第1話 その女囚に石を運ばせるな
「所長。反抗した女囚ですが、三日ほど飯を抜いてから地下採石場へ戻してよろしいですね?」
目を覚まして最初に聞かされたのが、それだった。
俺は返事をせず、目の前の男を見る。
四十代くらいの坊主頭。首が太く、黒い革鎧の腰には剣ではなく鞭を下げている。背後には石壁と鉄格子付きの細い窓があり、机の上には羽根ペン、羊皮紙、見覚えのない巨大な鍵束まで置かれていた。
「所長?」
男が怪訝そうに呼びかけてくる。
「……三日も食わせないのか」
「はい。その程度は必要でしょう。石を運べと命じても動かなかったそうですので」
「暴れたのか?」
「いえ」
「誰かを傷つけた?」
「それもありません。ただ命令に従わなかっただけです」
それで三日絶食させた後、重量物運搬へ戻す。
刑罰以前に、管理方法としておかしい。
「却下だ。飯は出せ」
男が目を見開いた。
「ですが所長、反抗を許せば他の囚人にも――」
「腹を空かせた人間に重い石を担がせて、作業効率が上がると思うのか?」
「それは……」
「三日食わずに同じ仕事ができると思うなら、自分で試してから提案してくれ」
男が黙る。
そこでようやく、自分の声に違和感を覚えた。
低い。
俺の声より太く、少し掠れている。
机の端に置かれた銀盆を手に取り、磨かれた面を覗き込んだ。
そこに映ったのは、知らない中年男だった。
黒髪には白いものが混じり、左頬には古い傷が一本。目つきが悪く、黙って座っているだけでも人を威圧しそうな顔をしている。
だが、本当に知らない顔ではなかった。
「ディルク・ハーゼン……」
「はい。いかがなさいました?」
坊主頭の男が答えたことで、嫌な予感が確信に変わった。
俺は相川宗一郎、四十六歳。
前世では二十二年間、刑務官として働いていた。
その俺が今いるのは、日本の刑務所でも病院でもない。
かつて遊んだRPG『アルセリア年代記』に登場する《黒塔監獄》。
そして、この身体の名はディルク・ハーゼン。
黒塔監獄の監獄長だ。
ゲームでは名前と死亡場面くらいしか出てこない脇役なのに、妙に覚えている理由がある。
《黒塔大脱獄》。
王国中から集められた囚人およそ八百人が一斉蜂起し、看守棟を焼き、城門を破って脱走する。
そこで逃げた囚人の中には、後に主人公側へ加わる者もいれば、敵勢力へ流れる者もいた。物語の中盤以降を大きく変える事件だった。
そして反乱が始まった直後、真っ先に殺される男がいる。
監獄長ディルク・ハーゼン。
囚人を日常的に殴り、食費を横領し、病人まで死ぬ寸前まで働かせた結果、囚人たちから誰よりも恨まれていた。
「冗談じゃないな……」
「所長?」
「気にするな」
机の上の書類を引き寄せ、日付を探した。
王国暦四百八十二年、秋月十三日。
記憶違いでなければ、大脱獄は冬月二十三日。
百日後だ。
百日後、俺は囚人たちに捕まり、監獄塔の上から投げ落とされる。
二十二年も刑務所で働いた末に、異世界へ来てまで囚人に殺されるつもりはない。
「監獄長を辞めた場合は、どうなる?」
坊主頭の男が露骨に困った顔をした。
「所長がお忘れになるとは思いませんでした。王国監査が終わるまで、監獄長は任地を離れられません」
「いつ決まった?」
「先月です。所長ご自身が各部署へ通達されました」
「俺が通達したのか」
「はい」
この身体の持ち主、余計な仕事だけはきっちりしている。
書類を探すと、実際に監査予定まで残っていた。
九十日後。
王都から監査官が来る。
それまで監獄長は全収容者と記録の管理責任を負い、正当な命令なしに任地を離れることを禁じる。無断逃亡なら単なる辞職ではなく、軍事施設を放棄したものとして扱われる。
つまり、逃げれば反逆扱い。
残れば百日後に殺される。
なら、選べる道は一つしかない。
大脱獄を起こさせない。
「監獄内を見たい」
「今からですか?」
「ああ。収容棟、食料庫、医務、作業場。全部だ」
男――副監獄長のグラッドに案内させ、俺は黒塔監獄の中を歩き始めた。
◇
十分もしないうちに頭が痛くなった。
収容棟は臭気がこもり、一室へ十人以上が押し込められている。寝台が足りず、石床へ布を敷いただけの者も珍しくない。
昼食として運ばれてきた木椀の中身を見て、さらに気分が悪くなった。
「これが一食分か?」
「はい」
ほとんど湯だ。
底に麦が少し沈んでいる。
「こんなものを食わせて作業させてるのか」
「囚人ですので」
グラッドは本気で当然だと思っているらしい。
「囚人でも、働かせるなら動ける状態にはしておけ」
「しかし、罪人へ必要以上の食事を与える必要が?」
