第30話 覚えていないなら、作るな
八日後の朝、黒塔は薄い霧に包まれていた。
夜明け前に降った雨が石畳を濡らし、外門の前には馬の蹄が踏んだ黒い泥が残っている。
見張り塔から鐘が二度鳴った。
王都からの客だ。
「三名、身分確認済みです」
外門で待っていたグラッドが、革表紙の受入簿を閉じた。
その向こうでは、旅装の男たちが濡れた外套を脱いでいる。馬の汗と湿った革の匂いが、冷えた朝の空気に混じっていた。
先頭に立つ男は五十前後。
細身で、灰色がかった髪を短く整えている。
「王都監察局、主任担当官ローデン・フェルクです」
差し出された証明書と、事前に届いていた書簡の印を照合する。
残る二人は、軍法関係の記録を扱う書記官と、医務記録を見る担当官だった。
武装した護衛は外門まで。
黒塔内部へ入るのは、この三人だけだ。
「黒塔監獄長、ディルク・ハーゼンです」
ローデンは俺の顔を一度だけ見た。
「八日間、関係資料は保全されていますか」
「はい。原本はそれぞれ本来の保管場所から動かしていません。東側旧懲罰室も封印したままです」
「最初にそこを確認します」
挨拶はそれで終わった。
◇
東側の廊下は、朝でも薄暗い。
使われなくなった区画だけに人の出入りが少なく、足音が石壁へ乾いて返ってくる。
旧懲罰室の前でローデンが立ち止まった。
扉と枠をまたぐ紙帯には、八日前に押した二つの印が残っている。
俺の監獄長印。
グラッドの副監獄長印。
紙の端には少し湿気を吸った皺があるものの、破れた跡はない。
書記官が腰を屈め、印影へ顔を近づけた。
「封印日と印影を確認します」
羽根ペンが紙を擦る音がする。
グラッドが保全記録を差し出した。
「封印後、この扉は開けていません。巡回は廊下側から一日四回です」
「清掃は?」
「扉の手前までです。室内には入れていません」
ローデンは紙帯へ手を触れず、しばらく眺めてから頷いた。
「開封します。監獄長、副監獄長、双方立ち会ってください」
書記官が紙帯の状態を書き留める。
その後で、グラッドが鍵を差し込んだ。
金属同士が擦れる硬い音。
重い扉が動くと、閉じ込められていた冷たい空気が廊下へ流れ出した。
中には埃と古い石の匂いが残っている。
窓は細く、朝の光は床まで届かない。
ランタンが持ち込まれた。
橙色の明かりが壁を舐め、傷のように刻まれた名前が次々に浮かぶ。
百三十七名。
その中に三人の名もある。
バルト・レイン。
ヘルム・カーン。
ルース・バーデン。
ローデンはすぐ近くまで寄ったが、壁には触れなかった。
「監獄長」
「はい」
「この三名の名前が本人たちの手によるものだと断定していますか」
「していません」
書記官の羽根ペンが動く。
「バルトについては、別に残る署名と文字の癖が似ています。ヘルムは自分の名前を書けなかった記録があります。ルースは読み書きができ、ヘルムの書類を代筆した記録があります。ただ、この壁へ誰が実際に刻んだかまでは確認できていません」
「結構です」
ローデンが初めてこちらを正面から見た。
「分からない部分を推測で埋めないでください。今日の聴取でも同じです」
「分かりました」
「覚えていないなら、覚えていないと答えてください」
ずいぶん俺向けの注意だ。
◇
事情聴取は執務室では行わなかった。
監獄長の部屋では、こちらが有利すぎるという理由だった。
選ばれたのは職員用の小会議室。
細長い机が一つ。
椅子が四脚。
小さな窓から湿った中庭が見え、遠くから採石場の槌音がかすかに届いてくる。
グラッドは同席しない。
俺と三人だけだ。
「始めます」
ローデンが机の上に数枚の書類を並べた。
一番上にあるものは、もう何度も見ている。
三人の引継書。
右下には監獄長印。
「これはあなたの印ですか」
「現在、黒塔で使用している監獄長印と同一の印影です」
「あなたが押した?」
「押した記憶はありません」
羽根ペンが止まらず走る。
ローデンの表情も変わらない。
「では、この書類を受け取った記憶は?」
「ありません」
「バルト・レイン、ヘルム・カーン、ルース・バーデンが黒塔へ到着した日のことは?」
「個人的な記憶としては残っていません」
