第22話 訴えれば、無罪になるわけじゃない
翌朝。
王都へ戻る支度を終えたセヴェルは、執務室で最後の確認をしていた。
「私から黒塔へ新たに命令することはありません。アルヴァン・ギレスについては、現在の死刑執行停止命令に従い、王都から次の判断が届くまで現状の警備を維持してください」
「承知しました」
「報告書には、従来と同じ前提のまま死刑を執行するべきではないという意見を付けます。ただし、無罪を認定するものではありません」
「そこは本人にも伝えてあります」
昨日の聴取で、十分に確認した。
アルヴァンはまだ死刑囚だ。
第三者が上部通路にいた証拠もない。
だが、二年前の判決で使われた人物評価の一部に、見直すべき材料が出た。
今はそれだけでいい。
「黒塔に残る原本は、引き続き保管をお願いします」
「写しを持ち帰るもの以外は動かしません」
「それで結構です」
二人の書記官が書類箱を閉じる。
セヴェルは席を立った。
「それでは、王都からの判断が届くまでアルヴァンを死なせないでください」
「こちらも、そのつもりです」
「事故も含めて、です」
「念を押されなくても分かっています」
セヴェルがわずかに笑った。
「失礼しました」
◇
昼前には、三人を乗せた馬が黒塔を離れた。
道中を護衛する王国兵四名も合流し、外門が閉まる。
「ようやく静かになりますな」
隣でグラッドが言った。
「王都から返事が届くまでだ」
「それでも数日は、通常業務へ戻れるでしょう」
そう思った直後だった。
受付を担当している看守が、こちらへ走ってきた。
「所長、副監獄長。少々よろしいでしょうか」
「何があった?」
「正式申立ての受付に、囚人が並んでいます」
それだけなら珍しくない。
「何人だ」
「現在、二十三人です。まだ増えています」
グラッドと顔を見合わせた。
「内容は?」
「ほとんどが、自分の判決を調べ直してほしいというものです」
原因に心当たりがありすぎた。
◇
受付前の廊下には、本当に列ができていた。
自分で紙を書いてきた者。
字が書けず、聞き取りを求める者。
紙すら持たず、順番だけ待っている者までいる。
記録係の机には、すでに申立書が積まれていた。
一枚を取る。
《俺は盗んでいない。もう一度調べてほしい》
次。
《喧嘩は相手が先に殴った。六年は長すぎる》
さらに、
《家族のために釈放してほしい》
と書かれたものまである。
「今朝から急に増えたのか」
「はい。朝食の頃には、死刑囚の処刑が止まったという話がかなり広がっていました」
担当看守が答える。
「王都から監察官が来て、訴えを聞いたから死刑が止まった。そんな話になっているようです」
「順番が逆だな」
アルヴァンが正式申立てを出すより前に、王都では過去の記録の再確認が始まり、死刑執行停止命令も出ていた。
だが、囚人たちがそこまで知るはずもない。
グラッドが積まれた紙をめくる。
「正式申立ての使われ方が変わっていますな」
「ああ」
この制度を作ったのは、黒塔の中で起きた虐待や危険な作業、医療、懲罰などの重大な問題を記録から消させないためだ。
監獄長が裁判をやり直すためではない。
「全部追い返しますか」
記録係が尋ねる。
「いや。まず内容を確認する」
俺は列の先頭にいる男を呼んだ。
◇
三十代半ば。
罪状は窃盗。
刑期四年。
「申立ての内容を確認する。自分は盗んでいないから、判決を調べ直してほしい。それで間違いないか」
「ああ」
「黒塔へ入ってから、証拠を隠されたり、証言を強要されたりした事実はあるか」
「ない」
「黒塔の看守や職員が、お前の裁判に関わっているのか」
「それもない」
「なら、その判決が正しいかどうかを俺が判断することはできない」
男の顔が険しくなる。
「死刑囚は調べてもらえたじゃないか」
「アルヴァンの無罪を黒塔が認めたわけではない」
「だが、死刑は止まった」
