第19話 王都の監察官は、壁の名前を見た
五日後。
朝の鐘が鳴って間もなく、王都から監察官が到着した。
監察官一名。
記録を担当する書記官が二名。
道中を護衛してきた王国兵四名は外門側に残り、黒塔へ入るのは三人だけだという。
北壁では仮設柵と支柱の設置が終わり、ノエラたちは基礎を開く前の確認を続けている。
工事はまだ途中だが、一般の囚人が使う動線とは分離され、危険区域への出入りも一ヶ所に絞られている。
少なくとも、王都から来た人間を迎えるために作業を止める必要はなかった。
「監獄長ディルク・ハーゼンです」
外門の内側で名乗る。
先頭の男が一礼した。
「セヴェル・オルテン。今回の再確認を担当します。滞在中、黒塔に残る記録と関係者への聞き取りに協力をお願いします」
四十代後半ほどの細身の男だった。
腰には剣を下げているが、軍人というより法務官か役人に近い雰囲気がある。
「確認用の部屋と、関係記録の写しを用意しています」
「ありがとうございます。ただ、最初にアルヴァン・ギレス本人から話を聞きます」
「黒塔側の記録を見る前に?」
「はい。先にこちらの記録を読めば、その内容に引っ張られる可能性があります。本人が何を主張しているのかを、まず本人の口から確認したい」
「分かりました」
順番としては妥当だ。
「グラッド。独房区画まで案内を頼む」
「承知しました」
セヴェルが俺へ向き直った。
「監獄長は最初の聞き取りには同席しないでください。王国での事件だけでなく、黒塔で受けた処遇についても確認します」
「構いません。警備上、看守はどこまで付けますか」
「独房の格子は開けません。扉の外に二名、会話が聞こえない程度の距離でお願いします」
「その形で対応します」
三人をグラッドに任せた。
◇
聞き取りは一時間ほど続いた。
その間に、北壁から届いた報告を確認する。
支柱に新しいずれはなし。
作業者二十四名にも負傷者なし。
炊事、水運び、医務から人員は抜いておらず、ほかの作業への影響も今のところ許容範囲に収まっている。
北壁について、俺が今すぐ判断することはなかった。
しばらくすると執務室の扉が叩かれる。
「所長。監察官がお戻りです」
「通してくれ」
入ってきたセヴェルは椅子へ座る前に言った。
「次に、アルヴァンの部下三名が連れていかれた旧東処分房を確認します」
「本人から、その部屋についても聞いたのですか」
「はい。壁に三名の名前が残っていることも確認しました」
「では案内します」
◇
旧東処分房は、発見してから必要以上に触っていない。
扉を開けると、湿った空気が流れ出す。
石壁には、長年にわたって刻まれた文字や傷が残っている。
読み取れる名前だけで百三十七。
そのうち九名は今も黒塔に収容されている。
正式には十六年前に使用停止となったはずなのに、少なくとも三年前まで使われていた形跡がある。
「使用停止後も、長期間使われていたわけですね」
「はい。ただし、正式な処分房としてではありません」
グラッドが答える。
「夜間の一時隔離などに、記録を残さず使われていた例を確認しています」
二人の書記官が記録を取る。
「三名の名前を見せてください」
壁の一角へ案内する。
バルト・レイン。
ヘルム・カーン。
ルース・バーデン。
三人の名前は近い位置に刻まれ、その脇には三本の短い斜線も残っている。
「この印については?」
「アルヴァンによれば、第三騎士団で自分たちの道具を区別するために使っていた印だそうです」
「筆跡も本人へ確認した?」
「はい。バルトは本人の字。ルースも本人の筆跡と見ている。ヘルムは自分の名前を読めても書けなかったため、ルースが代筆した可能性が高い、という説明でした」
「ヘルムが字を書けなかったことについて、別の裏付けはありますか」
「本人記入欄が空欄の書類が複数残っています。ただし、読み書き能力を正式に調べた記録まではありません」
「分かりました」
セヴェルは壁を見上げた。
「三名をここへ移した記録は?」
「残っていません」
「では、実際にこの部屋へ入ったと判断した根拠を確認したい」
グラッドがエバンの証言書の写しを渡す。
二年前。
エバンは東側内廊下の夜勤を担当していた。
夜番責任者の指示で、三人をそれぞれの房から出し、この部屋へ連れてきた。
監獄長も承知済みだと説明されていた。
一時間に満たない時間で三人は元の房へ戻され、その時点では全員が自力で歩いており、目立った新しい負傷もなかった。
室内へ入ったのは夜番責任者だけ。
その男は何枚かの紙を持っていた。
そして三人のうち、静かだった男が、
『俺たちは同じことを言った。それでいい』
と話していた。
セヴェルが最後まで読み終える。
「エバンという看守は、今も勤務していますね」
「はい」
「閉鎖された部屋へ囚人を移し、移動記録も残していない。現在も通常勤務のままですか」
「現時点では」
「理由を聞かせてください」
「規則違反がなかったとは考えていません」