「必要以上なんて言ってない。倒れない程度に食わせろと言ってる」
日本の刑務所と、この世界の監獄を同じにする気はない。
法律も違う。
人権という言葉が同じ意味で通じるとも思わない。
ここには盗賊も殺人犯もいるし、危険な人間なら拘束する必要もある。規則に違反すれば処分も必要だ。
だが、監獄運営の基本まで世界によって逆になるわけじゃない。
ろくに食わせず、眠らせず、殴り続けた人間を八百人も同じ場所へ閉じ込め、その周囲を百人そこそこの看守で囲んでいる。
そんな状態で反乱が起きないと思う方がおかしい。
「食料庫を見せてくれ」
「こちらです」
倉庫には小麦袋や乾物が並んでいたが、囚人数を考えると決して多くは見えない。
「帳簿上、囚人用の食料はもっとあるのか?」
「はい。ただ、支給したことにして余った分については町へ売っていますので」
グラッドの答え方に引っかかった。
「誰の指示だ?」
沈黙。
「グラッド」
「……所長の指示です」
「そうか」
予想していたのに、実際に言われると胃に来る。
ゲームで悪徳監獄長だった男だから当然といえば当然だが、この身体の名義で横領記録まで残っている可能性が高い。
「今日から止めろ」
「ですが、大きな収入になっています」
「その金を抱えたまま囚人八百人に囲まれたいか?」
「暴れたなら鎮圧すればよろしいかと」
「看守は何人いる?」
「百二十七名です」
「囚人は?」
グラッドがようやく黙った。
「数で勝ってる相手を飢えさせて、毎日恨みまで積み上げてるんだ。鎮圧できる前提で考えるな」
俺は倉庫内をもう一度見る。
「まず現在の在庫を数え直せ。囚人用、看守用、廃棄予定を分けて記録する。今日の麦粥は量を増やせ」
「肉も付けますか?」
「いきなり毎日そんな予算はないだろ。豆や芋、安く仕入れられる肉があるかも調べろ。あと飲み水だ。腹を壊してる奴が多い」
「井戸は三つあります」
「三つとも同じ水質だと決めつけるな。確認しろ」
「承知しました」
納得している顔ではない。
それでも命令には従う。それなら今は十分だ。
「勘違いするなよ。囚人を甘やかしたいわけじゃない」
グラッドがこちらを見る。
「病人や栄養不足の人間を無理に働かせても、怪我と死亡が増えて仕事が止まる。反乱の理由まで増える。それが嫌なだけだ」
「つまり、監獄を安定させるためだと」
「そういうことだ」
善人になりたいわけじゃない。
生き残りたい。
そのために、まともな監獄運営をする。
それだけだった。
◇
作業場へ着くと、さらに酷かった。
男も女も足に鉄輪を付け、切り出した石を運ばされている。疲労で足元がふらついても、看守が鞭を鳴らせばまた歩き出す。
その中で、一人だけ石を持っていない女がいた。
二十代半ばほど。
汚れた金髪を肩口で切り、痩せてはいるが、立ち方には妙な芯がある。両手には古い傷が多く、指先には石工とも違う黒い汚れが染みついていた。
「あの女か?」
「はい。ノエラ・セインです」
グラッドの声には露骨な苛立ちが混じる。
「石を運ばせようとしても従いません」
名前を聞いた瞬間、ゲームの記憶が繋がった。
ノエラ・セイン。
後に《黒塔大脱獄》で逃げ出し、帝国側で名を上げる天才魔導技師。
元は水路や魔導設備を扱う技師で、王都の大規模な水路事故の責任を問われてここへ送られた人物だった。
そんな人間に何をさせている。
「なぜ技師に石を運ばせてる?」
「囚人だからです」
「罪状と職能は別だ。技師なら、技師として使える仕事があるだろ」
グラッドが困惑した顔をする。
「囚人に専門仕事を任せるのですか?」
「石を運ばせるより役に立つならな」
ノエラの前まで行く。
近くにいた看守が鞭へ手を掛けたので、視線だけで止めた。
「ノエラ・セイン」
女が俺を見る。
灰色の目に、怯えより強い警戒と敵意が浮かんでいた。
当然だ。
彼女にとってディルク・ハーゼンは、これまで自分を石運びに使ってきた側の人間でしかない。
「石運びを拒否した理由を聞きたい」
「答えたところで、また鞭を打たれるだけです」
「今日は打たせない。理由だけ話せ」
ノエラはすぐには信用しなかった。
しばらく俺を見た後、作業場の外、北側を指す。
「その石、北壁の補修に使っていますよね」
「ああ」
「増やすほど危険になります」
グラッドが顔をしかめた。
「監獄長の前で適当なことを――」
「グラッド、黙って聞け」
ノエラの視線が少し変わった。
「続けてくれ」
「北壁は、石が足りなくて傷んでいるんじゃありません。地下へ入った水が抜けていない。そこへ上から石だけ足せば、重さまで増えます」
「外から見ただけで分かるのか?」
