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第28話 そのパンは、誰の分だ

「手を離せ!」


 夕食時の食堂に、看守の声が響いた。


 俺が着いた時には、騒ぎそのものは止まっていた。


 床にパンが一つ落ちている。


 その両側に立っていたのは、四日前に南部管区から送られてきたノル・ハイドと、四十過ぎの男だった。


 ノルは傷害歴がある。


 到着した日にも看守へわざと距離を詰め、制止を受けている。


 だからといって、今回もこいつが悪いと決めるつもりはない。


「状況を説明してくれ」


 担当看守が答える。


「こちらの男がノルの皿へ手を伸ばしました。ノルが腕を掴んで押し返しています。そこで私が制止しました」


「拳は使ったか」


「見ていた限りでは、どちらも使っていません」


「分かった」


 もう一人の男は、バド・クレイン。


 四十一歳。


 強盗と傷害で収容されて四年近い。


 本人は俺を見るなり言った。


「パンを盗ろうとしたわけじゃねえ」


「では、何をしていた」


「こいつが渡す分を取ろうとしただけだ」


 ノルの顔が険しくなる。


「誰が渡すと言った」


「新入りなら払うだろうが」


 その一言で、周囲の囚人が妙に静かになった。


 驚いた顔ではない。


 知っている顔だった。


「グラッド」


「はい」


「食事を続けさせよう。この二人だけ別室へ移す」


 見物人を増やしても仕方がない。


 床へ落ちたパンは厨房へ下げさせ、ノルには代わりを一つ出した。


 事情確認を受けたからといって、本人の食事まで減らす理由はない。


     ◇


 先にノルから話を聞いた。


「座って食ってたら、あいつが来た。新入りは三日分払えってよ」


「三日分というのは?」


「パンを半分ずつだ」


 ノルはまだ腹を立てている。


「昨日も別の奴に似たようなことを言われた。冗談だと思って相手にしなかったけどな」


「バドは、断った場合について何か言ったか」


「水場も便所も最後になる。作業場で困っても誰も手を貸さねえってさ」


「暴力を使うとは?」


「そこまでは言ってねえ。ただ、『夜まで看守が全部見てるわけじゃない』とは言われた」


 十分に脅しとして意味が通る。


「それでパンへ手を伸ばされたから、腕を掴んだのか」


「ああ。持っていかれそうだったから止めただけだ」


 看守の目撃とも食い違わない。


「今回はお前を懲罰房へ入れる理由はない」


「今回は、って言い方が気に入らねえな」


「お前には傷害歴がある。そこで腹を立てて一発殴れば、今とは話が変わっていた」


「殴ってねえだろ」


「だから今ここで話を聞くだけで済んでいる」


 ノルは少し黙った。


「次に同じことがあれば、看守を呼べ。自分で余計な材料を増やすな」


「……分かった」


「食堂へ戻っていい」


 立ち上がったノルが扉のところで振り返る。


「パンは?」


「もう出してある」


「そこだけは早いんだな」


「夕食だからな。行け」


     ◇


 次にバドを入れた。


「昔からそうなんだよ」


 座るなり、それだった。


「何が昔からだ」


「新入りが最初に払う。それだけだ」


「監獄の規則ではないな」


「当たり前だろ」


「なら、誰が決めた」


 バドは苛立ったように鼻を鳴らした。


「誰か一人が決めたわけじゃねえ。俺が入った時にもあった」


「お前も取られたのか」


「ああ。最初はパンだの肉だの持っていかれた」


 自分がされたから、新しく入った者にも同じことをする。


 珍しい話ではない。


 だから許される話でもなかった。


「食料を渡せば、何をしてもらえる」


「ここで揉めずに済む」


「具体的には?」


「水場でも便所でも、余計なことで目を付けられねえ。作業でも誰かが手を貸す。そういうもんだ」


「払わなければ?」


「居づらくなる」


「ノルには、水場や便所を最後にすると言ったそうだな」


 バドの視線が動いた。


「それくらい言うだろ」


「夜に何が起きても知らない、とも?」


「脅したつもりはねえよ」


「言ったこと自体は認めるんだな」


 少し間が空いた。


「……言った」


「パンへ手を伸ばしたことも?」


「渡さねえから取ろうとした」


「分かった」


 ここまで本人が認めていれば、余計な推理はいらない。