「王都側で、以前の審理に使われた記録を確認し直す必要が出たからだ。黒塔へ紙を出せば刑が止まるという話ではない」
「それなら、俺はどうすればいい」
「判決について外部へ申し立てる正式な手続きがあるなら、その方法は確認する。ただし、黒塔の正式申立てとして俺が無罪かどうかを調べることはできない」
男はしばらく黙った。
「紙は捨てるのか」
「捨てない。何を求めたのかは残す。ただ、黒塔で調査する案件としては扱わない」
「……分かった」
納得したというより、これ以上押しても仕方がないと判断した顔だった。
それでいい。
全員に好かれるための制度ではない。
◇
次の男も、判決への不満だった。
その次も同じ。
四人目で内容が変わった。
「俺は裁判の話じゃない」
五十代くらいの囚人が言った。
「北棟三階の房だ。雨が降ると天井から水が落ちてくる」
「どの程度だ」
「俺の房は寝台の端が濡れる。隣はもっとひどい。前の雨では寝具まで濡れた」
「以前にも報告したか」
「してない」
「理由は?」
男は少し迷った。
「言ったところで、どうにもならないと思ってた」
グラッドが個人記録へ目を落とす。
「収容は三年前。過去の営繕申請には名前がありません」
「分かった。これは黒塔側で確認する」
男がこちらを見る。
「屋根を見るのか」
「雨漏りなら、まず実際に漏れているか確認する。当然だろう」
「……ああ」
男が戻っていく。
俺は机に積まれた紙を見た。
「全部まとめて追い返していたら、今の話も埋もれていたな」
「そうなります」
グラッドが頷く。
「制度を変える必要はありません。ただ、受付の段階で対象を確認した方がよさそうです」
「同感だ」
新しい仕組みを作るほどではない。
今ある正式申立てを、想定していた通りに使えるよう整理すればいい。
「受付で三点確認しよう。何を調べてほしいのか。いつ起きたことか。黒塔へ収容された後の問題か」
「判決そのものへの異議だった場合は?」
「黒塔の権限では判断できないと説明する。外部へ出せる書状や手続きがあるなら、従来の規則に従って扱う」
「申立書自体は?」
「捨てない。受付けた事実と、黒塔で調査しない理由を残す」
グラッドが記録係へ伝える。
列はまだ長い。
だが、何を確認するのか決まれば処理は早くなった。
◇
昼の点呼後、各棟へ同じ説明を出した。
正式申立てをしたこと自体を理由に処分はしない。
申立てだけを根拠に、相手を処罰することもしない。
黒塔内での処遇、医療、作業、安全、懲罰、看守の行為については確認する。
ただし、過去の裁判を監獄長の判断で取り消したり、刑期を短縮したりすることはできない。
説明が終わると、当然のように不満が出た。
「話が違うぞ!」
「死刑囚は処刑が止まっただろ!」
「俺だって無実だ!」
何人かの声が重なる。
俺は前へ出た。
「一つ勘違いしている」
ざわめきが少し収まる。
「アルヴァン・ギレスは無罪になっていない。今も死刑囚だ」
今度は完全に静かになった。
「王都が、以前の判決について確認し直す必要があると判断した。それで処刑が一時的に止まっている。黒塔へ申立書を出した者の刑を、俺が勝手に変えられるようになったわけではない」
「なら、訴える意味がないじゃないか!」
奥から声が飛ぶ。
「黒塔の中で起きたことなら意味はある」
俺は北棟の方角を示した。
「今朝、雨漏りの申立てがあった。事実なら黒塔側の問題だから確認する。医務から休養を命じられたのに作業へ出された、危険を訴えたのに無視された、看守から不当な暴力を受けた。そういう話なら調べる」
「裁判はどうする!」
「黒塔には裁判をやり直す権限がない」
「役に立たねえ監獄長だな!」
笑い声が少し上がった。
「監獄長の気分だけで判決を変えられる方が困るだろう」
別の場所から、
「そりゃそうだ」
と声がした。
今度はさっきより大きな笑いが起きた。
