第25話 殴るなとは言った。止めるなとは言ってない
「所長、中庭で囚人同士の喧嘩です」
朝の作業開始から、それほど経っていない時間だった。
報告に来た看守の息は上がっていたが、顔に切迫した様子まではない。
「負傷者は?」
「二名です。ラッセル殿が診ています。今のところ、重傷者はいません」
「武器は使ったのか」
「素手だけです。ただ、副監獄長から所長にも確認していただきたいことがあると」
囚人同士が殴り合っただけなら、グラッドが処理できる。
俺まで呼ぶ理由は、別にあるらしい。
◇
騒ぎがあったのは、南棟寄りの中庭だった。
作業に使う空箱や土籠が置かれた一角に、グラッド、ラッセル、数名の看守が集まっている。
喧嘩をした二人はすでに離されていた。
一人は三十代半ばで、右頬が赤く腫れている。
もう一人は少し若く、唇の端から血がにじんでいた。
「ラッセル。状態はどうだ」
「こちらは頬の打撲と口内の小さな傷です。歯に異常はありません」
腫れている男を指す。
「もう一人は唇の切創だけです。縫う必要はありません。ただ、どちらも今日は別々にしておいてください。腫れ方と頭痛の有無を見て、明朝もう一度確認します」
「分かった。作業復帰は明日の診察後に決めてくれ」
「そうします」
怪我そのものは大きくない。
グラッドを見る。
「それで、俺を呼んだ理由は?」
「喧嘩を止めるまでに時間が掛かりました」
「看守は近くにいなかったのか」
「いました」
グラッドの視線が、一人の若い看守へ向く。
二十代半ばほど。
顔色が悪い。
「担当していたのは彼です」
「経緯を聞かせてくれ」
若い看守が姿勢を正した。
「空箱の取り合いから口論になりました。最初に一人が相手の胸を押し、それから殴り合いになりました」
「お前はどうした」
「二度、やめるよう命じました」
「二人は従わなかったんだな」
「はい。掴み合ったまま地面へ倒れて、その後も殴り続けました」
「そこで制止に入らなかった?」
若い看守が一瞬迷い、それから頷いた。
「……どこまでやっていいのか、判断できませんでした」
「今は、実力で止めることまで禁じられたと考えたのか」
「そこまではっきり考えたわけではありません。ただ、最近は看守が囚人を殴った記録や、過去の処分も調べています。囚人からの申立ても残すようになりました」
若い看守は、言葉を選びながら続ける。
「前なら、杖で一度叩いてでも離していました。でも、それをやって怪我をさせれば、自分が処分されるのではないかと思って……」
「迷っている間に殴り合いが続いた」
「はい」
「最終的に止めたのは?」
四十代の看守が一歩出る。
「私です」
「どう止めた」
「一人が馬乗りになりかけていたので、後ろから腕を取って引き起こしました。若いのには、もう一人を離すよう指示しました」
「杖は使ったか」
「使っていません。必要ないと判断しました」
「押さえた囚人に怪我は?」
ラッセルが答えた。
「腕と肩も確認しましたが、異常はありません」
今回は古参の看守が近くにいたから、大きな怪我にはならなかった。
だが、若い看守の迷いをそのままにしておくわけにはいかない。
◇
「先に、喧嘩そのものを確認する」
二人は別々に聞いた。
頬を腫らした男の名はマルク。
罪状は強盗未遂。収容二年目。
唇を切った男はデイン。
傷害と窃盗で収容されている。
「空箱を先に取ったのは俺だ」
マルクが言う。
「作業に使うつもりで横へ置いていた。それをこいつが勝手に持っていこうとした」
「箱はお前専用だったのか」
「違う」
「担当者から、確保していいと言われていた?」
「言われてない」
「それで相手を押したのか」
マルクは少し黙った。
「……腹が立った」
「押したことは認めるんだな」
「ああ」
「その後は?」
「殴られたから殴り返した」
「看守から止まれと言われたのは聞こえていたか」
また沈黙。
「聞こえてた」
「それでも続けた」
「頭に血が上がってた」
「分かった」
デインの説明も、大筋は同じだった。
「胸を押された。だから殴った」
「押し返すのではなく、拳を使った理由は?」
「腹が立ったからだ」
「看守の制止は?」
「聞こえてた」
「何度だ」
「二度……だと思う」
「それでも止めなかった」
デインが唇を舐め、顔をしかめる。
「その時は止まれなかった」
「止まれなかったのではなく、止まらなかった。そこは分けて記録する」
デインは反論しなかった。
作業担当にも確認した。
問題になった空箱は共用品で、先に触った者へ優先権があるという決まりはない。
どちらにも落ち度がある。
ただ、同じではない。
最初に実力行使へ出たのはマルク。
最初に拳を使ったのはデイン。
その後は双方が殴り合い、二度の制止命令も無視した。
そこまで分けて残せばいい。
◇
二人を医務側へ戻してから、若い看守を呼んだ。
グラッドにも残ってもらう。
「今回、お前が杖で殴らなかったこと自体を問題にするつもりはない」
「ですが、止めるのが遅れました」
「そこは問題だ」
若い看守が背筋を伸ばす。
「命令だけで止まるなら、それが一番いい。しかし、二度命じても止まらず、実際に殴り合っていた。そこで何もしないのは違う」
「命令で止まらない場合、腕を取って押さえ込むところまでは認められるんでしょうか。素手だけでは止められない場合もあります」
「必要な範囲なら構わない」
俺は古参の看守へ目を向けた。
