第2話 囚人に工具を持たせろ
「所長、本当にこれを?」
翌朝、北壁へ向かおうとした俺を呼び止めたのは、副監獄長のグラッドだった。
その手には、俺が出したばかりの命令書が握られている。
「ノエラ・セインに作業員六名を付け、北壁の排水路を調査させる。必要な工具の使用も許可する……とありますが」
「ああ」
「囚人に槌や鑿を持たせることになります」
「だから?」
グラッドが言葉に詰まった。
危険だと言いたいのだろう。
それ自体は間違っていない。
だが俺が昨日確認した限り、採石場では囚人が日常的に大槌を振るい、木工作業場では鋸や手斧を使っていた。それなのに、誰が何を持ち出したのか記録する台帳は二年前からまともに更新されていない。
「工具庫の槌が今何本あるか言えるか?」
「……確認すれば」
「つまり分からないんだろ」
「はい」
「なら問題は、囚人に工具を持たせることじゃない。持たせた工具を管理してないことだ」
俺は命令書を指で叩いた。
「今日から全部に番号を振れ。貸した相手、作業区画、返却時刻を記録する。一本でも足りなければ、その区画の作業を止めて探す。囚人だから信用しないんじゃない。信用しなくていい仕組みにする」
「……承知しました」
グラッドはまだ納得しきっていない顔だったが、反論はしなかった。
それでいい。
俺はこの世界の監獄制度を理想郷に作り替えたいわけじゃない。
九十九日後に壁から投げ落とされたくないだけだ。
そのために必要なら、今までのやり方を全部ひっくり返す。
北壁へ着くと、ノエラはすでに六人の囚人を連れて待っていた。
昨日まで泥と石粉にまみれて石を運ばされていた女が、今日は腰に測量用の縄と墨壺を下げている。
「その六人か?」
「はい」
ノエラは一人ずつ紹介した。
「ドニ。石工を二十五年。バルクは井戸掘り職人です。こちらの二人は建築現場で働いていました。残る二人は力仕事に慣れています」
「罪状は?」
同行していた看守が名簿を確認する。
「傷害、窃盗、密輸加担が二名、強盗が二名です。脱獄歴はありません」
「分かった」
俺が頷くと、看守たちが木箱を運んできた。
槌、鑿、鉄棒、縄、手桶。
それぞれに白い塗料で番号が振られている。
ノエラが少し目を見開いた。
「昨日まで、工具は作業場に積んであるだけでしたが」
「昨日までがおかしかったんだろ」
「囚人に道具を渡すこと自体を禁止すると思っていました」
「石工に素手で石を割らせる趣味はない」
ドニが思わず笑いかけ、近くの看守を見て慌てて口を閉じた。
別に笑うくらい構わない。
「始めてくれ」
「はい」
ノエラたちは壁に取りつく――かと思ったが、誰一人として壁へ触れなかった。
最初に調べ始めたのは地面だった。
壁際の土を掘り、苔の生え方を確かめ、排水溝へ細い棒を差し込む。井戸掘り職人のバルクは地面へ耳を当て、何度か場所を変えながら小さな穴を掘った。
俺には何をしているのか半分も分からない。
だが六人の動きには迷いがなかった。
「ここです」
一時間もしないうちに、バルクが声を上げた。
掘り返した土の下から石造りの水路が現れる。
人の腕を二本並べたほどの幅だ。
ノエラが棒を差し込むと、途中で硬いものに当たった。
「昨日見た出口だけではありません。ここから先も塞がれています」
ドニが膝をつき、石の隙間へ鑿を当てる。
やがて現れたのは、自然に流れ込んだ土砂ではなかった。
形を揃えた石が隙間なく組まれ、その周囲を黒い粘着質の材料で固めてある。
「瀝青ですな」
ドニが指先で黒い部分を擦った。
「屋根や船底へ使うものです。水を通さねえ」
「排水路を、水を通さないように塞いだ?」
「そういうことになります」
ノエラが答えた。
完全に故意だ。
しかも雑に石を詰め込んだのではない。水路を知る者が、確実に機能を殺す方法を選んでいる。
「外せるか?」
「外せます。ただし一気に抜かない方がいいです。中にどれだけ水が溜まっているか分かりません」
俺は周囲を見た。
「必要なことをやれ」
ノエラが短く頷いた。
水を逃がす溝を先に掘り、作業員を横へ退かせる。ドニが最後の石へ鑿を入れた。
石が外れた瞬間、穴の奥から低い唸りが聞こえた。
「下がれ!」
ノエラが叫ぶ。
次の瞬間、濁った水が勢いよく噴き出した。
手桶で汲めるような量じゃない。
人の足首ほどの深さになりながら、掘っておいた溝へ一気に流れ込んでいく。
近くにいた看守が顔を引きつらせた。
「これが……壁の中に?」
「この一ヶ所だけで、です」
ノエラが水量を見ながら答える。
「北壁には同じ排水経路が十二ヶ所あります。全部が塞がれているなら、かなりの水圧が壁へ掛かっていたはずです」
「どのくらい危なかった?」
「雨量次第ですが、強い雨が何日か続けば崩れても不思議ではありません」
俺の記憶に残っている大脱獄の日も豪雨だった。
北壁が崩れ、そこから大量の囚人が逃げ出す。
ゲームを遊んでいた頃は、囚人たちが何か細工したのだろう程度に考えていた。
だが違う。
少なくとも壁が崩れる原因は、ずっと前から仕込まれていた。
「十二ヶ所、全部調べろ」
「今日中にですか?」
「無理なら人を増やす。点検だけでもいい。塞がれているかどうかを先に確かめろ」
「分かりました」
ノエラがすぐに六人へ指示を出した。
