黙って道を空けた。
「監獄長」
先頭の看守が足を止めかける。
「そのまま連れていってくれ」
「承知しました」
一行が通り過ぎた。
今日、アルヴァンが王都の担当官に何を話すのか。
気にならないわけがない。
だが昨日、ローデンから明確に言われている。
《証言者の聴取には近づかないでください》
なら、俺がやるべきことは別にある。
◇
北壁では朝から石槌の音が響いていた。
乾いた石を叩く甲高い音に、手押し車の車輪が軋む音が重なる。
雨に濡れた土は黒く、掘り返されたところから湿った土臭さが立ち上っていた。
二十四人が作業に入っている。
全員を壁際へ集めてはいない。
基礎に近づく人数を絞り、残りは石材の運搬、土砂の搬出、道具の受け渡しに回っていた。
ノエラは壁の根元にしゃがみ込み、細い棒を地面へ差している。
俺が近づくと、棒を抜いた。
先端に濃い泥が絡んでいる。
「昨日の雨の影響は残っているか」
「ここはまだ駄目です」
ノエラが立ち上がる。
膝の辺りについた泥を手で払ったが、完全には落ちなかった。
「表面は乾き始めていますが、その下がまだ柔らかい。ここへ今から石を積むのは勧めません」
「この区画だけか」
「はい」
数歩離れた場所を指す。
「あちらは昨日までに締めた地盤が落ち着いています。そちらは予定どおり進められます」
「止めた区画の人手はどうする」
「石の選別と運搬へ回します。余りません」
少し離れたところで、ドニが石材を槌で軽く叩いていた。
こつん、と鈍い音。
首を振る。
「これは外す」
別の囚人が石を脇へ寄せた。
続いて別の石を叩く。
今度は少し澄んだ響きが返った。
「こっちは使える」
「見ただけでは分からないものか」
ドニが石の側面を撫でた。
「表面に割れ目がなくても、中で走ってることがあります。音が違います」
「判断は任せる」
俺が中途半端な知識で石を選ぶより、その方がいい。
横からノエラの視線を感じた。
「何だ」
「今日は素直ですね」
「普段も専門家の邪魔はしていないつもりだ」
「つもり、なんですね」
「そこは掘らなくていい」
ノエラの口元が少しだけ緩んだ。
すぐ壁へ向き直る。
「この土は午後まで乾かします。もう一度確認して、問題がなければ明日から戻します」
「今日中に取り返そうとはするな」
「しませんよ」
即答だった。
風が壁沿いを抜ける。
雲の切れ間から薄い日差しが落ち、濡れた土の表面だけが少しずつ色を変えていた。
◇
執務室へ戻る途中、今度はエバンとすれ違った。
これから事情聴取へ向かうらしい。
いつもより肩が固い。
腰のベルトに掛かった鍵束が、歩くたびに小さく鳴っていた。
「所長」
「これから聴取か」
「はい」
エバンは一度だけ廊下の奥へ目をやった。
「自分が見たことと、当時聞いたことだけを話します」
「それでいい」
昨日、必要なことは伝えてある。
これ以上何か言えば、かえって余計だった。
エバンが少し迷ってから尋ねる。
「当時、監獄長の許可があると聞いたことも?」
「そこも含めて、自分が聞いた通りに話してくれ」
「分かりました」
「行ってこい」
それだけにした。
上司から何度も、
《俺に不利でも正直に言え》
と念を押されれば、本人にそのつもりがなくても圧力になる。
一度伝えれば十分だ。
◇
午前はアルヴァン、その後にエバンとラッセル、午後にはドルガンが呼ばれた。
グラッドは四人を別々の待機場所に置き、廊下ですれ違うこともないよう時間をずらしている。
俺は事情聴取の内容を聞かない。
代わりに、いつもの報告書を処理した。
厨房の食材受領。
採石場の切り出し量。
医務室で診察した人数。
返却された工具の数。
北壁の人員配置。
窓の外からは、午後の作業へ戻る囚人たちの足音が聞こえる。時折、看守の号令が混じり、さらに遠くから採石場の槌音が低く響いた。