「今日のように、腕を取って引き離せるならそれでいい。複数人が暴れていて一人では危険なら、無理に飛び込まず応援を呼べ。工具や石を持って誰かを殴ろうとしているなら、その危険を止めるために必要な手段を使って構わない」
「杖も、ですか」
「必要なら使える。ただし、目的は止めることだ」
そこだけは明確にしておく。
「抵抗をやめた人間を、その後も殴り続ければ話は変わる」
「分かりました」
「相手を怪我させた場合は、医務へ回す。同時に、看守側も何が起きて、なぜその力を使ったのか記録を残す」
若い看守の表情に、わずかに緊張が戻る。
「記録した結果、処分されることもありますか」
「必要な制止だったなら、それだけで処分はしない」
「確認はされる?」
「当然だ」
そこで曖昧にすると、また別の問題が起きる。
「確認することと、最初からお前を疑って処分することは同じじゃない。必要だったのか、やりすぎていなかったかを後から確認できるようにするだけだ」
若い看守は少し考えてから頷いた。
「今回の私は?」
「初動が遅れたことは記録する。ただし、今回は懲罰にはしない」
「よろしいんですか」
「基準を十分伝えていなかったのは、こちらにも責任がある」
グラッドが黙ってこちらを見る。
「今日、何をするべきだったのかは説明した。次に同じ状況で何もしなければ、今回と同じ扱いにはしない」
「はい」
「それでいい」
◇
グラッドと確認すると、同じ迷いを持っている看守はほかにもいるらしかった。
「特に若い者ほど慎重になっています」
「古参は?」
「以前のやり方を知っている分、逆に力を使いすぎないよう注意している者もいます。ただ、どこまで許されるのかという疑問はあります」
「なら一度、全員へ伝えよう」
勤務を全部止めるわけにはいかないので、交代前の看守を集め、残る者には同じ内容を各責任者から引き継がせることにした。
昼前。
二十人ほどが詰所前へ集まる。
「最近の運用について、補足しておく」
全員の顔を見る。
「懲罰の代わりに殴ることは認めない。言うことを聞かないから腹いせに殴るのも駄目だ。そこは変わらない」
何人かが頷く。
「ただし、囚人同士が殴り合っている時に、止めるための実力行使まで禁じたわけではない」
今朝の出来事を、名前を出さずに説明した。
「まず命令で止める。従わず暴力が続くなら、必要な範囲で引き離す。一人では危険なら応援を呼ぶ。凶器になる物を持っているなら、周囲を下がらせることも優先していい」
一人の看守が手を挙げた。
「暴れている囚人を押さえた結果、骨折などの怪我をさせた場合は?」
「医務へ回して、状況を報告する。必要な行為だったか確認する」
「怪我をさせた時点で処分、ではない?」
「違う」
「では、止めた後に殴った場合は?」
「なぜ必要だったのか聞く。すでに抵抗をやめているなら、説明は難しくなるだろうな」
古参の看守が腕を組んだ。
「以前は、暴れた囚人を押さえた後に何発か入れる者もいました」
「それを処罰代わりにするのはやめる」
「分かりました」
暴力を全部同じ扱いにすれば、現場は動けなくなる。
だからといって、「秩序維持」の一言で何をしてもいい状態に戻すつもりもない。
「迷った場面があれば報告してくれ。後から確認する。隠される方が困る」
説明はそれで終えた。
◇
午後、ラッセルから二人の状態に変化なしと報告が来た。
頭痛、吐き気、意識の異常もなし。
明朝もう一度診察するが、懲罰房へ移すこと自体に医務上の問題はないという。
そこで処分を決めた。
マルクは四日。
デインは五日。
どちらも懲罰房へ入れる。
食事、水、寝具、医務対応は通常通りだ。
「デインの方が一日長い理由は?」
グラッドが確認する。
「押された後、最初に拳を使った。その後も馬乗りになろうとしている。マルクも殴り返しているから軽くはしないが、行為の程度は分ける」
「制止命令を無視した点は、双方に含める?」
「ああ。二度聞こえていたと認めている」
「承知しました」
本人たちにも、理由を分けて説明した。
「こいつが先に手を出したのに、俺の方が長いのか」
デインは当然のように不満を口にした。
「マルクが先に胸を押したことは記録してある。その後、お前が拳を使ったことも別に見る」
「一日も違うほどかよ」
「今回の判断はそうだ」
「納得できない」
「正式申立てを出して構わない」
デインが意外そうな顔をした。
「懲罰中でも?」
「書くこと自体は止めない。処分が自動的に止まるわけではないが、何を不当だと考えているかは残せる」
デインはしばらくこちらを見ていた。
「……分かった」
納得したのか、申立てを出すつもりなのかは分からない。
どちらでもいい。
◇
夕方。
朝に騒ぎがあった中庭を通った。
地面に落ちていた血は洗い流され、空箱も元の位置へ戻されている。
少し先で、若い看守が二人の囚人を呼び止めていた。
「待て。その工具はどこへ持っていく」
「返却だよ」
「工具庫は反対側だ」
「分かってる。近道しようとしただけだ」
「決められた経路を通れ。戻せ」
囚人の一人が面倒そうに息を吐いた。
「細けえな」
「細かくて結構だ。持っていけ」
二人は文句を言いながら向きを変え、工具庫の方へ歩いていく。
若い看守は追いかけて殴ったりしない。
だからといって、見逃しもしなかった。
俺は声を掛けず、そのまま通り過ぎた。
今朝よりは、それで十分だった。
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