「できないことまで引き受けるつもりはない。ただし、黒塔が確認すべきことまで黙らせるつもりもない。それだけだ」
全員が納得したとは思わない。
それでも、説明するべき線は引けた。
◇
午後。
北棟三階の雨漏りは、営繕担当が実際に確認した。
二つの房とも天井と壁の境目に水の跡が残っており、一方は寝具の置かれていた場所まで染みている。
「屋根側を見なければ原因は分かりません」
営繕担当が報告する。
「石板がずれているだけか、その下の木まで傷んでいるかは、上へ出て確認する必要があります」
「黒塔に屋根を専門に扱える者はいるか」
「常勤にはいません。簡単な補修ならできますが、下地まで傷んでいるなら職人を呼んだ方が確実です」
「分かった。無理に今日直す必要はない。まず安全に確認できる段取りを組んでくれ」
「承知しました」
そこで話は終わった。
分からないものを、急いで直したことにする必要はない。
◇
夕方になると、別の話が上がってきた。
「北壁作業へ移りたいという囚人が十一人います」
グラッドが名簿を置いた。
「ノエラは追加人員を求めていないはずだ」
「はい。現在の二十四名で足りています」
「なら、配置は変えない」
「理由だけ確認しました。重労働区分で食事量が少し増えると知った者が多いようです」
なるほど。
北壁へ行けば飯が増える。
そこだけ広がったらしい。
「希望した順に入れるわけにはいかないな」
「当然です」
「ただ、今の仕事より向いている奴がいる可能性はある」
グラッドが名簿の余白を見せる。
「そのため、希望者には以前の仕事も聞いています」
石工。
木工。
井戸掘り。
荷車の修理。
屋根葺き。
いくつか具体的な職歴が並んでいた。
「本人の申告だけか」
「今のところは」
「それで十分だ。申告しただけで配置は変えない。必要な仕事が出た時に、実際にできるか確認してから使う」
「個人記録へも残しますか」
「残してくれ。ただし、申告と確認済みの技能は分ける」
石工だと名乗っただけの者を、いきなり北壁へ入れる必要はない。
だが、必要になった時に候補がいると分かっているだけでも違う。
「北壁へ行けないと伝えれば、希望を取り下げる者もいるでしょう」
「それで構わない。飯目当てでも申告するのは自由だ」
グラッドが名簿を閉じた。
「では、その形で整理します」
◇
日が落ちる頃、朝から積み上がっていた申立書はようやく片づいた。
黒塔側で確認するもの。
外部の判決や刑期についての訴えで、黒塔では判断できないもの。
内容が曖昧で、本人へもう一度確認するもの。
全部で五十件を超えていた。
「明日も同じ数が来ますかな」
グラッドが受領簿を閉じる。
「分からない。アルヴァンの噂で今日だけ集中した可能性もある」
「続いた場合は?」
「続いてから考える。今の段階で受付を増員する必要はない」
「承知しました」
机には、北棟の雨漏りについての確認票と、北壁への配置を希望した囚人たちの職歴メモが残っている。
死刑囚の処刑が止まったという噂から始まった騒ぎだったが、終わってみれば黒塔側で本当に確認すべき問題も拾えた。
申立てを出せば望みが通るわけではない。
希望した仕事へ必ず移れるわけでもない。
それでも、何を求めているのかを聞かなければ、必要な情報までこちらへ上がってこない。
「仕事が増えましたな」
グラッドが言った。
「以前よりはな」
「面倒ですか」
「面倒なのは間違いない」
書類を重ねて立ち上がる。
「ただ、八百人以上いるのに誰も何も言わない方が、俺は困る」
グラッドは少し考えてから頷いた。
「それもそうですな」
監獄が静かだからといって、中で問題が起きていないとは限らない。
少なくとも今は、何かあれば机まで上がってくる。
なら、必要なものだけ拾って処理すればいい。
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