王都の担当官が来ていても、黒塔そのものは止まらない。
ドルガンが事情聴取から戻ったのは、午後もかなり回ってからだった。
廊下を進んでくる荒い靴音が、執務室の前で止まる。
「監獄長」
開いた扉の向こうに立っていた。
いつもの仏頂面だが、首筋には汗が浮かんでいる。
「終わったのか」
「ああ」
「内容は俺に話すなよ」
「分かってる」
そう答えたくせに、ドルガンは立ち去らない。
「何かあるのか」
「王都の連中ってのは、同じ話を言い方変えて何度も聞くんだな」
「確認したいんだろ」
「ルースを何時まで見た。どっち向いて歩いてた。近くに誰がいた。夜番に何て引き継いだ。そんなのばっかりだ」
ドルガンが太い指で首筋を掻く。
「二年前の夕方に誰がどこ向いて歩いてたかなんぞ、全部覚えてる方がおかしいだろうが」
「覚えていないものまで答えなかっただろうな」
「馬鹿にすんな」
鼻を鳴らす。
「ルースが夕方までいたのは覚えてる。石が緩いって文句を言ってたのもな。その後は夜番へ渡した。そこまでだ」
「なら、それでいい」
「俺の話と他の奴の話が違ったらどうなる」
「それこそ俺に聞かれても分からない」
「役に立たねえ監獄長だな」
「今は王都の担当官の方が詳しい。そっちへ聞いてくれ」
ドルガンが喉の奥で笑う。
「本当に聞くぞ」
「好きにしてくれ。ただし、向こうで何を聞かれたかは俺には話すな」
「分かってるよ」
ようやく踵を返す。
二、三歩進んだところで振り返った。
「俺が昔やったことを、今さら庇う気はねえんだな」
「庇うも何も、俺はお前が何を話したか知らない」
「……そうだったな」
今度こそ歩いていった。
◇
夕方。
食堂の鐘が鳴る少し前に、ローデンから呼び出された。
昨日と同じ小会議室だった。
窓の外は赤みを帯び、中庭を横切る看守の影が濡れた石畳の上へ細長く伸びている。
机には、昨日より厚い紙束。
部屋の隅では書記官が羽根ペンの先を布で拭いていた。
インクと古い紙の匂いがする。
「今日、四名から事情を聞きました」
ローデンが俺の着席を待って口を開く。
「内容を俺に伝えて問題ありませんか」
「個別の供述をすべて話すつもりはありません。ただ、現在の監獄長として確認したい点があります」
「分かりました」
ローデンが一枚目をめくる。
「先に伝えておきます。四人の証言は完全には一致していません」
腹の奥が少し重くなった。
「誰かが嘘をついている?」
「そう判断したとは言っていません」
ローデンは淡々と答える。
「同じ出来事を見ていても、人によって立っていた場所も、見ていた方向も違います。まして二年前です。記憶が一致しないこと自体は珍しくありません」
横で書記官が紙束の端を揃えた。
ぱた、と小さな音がした。
「例えば、東側旧懲罰室に三人がいた時間です。エバンは一時間より短かったと記憶している。ただし、正確な入室時刻も退室時刻も覚えていない」
「以前の確認でも同じでした」
「記録にも正確な時刻はありません」
次の紙へ移る。
「ラッセルは、バルトの肋骨骨折後に休養を指示したことを記憶している。しかし翌日の作業復帰を誰が決めたかは知らない」
「命令者名も記録にありません」
「確認済みです」
さらに一枚。
「ドルガンは、ルースを夕方まで採石場で見た。緩い石について話していた。その後、夜番へ引き継いだと証言した」
そこまでは俺も知っている。
「ところが個人台帳では、その夜ルースは房へ戻った扱いになっています」
「当時の夜間点呼は頭数だけです」
「はい。別の看守にも確認しました」
ローデンが台帳の写しを指で押さえた。
「だから、この台帳だけでルース本人の帰房を証明することはできない」
「そうなります」
「しかし、ドルガンが最後に見た直後に失踪した、とも断定できない」
「ああ」