「三人の名前そのものにも?」
「現在は知っています。記録を確認しているからです。当時知っていたかどうかは答えられません」
ローデンが指を組んだ。
「確認しておきます。今から質問する内容について、あなたの回答には二種類ある」
机の上の書類を軽く指で叩く。
「あなた自身の記憶と、現在残っている記録から知った事実です。混ぜないでください」
「承知しました」
「では、これは?」
引継書の一文を示す。
《護送任務に関する申立ては受理せず》
「この指示を承認した記憶はありません。ただ、黒塔側が書類を受領したことについては、監獄長印が残っています」
「印があなたの管理下になかった可能性は?」
「現在確認できる記録だけでは分かりません」
「誰かが無断で使用した、と主張しますか」
「しません」
ローデンの視線が上がった。
「理由は?」
「その証拠がないからです」
一瞬、室内が静かになった。
窓の外で荷車が石畳を通ったらしい。
車輪が水溜まりを踏み、鈍い水音が聞こえた。
「つまり、あなたはこの書類を覚えていない。しかし、だから偽造だとは言わない」
「はい」
「受領した可能性も認める?」
「印が正規のものなら、監獄として受領した事実は否定できません」
「あなた個人が読んだかは?」
「分かりません」
また羽根ペンが走った。
◇
次に置かれたのは、東側旧懲罰室の使用記録だった。
正式閉鎖後も、非公式に使われていた形跡がある。
収容初日の夜。
三人はそこへまとめて連れていかれた。
当時の夜勤責任者はすでに死亡している。
エバンは、
《監獄長の許可がある》
と責任者から聞いた。
ただし、俺から直接命令を受けたわけではない。
「旧懲罰室を非公式に使うよう指示した記憶はありますか」
「ありません」
「使われていたこと自体は?」
「この身体――」
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
ローデンの眉がわずかに動いた。
「失礼。私自身の記憶にはありません。現在は記録と証言で把握しています」
「当時の監獄長として、知らなかった可能性があると?」
「あります。ただし、監獄長が知らなければ問題がない、とは考えていません」
「なぜです」
「閉鎖したはずの部屋が収容に使われ、それを夜勤責任者が『監獄長承認』として部下へ伝えていた。俺が本当に知らなかったとしても、管理上の問題は残ります」
ローデンは返事をしなかった。
記録官のペン先だけが紙を擦る。
「今の発言は、責任を認めるという意味ですか」
「法的な責任の範囲を俺が決めるつもりはありません」
そこは分ける。
「ただ、知らなかったから黒塔側に問題はない、とは言えないという意味です」
「分かりました」
◇
今度は死亡記録だった。
バルト。
肋骨三本の骨折。
ラッセルは休養を指示。
翌日、採石場へ復帰。
十二日後、高熱で死亡。
医務担当官が紙を一枚ずつめくるたび、乾いた音が小部屋に響く。
「医務からの休養指示を無視して作業へ戻すよう、あなたが命じた記憶は?」
「ありません」
「記録には命令者名がありません」
「確認しています」
「現在、同じことが起きた場合は?」
「医務判断を現場側で勝手に覆すことは禁止しています」
ローデンが顔を上げた。
「いつからですか」
「現在の運用へ変更してからです」
「三人の件を調べ始めた後?」
「前です」
そこで初めて、書記官が別の束を開いた。
日付の入った医務運用変更記録。
食料確認。
採石場の管理変更。
看守勤務の組み直し。
どれもセヴェルが黒塔へ来る以前のものだ。
「随分、短期間に多く変えていますね」
ローデンが言う。
「そうですね」
「なぜ急に?」
答えを間違えると面倒な質問だ。
だからといって、百日後に殺されるからとは言えない。
「俺が確認した時点で、放置すれば人が死ぬ問題がいくつもあったからです」
「それまで気づかなかった?」
「そう見られても仕方ありません」
「自分が作った運用でしょう」
胸の奥が重くなる。
否定したところで説明できない。
「少なくとも、この監獄長名義で続いていた運用です」
「自分とは別人のような言い方ですね」
鋭い。