昨日まで彼女をただの反抗的な囚人だと思っていた看守たちも、もう口を挟まない。
目の前で壁一本救われれば、態度も変わるらしい。
昼過ぎ。
食事を運んできた囚人たちが北壁の近くで足を止めた。
昨日まで水のようだった麦粥には豆が入り、少量とはいえ野菜も浮いている。
作業員の一人が器を見て、何度も瞬きをした。
「これ……俺たちのですか?」
「他に誰が食うんだ」
「いや、その……」
何か言いかけた男は、結局黙って器を受け取った。
周囲の囚人も妙に静かだ。
もっと喜ぶかと思ったが、むしろ警戒している。
当然か。
昨日まで殴って飯を減らしていた監獄長が、急に食事を増やしたのだ。
毒でも入っていると思われても仕方ない。
「所長」
ノエラが隣へ来た。
「どうして食事まで変えたんですか?」
「腹を空かせた奴に重労働させても効率が落ちる」
「それだけですか?」
「それ以上何がある」
ノエラはしばらく俺を見たあと、少しだけ口元を緩めた。
「いえ。そういうことにしておきます」
なんだ、その言い方は。
だが休憩時間を潰して説明するほどのことでもない。
午後。
十二ヶ所の点検が終わった。
「全部です」
執務室へ戻った俺に、泥だらけのノエラが報告書を差し出した。
「十二ヶ所すべて、同じ方法で塞がれています」
「施工時期は?」
「正確には分かりません。ただ、使われた石と瀝青の状態を見る限り大きな差はありません。同じ工事で行われた可能性が高いです」
俺はグラッドへ目を向けた。
「北壁の修繕をしたのは?」
「二ヶ月前です。ベルガ商会が手配した職人たちでした」
「ベルガ商会?」
「黒塔では長く取引しております。修繕資材だけでなく、食料や薪、油なども」
俺は嫌な予感がした。
「食料も?」
「はい」
「帳簿を持ってこい」
「今ですか?」
「今だ」
運ばれてきた帳簿を机いっぱいに広げる。
前世でも、予算や物品管理の数字には散々付き合わされた。
数字そのものは嘘をつかない。
嘘をつくのは、それを書いた人間だ。
先月、ベルガ商会から納入されたことになっている小麦は百袋。
配給記録では、囚人と看守用に五十九袋。
前のディルクが町へ横流しした記録が十二袋。
廃棄が一袋。
なら、倉庫には二十八袋前後残っていなければおかしい。
昨日、俺が数えた在庫は九袋だった。
「十九袋足りない」
グラッドが帳簿を覗き込む。
「所長の横流し分では?」
「それが十二袋。別に記録がある」
「では……」
「食料庫担当を呼べ」
やってきたのは、ロアンという五十歳ほどの看守だった。
俺が数字を順番に読み上げる間、男の顔から少しずつ血の気が失われていく。
「百袋、本当に届いたのか?」
「も、もちろんでございます」
「じゃあ十九袋はどこへ消えた」
「それは……配給の記録漏れでは」
「一ヶ月で十九袋も?」
「……」
「ロアン」
俺は帳簿を閉じた。
「俺は昨日まで横流ししてた男だ。お前を清廉潔白かどうかで裁くつもりはない」
自分で言っていて嫌になるが、事実だから仕方ない。
「だが今後も数字をごまかされると困る。何袋届いた?」
ロアンの額から汗が落ちた。
「……八十袋です」
「残り二十袋は?」
「帳簿だけ百袋にして……差額を、ベルガ商会の担当と……」
「いつからだ」
「私が関わったのは一年ほど前からです」
「前にもあった?」
「分かりません。本当に、そこまでは」
どうやらベルガ商会が全部を指示しているとは限らない。
ロアンが持ちかけたのか、商会側から誘ったのか、それすら今は分からない。
ただ一つ確かなのは、同じ商会が二ヶ所で名前を出したことだ。
北壁の修繕。
食料の短納品。
偶然と決めつけるには、少し気味が悪い。
「ロアンは食料庫担当から外せ。横領額は調査する。ただし勝手に殴るな。逃げないよう監視だけ付けろ」
「しょ、所長! どうか!」
「連れていけ」
ロアンが出ていったあと、俺はベルガ商会の名を指でなぞった。
監獄の中だけを直せば済む話ではなくなってきた。
とはいえ、いきなり商会へ乗り込むのは早い。
こちらが何も知らないことを教えるようなものだ。
「グラッド」
「はい」
「囚人八百人の名簿を出せ」
「全員ですか?」
「前職、罪状、刑期、今の作業。それと読み書きができるか、専門技能があるか分かるものも全部だ」
「何をなさるおつもりで?」
俺は北壁の報告書へ目を落とした。
水路技師に石を運ばせていた。
それだけで、監獄一つが崩れかけていた。
だったら他にも、使い方を間違えている人間がいるかもしれない。
「この監獄に誰がいるのか、監獄長の俺が知らなさすぎる」
囚人という一言で八百人をまとめるのは簡単だ。
だが八百人全員が同じ人間であるはずがない。
「一度、全部洗い直す」
翌朝。
机の上には、最初の百人分だけ整理された名簿が積まれていた。
俺は上から順番に目を通し、三枚目で手を止めた。
ガイラス・ヴォルン。
六十二歳。
国家反逆罪。
刑期、無期。
現在の担当――北棟便所清掃。
前職。
王国軍兵站総監。
「……グラッド」
「はい」
「これ、本当に同一人物か?」
「間違いございません」
「王国軍の兵站総監が、なんで便所掃除してる」
「囚人ですので」
俺はしばらくグラッドを見た。
なるほど。
この監獄には、まだまだ俺の知らないものが埋まっているらしい。