そこは勝手に繋げてはいけない。
ローデンがこちらを見る。
「都合のいい空白へ、都合のいい事実を入れれば、簡単に筋の通った話は作れます」
「それをやったら調べる意味がない」
「その通りです」
◇
「もう一点あります」
机へ出されたのは、三人の引継書だった。
《三名は分離して収容》
《相互の会話を認めず》
そう書かれている。
だがエバンは、収容初日の夜に三人全員を旧懲罰室へ連れていったと証言している。
「少なくとも、書面に書かれた収容方針とは一致していません」
「そうですね」
「エバンは当時の夜勤責任者から、『監獄長の許可は得ている』と聞いた」
「はい」
「ただし、あなた本人から直接命令を受けたとは証言していない」
「そこも以前と同じです」
ローデンが椅子へ少し深く腰を下ろした。
「現在の黒塔で同じことが起きた場合を聞きます」
「どうぞ」
「夜勤責任者が『監獄長から許可を取った』と言い、正式に閉鎖された部屋へ三人の囚人を移そうとしたら?」
「まず理由を確認します」
「緊急事態なら?」
「火災や崩落で通常房が使えないなら、現場判断で動かして構いません。人命に関わる時まで書面を待たせるつもりはない」
「その後は?」
「誰の判断で、いつ、誰を、どこへ移したかを残させます」
「監獄長の事前承認がなくても?」
「緊急なら事後報告で構いません」
「緊急ではない場合は?」
「正式閉鎖された区画を、夜勤責任者の判断だけでは使わせません」
ローデンの目が細くなる。
「では、三人が旧懲罰室へ入れられた当時の管理は不適切だったと?」
「現在の基準ならそう判断します」
「当時も規則違反だった?」
そこは即答できない。
窓の外から、食堂へ向かう集団の足音が聞こえてくる。
「当時の規則を確認せず、今の運用を二年前へそのまま当てはめるつもりはありません」
「管理として適切だったと思いますか」
「思いません」
「規則違反だったかどうかとは別に?」
「はい」
ローデンが頷く。
「その切り分けで結構です」
◇
ここまで聞かれて、こちらからも一つ尋ねた。
「今日の証言で、俺への疑いは強くなりましたか」
ローデンの表情は変わらない。
「現段階では、強くなったとも弱くなったとも答えません」
「俺から直接命令を受けたという証言は?」
「それには回答できません」
「そうでしょうね」
聞くだけ無駄だったらしい。
「では、今日一日で何が分かったんです」
ローデンは少しだけ考えた。
「当時の黒塔では、重要な判断の経路が記録から追えないことです」
紙の一枚を指す。
「誰がラッセルの休養指示を事実上覆したのか。誰が閉鎖済みの部屋を使う判断をしたのか。誰がルース本人の帰房を確認したのか。重要な部分ほど個人名が残っていない」
反論できない。
「それぞれが、自分の持ち場で知っていることはある。しかし全体を把握していた者が誰なのか、現時点では分からない」
「監獄長だった俺が、把握していた可能性はあります」
「あります」
「把握していなかった可能性も?」
「それもあります」
ローデンはそこで言葉を切った。
「だから調べています」
夕日が紙束の端を赤く染めている。
細かな埃が光の筋の中をゆっくり落ちていた。
「証言が食い違ったら、どちらか一方を嘘だとは決めない?」
「内容によります」
即答だった。
「同じ場所を同じ時刻に見て、一人が扉は開いていたと言い、一人が閉まっていたと言えば調べます。しかし、一人が見ていないことを別の者が見ていた。それだけなら矛盾ではありません」
「なるほど」
「むしろ二年前の出来事について、四人が細部まで同じ言葉で話した方が、私は別の確認をします」
口裏合わせ。
言葉にしなくても分かった。
◇
ローデンが新しい紙を出した。
「明日は、問題の監獄長印について確認します」
「印章管理ですね」
「はい」