ローデンの声は強くない。
机を叩きもしない。
ただ、目だけがこちらから逸れない。
「そう聞こえたなら訂正します」
息を一つ吐く。
湿った石壁のせいか、部屋は朝より冷えていた。
「俺が監獄長だった期間に行われていたことです。今の俺に記憶がないからといって、別の監獄の出来事にはなりません」
「では、なぜ急に変えたのです」
「実際に現場を見たからです」
「以前は見ていなかった?」
「記憶として答えられません」
ローデンが僅かに椅子へ背を預けた。
「便利な答えですね」
「そう思います」
「反論しない?」
「俺が取り調べる側なら、同じことを疑います」
今度はローデンの表情が初めて少し変わった。
「取り調べる側?」
「前職で、人の話を聞く仕事を長くしていました」
嘘ではない。
全部は言っていないが。
「だから、自分に不利なところだけ『覚えていない』と言う人間が、どう見えるかくらいは分かります」
「それでも覚えていない?」
「はい」
ローデンの指が、机を一度だけ叩いた。
「なら、そのまま続けましょう」
◇
ヘルムについても確認された。
冬季の減食。
最初の七日。
隠したパンが見つかり、さらに十四日。
十五日目に発熱し、二十一日目に死亡。
「現在は食事を懲罰に使っていない」
ローデンが記録を見ながら言う。
「はい」
「ヘルムの死を知ったから変えた?」
「違います。減食そのものを危険だと判断したためです。ヘルムの記録を詳しく確認する前に廃止しています」
「その日付も残っている?」
「あります」
書記官が無言で該当書類を確認する。
紙がめくられる。
「一致しています」
「では、なぜ危険だと思ったのですか」
「食事を減らせば、罰になる前に体力が落ちる。作業中の事故も病気も増える。監獄側に利点がありません」
「囚人への慈悲ではない?」
「それを否定する必要もありませんが、第一に管理上の話です」
医務担当官が初めて口を挟んだ。
「食事を維持したまま懲罰する方が、費用は掛かります」
「病人や怪我人を増やす方が高くつきます」
「そこまで計算した?」
「正確な金額までは出していません。ラッセルから医薬品不足と病人の状態を聞き、現場を見て判断しました」
分からない数字まで作るつもりはない。
担当官は短く頷き、何かを書き込んだ。
◇
ルースについては、さらに答えられることが少なかった。
採石場で最後に生きている姿を見たのはドルガン。
夕方まで歩いていた。
緩い石について文句を言っていた。
その後は夜勤へ引き継がれた。
個人台帳上は房へ戻ったことになっているが、当時の夜間点呼は頭数確認だけ。
ルース本人を確認した記録ではない。
三日後、旧採石区画で遺体が発見された。
「監獄長として、失踪した時点で報告を受けた記憶は?」
「ありません」
「遺体発見時も?」
「ありません」
「これも?」
「はい」
ローデンの声が少し低くなった。
「三人とも覚えていない。旧懲罰室も覚えていない。引継書も覚えていない」
「その通りです」
「では、何なら覚えている?」
答えに詰まった。
ここで適当な過去を作れば、後で必ず食い違う。
「少なくとも、今あなたが確認している時期について、個別案件を自分の記憶として説明できるものはありません」
書記官の手が一瞬止まった。
「かなり広い範囲ですね」
「はい」
「理由は?」
来ると思っていた。
「説明できません」
「病気、頭部外傷、薬物、魔法的な障害。心当たりは?」
「ありません」
本当は一つだけある。
中身が別人になった。
そんな説明をした瞬間、事情聴取ではなく別の部屋へ連れていかれるだろう。
ローデンはしばらくこちらを見ていた。
「分かりました。この点についても、現時点では理由不明として記録します」
追及を止めた。
信じたわけではない。
記録する材料がないから止めただけだ。
◇
聴取は昼を挟んで続いた。
窓から差す光が少しずつ移り、机の上の書類の影が長くなる。
昼食は会議室へ運ばれた。
薄いパン、豆と野菜の煮込み、塩漬け肉が少量。
王都から来た三人にも、職員用として同じものが出る。
ローデンが木匙で煮込みを混ぜた。
湯気に豆と香草の匂いが混じる。