「水路を扱っていました。壁そのものより、壁際の地面を見れば分かります」
「現場を見せてもらおう」
グラッドがすぐ反応した。
「所長。作業許可区画の外へ囚人を出すのは――」
「看守を付ける。足枷も外さない。俺の立ち会いで北壁まで連れていくだけだ」
規則を無視する気はない。
必要なら、危険を管理した上で動かす。
◇
北側の中庭へ着くと、ノエラは壁を見上げるより先に地面へしゃがんだ。
土を指で崩し、壁際の湿り方を確かめる。
続いて排水溝へ移動し、中を覗き込んだ。
「やはり流れていません」
「雨が少ないだけじゃないのか?」
「この場所なら、山側から入る地下水が常にあります。壁の裏へ水を溜めないよう、建設時に排水経路が造られているはずです」
「それが機能していない?」
「少なくとも、ここは」
ノエラが壁の低い位置まで歩き、石の継ぎ目を調べる。
しばらくして、指先が止まった。
「所長。この壁、最近手を入れていますか?」
「グラッド」
「二ヶ月ほど前に補修を行いました。外部の職人を入れています」
「図面は残っているか?」
「管理棟にあるはずです」
「持ってこさせてくれ」
看守の一人が走る。
その間にもノエラは壁沿いを移動し、何ヶ所か同じような場所を調べていった。
「どうだ?」
「おかしいです」
「何が?」
「排水口が見当たる位置だけ、石の組み方が新しい」
しばらくして図面が届いた。
ノエラは受け取ると、その場で広げる。
壁の線を追い、排水経路を確認したところで表情が険しくなった。
「十二ヶ所あります」
「排水路が?」
「はい。北壁だけで十二本です」
ノエラは最も近い位置へ戻り、石の継ぎ目を指した。
「ここが一本目の出口です。本来なら水を逃がす穴がある。でも石で塞がれています」
「補修で間違えて塞いだ可能性は?」
「一ヶ所なら考えます」
彼女は図面へ目を落とした。
「でも、さっき見た位置も同じです。図面通りなら、排水口がある場所だけを選んで新しい石が入っている」
背中に冷たいものが走った。
ゲームでは百日後、季節外れの豪雨によって北壁が崩れる。
俺はずっと、反乱を起こした囚人が何かした結果だと思っていた。
だが、壁の方が先に壊れかけていたとしたら。
「このままだと、どのくらい持つ?」
「今ここで断言はできません」
ノエラは即答しなかった。
「内部を調べないと、水がどれだけ溜まっているか分かりません。雨量にも左右されます。ただ、この状態を放置していいとは言えません」
その答え方は信用できた。
「調べられるか?」
「工具と数人の作業員を使えるなら」
「必要な人間は選べる?」
「職歴を確認させてもらえるなら。石工と、井戸掘りか水路工事の経験者が欲しいです」
「分かった。今日から石運びは外す。北壁の調査を担当してくれ」
ノエラが初めて明確に驚いた。
「……私に任せるんですか」
「技師なんだろ?」
「囚人です」
「それは知ってる。だから看守も付けるし、工具も管理する。その上で仕事はできる奴にやらせる」
ノエラは言葉を失った。
俺としては当たり前のことを言っているだけだ。
刑務所だって、誰に何をさせるかで事故率も生産性も変わる。まして、壁が崩れたら囚人も看守もまとめて巻き込まれる。
「逃げるなよ」
「逃げません」
「即答だな」
ノエラが少しだけ口元を緩めた。
「今朝までは、逃げられるなら逃げたいと思っていました」
「それを監獄長に言うのか」
「聞いたのは所長です」
そこまで言われると返しようがない。
だが、ノエラはすぐ図面へ視線を戻した。
「もう一つだけ」
「何だ?」
「この補修をした人たちが、排水路の存在を知らなかったとは考えにくいです」
「理由は?」
「塞いでいる位置が正確すぎます。壁全体を雑に補強した結果、偶然穴まで塞いだようには見えません」
「つまり?」
「少なくとも、排水口を塞ぐ作業そのものは意図してやっています」
誰が。
何のために。
そこまではまだ分からない。
なら、今は決めつけるべきじゃない。
「まず十二ヶ所全部を調べよう。話はそれからだ」
「はい」
図面を持つノエラの表情が、石を運ばされていた時とは変わっていた。
百日後に崩れるはずの北壁。
その原因らしいものを、転生した初日に見つけてしまった。
囚人の恨みだけ減らせば生き残れると思っていたが、どうやら黒塔はそれ以前に、監獄としてまともに立っているかどうかから確認し直す必要がありそうだった。
──────────────────
YouTubeショート動画作ってみました。
https://youtube.com/shorts/_zEBpYRUMc4?si=9bu0xxStFm2Bo5Z8