引継書には俺の印が残っている。
そこだけは証言より明確だ。
「昨日も話しましたが、印影があるというだけで、あなた自身がその場で押したとはまだ決めません」
「俺が覚えていないという理由で、別の誰かが押したとも決めない」
「当然です」
ローデンが紙を俺の前へ滑らせた。
「当時の印章管理規定を確認します。保管場所、鍵を扱えた者、代理押印の有無、使用記録。この四点です」
「記録が残っていなければ?」
「残っていないことも結果の一つです」
その答えは一貫している。
分からないものを、分かる形へ無理に直さない。
「明日は最初から立ち会えばいいですか」
「保管場所の確認だけお願いします。その後の調査には必要ありません」
「分かりました」
「今日、聴取した四人へ内容を尋ねないでください」
「そのつもりはありません」
ローデンは書類をまとめ、立ち上がった。
「では、今日はここまでです」
◇
小会議室を出ると、厨房から温かい匂いが流れてきた。
焼いたパンと、豆を煮る匂い。
昼間の湿気が残る廊下には、それが妙に濃く感じられた。
食堂の前を通る。
長い配膳列がゆっくり進んでいた。
木皿が重なって鳴り、厨房係が湯気の立つ煮込みを順番によそっている。
壁際の看守は警棒を抜いていない。
列へ割り込もうとした囚人が一人出ると、手を上げて止めた。
「最後尾へ」
「いつもここだろ」
「席じゃない。配膳の順番だ」
囚人は口の中で何か言いながらも、列の後ろへ向かう。
少し先ではノルがパンを手に、隣の男と話していた。
揉めている様子はない。
北壁から戻った作業班の靴には、乾きかけた泥が厚く付いている。
食堂、医務室、採石場、北壁。
八百四十二人の囚人を抱える黒塔を、誰か一人の目だけで見渡せるはずもない。
昔の俺がどこまで知っていたのかは、まだ分からなかった。
「所長」
後ろからグラッドが来た。
「北壁から報告です。乾かしていた箇所は、明朝ノエラがもう一度確認します。状態に問題がなければ作業を戻すそうです」
「それで進めてくれ」
「承知しました」
グラッドが手元の紙を一枚めくった。
「囚人用の夕食、八百四十二食分。高警戒区画と医務室への配膳分も含め、不足ありません」
「分かった」
そこでグラッドが、持っていた書類の一番下から薄い帳面を取り出した。
表紙は擦れ、角が丸くなっている。
「もう一件あります」
「何だ」
「明日確認する監獄長印について、保管庫を探していたら古い印章台帳が出てきました」
足を止める。
「使用記録が残っていたのか」
「全部ではありません」
グラッドが帳面を開く。
古い紙から、乾いた埃の匂いが立った。
「それと、当時の規定も確認しました」
「何と書いてある」
グラッドの指が、一行を押さえる。
「監獄長不在時に限り、副監獄長または当直責任者が代理押印できる、と」
「俺以外も印を使えた?」
「規定上は」
「問題の引継書の日は?」
「そこが分かりません」
帳面の該当箇所をこちらへ向ける。
何件か使用記録が続いた後、数日の空白。
その中に、三人が黒塔へ来た日が含まれている。
「台帳が抜けているのか」
「いいえ。頁は繋がっています。ただ、その期間だけ使用の記載がありません」
「押印した記録がない」
「はい」
監獄長印は俺一人しか使えなかったわけではない。
だが、誰か別の人間が押した証拠もない。
俺自身が押した可能性も、そのまま残る。
「触らず、そのまま保全してくれ」
「もう別の職員一名と状態を確認しています。今から封をします」
「ローデンにも知らせる」
「はい」
グラッドが帳面を閉じる。
ぱたん、と乾いた音がした。
答えが出たわけではなかった。
ただ、明日調べるものが一つ増えた。
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