「監獄の食事としては悪くない」
「それは職員用です」
「囚人食は?」
「パンの量と肉の頻度は違います。豆と芋は同じ厨房で作っています」
「後で見せてもらいます」
「どうぞ」
「嫌そうですね」
「今日だけで確認場所が増えているので」
ローデンがほんの少し口元を緩めた。
「隠すより健全です」
「褒められているとは思わないでおきます」
「その方がいいでしょう」
それくらいの会話で昼休みは終わった。
◇
午後の最後に、ローデンが一枚の紙を机へ置いた。
「確認します」
午前中とは違う。
現在の黒塔で行った変更が、日付順に並んでいる。
「あなたは、食料の受領確認を変えた。医務判断の権限を明確にした。採石場の監督を交代させた。看守の勤務も見直した。申立てを記録するようにした」
「はい」
「これらは、セヴェル監察官が来ると知る前から始めている」
「記録上はそうなっています」
「あなた自身もそう認識している?」
「はい」
「過去の処遇を隠すために、急いで現在を良く見せたわけではない?」
「違います」
「証明できますか」
「変更日なら記録にあります。それ以上は、俺の言葉になります」
ローデンが頷く。
「それで十分です。こちらで分けます」
「分ける?」
「現在の運用が改善されていることと、過去に何があったかは別です」
当然の話だ。
ただ、こうして明言されると腹に落ちる。
「今の黒塔がまともになったから、昔の責任が消えるわけではない」
「そうですね」
「逆に、昔の運用に問題があったから、今やっていることまで偽装になるわけでもない」
「それもそうです」
ローデンは紙を重ね直した。
「我々は両方を確認します」
逃げ道をくれるわけでも、最初から罪人扱いするわけでもない。
面倒な相手だった。
そして、こういう相手の方が厄介でもあり、ありがたくもある。
◇
夕方、ようやく聴取が終わった。
椅子から立つと、腰が僅かに固まっていた。
三時間どころではない。
ほぼ一日、昔の自分について聞かれ続けたことになる。
「今日はここまでです」
ローデンが書類を束ねる。
「明日はアルヴァン・ギレス。その後、エバン、ラッセル、ドルガンら関係者を個別に聴取します」
「俺は同席しない方がいいですね」
「同席させません」
即答だった。
「当然です」
「監獄長だからといって、証言者の横に座られては困ります」
「分かっています」
「通常業務は続けてください。現時点で、あなたを職務から外す命令はありません」
椅子を戻す。
木脚が石床を擦り、小さな音を立てた。
「一つだけ確認してもいいですか」
「どうぞ」
「俺の『覚えていない』という供述を、あなたはどう見ていますか」
ローデンはすぐには答えなかった。
書類袋の紐を結び、それから顔を上げる。
「不自然です」
やはりそうなる。
「ただし、不自然であることと、嘘だと証明できることは同じではありません」
「そうですか」
「だから、あなたの記憶ではなく記録を調べます」
ローデンは書類袋を持ち上げた。
「あなたも、思い出せないものを無理に思い出さないでください」
「それでいいんですか」
「架空の記憶を一つ作られる方が、よほど面倒です」
扉が開く。
廊下から、夕食の鐘が聞こえてきた。
遠くでは鉄製の食器が触れ合い、看守の号令に混じって八百人を超える囚人のざわめきが流れてくる。
いつもの黒塔の音だ。
ローデンたちは明日から、その中に残っている過去を一人ずつ確かめる。
俺は会議室を出た。
「グラッド」
廊下で待っていた副監獄長が振り返る。
「はい」
「夕食配膳に問題は出ていないか」
「今のところありません。北壁の工具も全数戻っています」
「分かった。執務室へ戻る」
「聴取の方は?」
「明日も続く」
それ以上は話さなかった。
証言を揃えるなと言われたばかりだ。
グラッドも聞き返さない。
二人で石の廊下を歩く。
湿った外気の匂いに、厨房から流れてくる温かい豆の匂いが混じっていた。
今日は何も決着していない。
それでも、分からないことを埋めるために嘘を一つ増やすよりはましだった。
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