 グラッドが記録を書き留める。


 俺はバドへ尋ねた。


「お前が新入りだった頃、断れたか」


「無理だったな」


「なら、ノルにも同じことをさせる理由はない」


 バドの眉間に皺が寄った。


「監獄長が囚人同士のことまで口を出すのか」


「食事を脅して取るところまで放置すれば、監獄側の仕事になる」


「今まで誰も止めなかった」


「今まで止めなかったことは、今後も続ける理由にはならない」


 バドは背もたれへ深く身体を預けた。


「面倒くせえな」


「その感想は自由だ」


     ◇


 バドを戻した後、食堂担当の看守にも確認した。


「囚人同士でパンを渡しているところ自体は、以前から見ています」


「強要だと分かっていたのか」


「そこまでは。食べきれない者が同房の囚人へ渡すこともありますので」


 それなら、見ただけでは判断できない。


「水場や便所の順番はどうだ」


 今度はグラッドが答えた。


「棟によっては囚人同士で前後しているようです。大きな揉め事にならなければ、看守も細かくは介入していませんでした」


「正式な順番自体はあるんだな」


「あります」


「なら、今夜からそこだけ見てもらおう。勝手に誰かを最後へ回すようなら止める」


「食事のやり取りは?」


「本人同士が納得して分ける分には構わない。脅して取るのとは分けてくれ」


「承知しました」


 それ以上の仕組みを増やす必要はなかった。


     ◇


 バドの処分は翌朝に決めた。


「懲罰房六日」


 本人へ告げると、予想どおり顔をしかめた。


「パン一つで六日かよ」


「パン一つだけなら、ここまでにはしていない」


 記録を手元に置く。


「新しく入った囚人へ食料を要求し、拒めば水場や便所の利用で不利益を受けると告げた。夜に何があっても知らないとも言った。食料へ実際に手を伸ばしたことも、自分で認めている」


「殴ってねえ」


「そこも記録してある」


「なら軽くしろよ」


「殴っていないことまで含めて六日だ」


 バドがこちらを睨む。


「昔なら、こんなの誰も気にしなかった」


「そうらしいな」


「だったら――」


「だが、今は看守が止める」


 そこで言葉を切った。


「処分中も食事は通常量。医務対応も変わらない。決められた懲罰房の運用に従ってもらう」


 バドはしばらく黙っていたが、最後には舌打ちした。


「面倒くせえ監獄になったな」


「八百人以上を預かっている。多少面倒なくらいでちょうどいい」


     ◇


 昼食時。


 食堂へ入ると、昨日より看守の声がよく聞こえた。


「そこへ入るな。列の最後だ」


 一人の囚人が、前の方へ割り込もうとしている。


「いつもここで食ってる」


「席の話じゃない。配膳の順番だ。後ろへ回れ」


「何で急に細けえんだよ」


「元から順番は決まっている。行け」


 囚人は不満そうに周囲を見回した。


 誰も場所を空けない。


 やがて諦め、列の後ろへ向かった。


 少し離れた卓では、別の男が自分のパンを半分に割っている。


「食わないのか」


「煮込みで腹いっぱいだ。欲しいならやる」


「もらうぞ」


「勝手にしろ」


 そちらを看守は止めなかった。


 俺も止める理由はない。


 ノルは昨日と同じ辺りの席にいた。


 今日は誰にも手を伸ばされず、自分のパンを自分で食っている。


 俺に気づくと、口を動かしたまま眉を上げた。


「今日は無事みたいだな」


「見りゃ分かるだろ」


「ならいい」


 そのまま通り過ぎようとしたところで、後ろから呼ばれた。


「監獄長」


 振り返る。


「何だ」


 ノルはパンを片手に、食堂を見回していた。


「ここ、本当に刑務所なんだよな」


「外へ出て確かめるのは勧めないぞ」


 近くの卓から笑い声が漏れた。


 ノルも口元だけで笑う。


「分かってるよ」


「なら食え。冷めるぞ」


 今度こそ食堂を出た。




──────────────────

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https://youtube.com/shorts/_zEBpYRUMc4?si=9bu0xxStFm2Bo5Z8

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