そこを庇うつもりはない。
「ただ、当時は夜番責任者からの正式な指示として受け、監獄長も承知していると説明されていた。この部屋自体も、長年にわたって非公式に使われていたようです」
「それなら看守個人の責任ではない、と?」
「そこまでは言いません。本人の判断で記録を残さなかった部分と、組織として常態化させていた部分を分けて確認する必要があると考えています」
「不問にする予定ではない?」
「ありません。ただし、三人が後に死亡したことまでエバン一人へ負わせるつもりもありません」
セヴェルが少し間を置いた。
「後ほど本人から直接聞きます」
「お願いします」
◇
次に確認したのは、三人が黒塔へ収容された時点の医務記録だった。
バルトは左肩に切り傷。
ヘルムは右前腕に打撲。
ルースには目立った外傷なし。
バルトが後に負う肋骨三本の骨折は、この時点では記録されていない。
ヘルムも歩行できる状態だった。
「三名とも、黒塔へ到着した時点で重傷だったとは言えませんね」
「はい」
そして、護送隊から黒塔へ渡された引継書。
《三名は互いに接触させないこと》
《個別に収容し、会話を禁ずる》
《三名から護送任務に関する申し立てがあった場合、監獄長判断で受理せず》
セヴェルは三枚のうち、この書類に最も長く目を通した。
「これは写しですね」
「原本は別に保管しています。必要であれば確認していただけます」
「後ほどお願いします」
指先が書面の下部で止まった。
「監獄長印の受領がある」
「はい。黒塔が正式に受け取った書類として扱っています」
「その一方で、三名は収容初日の夜に同じ部屋へ入れられている」
「エバンの証言が正しければ、そうなります」
「接触禁止の指示とは矛盾する」
「そこは俺も同じ認識です」
セヴェルは書面を机へ戻した。
「では、今回なぜアルヴァン・ギレスの死刑執行が停止され、過去の申立てが再確認されることになったのか説明します」
ようやく、王都側が持ってきた話へ入った。
◇
「二年前、アルヴァン・ギレスは、自分がバルト、ヘルム、ルースの三名へ王国書記官の護送を命じたと繰り返し主張しました」
「本人からも聞いています」
「しかし当時の審理では、その護送任務が正式なものであったことを確認できなかった。そのため、彼の説明の一部は裏付けのない主張として扱われています」
セヴェルが書記官へ合図する。
王都から持ち込まれた薄い帳面の写しが机へ置かれた。
「最近、軍関係の古い文書を整理した際、当時とは別の保管先から出発記録の控えが見つかりました」
開かれたページには、出発日、任務内容、同行人数が記されている。
王国書記官一名を北方へ護送。
護衛として第三騎士団の三名。
バルト・レイン。
ヘルム・カーン。
ルース・バーデン。
そして命令者。
《アルヴァン・ギレス》
「……あったのか」
思わず帳面へ目を落とす。
「少なくとも、三名が王国書記官の護送任務に就き、アルヴァンがその命令を出したことは確認できます」
「では、途中で役人を名乗る六名と争った件についても?」
「そこは別です」
セヴェルの返答は早かった。
「護送任務が正式だったことと、途中で三名を負傷させた行為が正当だったかどうかは分けて考えます。また、アルヴァンが主張している『封書を持たない者へ引き渡すな』という細部についても、この記録だけでは確認できません」
「この一枚で、三人の処分まで誤りだったと決まるわけではない」
「はい」
そこを一緒にしないのは重要だ。
「ただし、別の問題が出ました」
セヴェルは帳面を閉じなかった。
「当時、アルヴァンが存在すると主張した護送任務を確認できなかったことは、その後、本人が国王殺害未遂について行った供述の信用性を判断する際にも使われています」
「つまり、以前から裏付けのない話をする人物だと評価された?」
「そのような評価が、判断材料の一つになっています」
「今回の記録で、その前提が変わったわけですね」
「少なくとも一部は」
セヴェルが頷く。
「存在しないと考えられていた護送任務は、実際には存在していた。アルヴァンが二年前から主張していた内容の一部が正しかったことになります」
「それだけで国王殺害未遂が誤判になるわけではない」
「もちろんです」
そこも即答だった。
「死刑判決は、アルヴァン本人の行動、現場にいた近衛兵の証言、王城側の記録など複数の要素から出ています。今回の記録は、無罪を証明するものではありません」
「それでも死刑を止めるだけの理由にはなった」
「はい。人を処刑した後で、本人の供述に対する評価をやり直すことはできませんから」
筋は通っている。
死刑囚が無実だと分かったから止めたのではない。
死刑判決を支えた判断材料の一つに問題が見つかったから、殺す前に確認する。
それだけだ。
「護送時の引継書について、王都側に同じ内容の記録は残っていますか」
「現時点では確認できていません」
「三人を接触させるな、護送任務について訴えても受け取るな、という指示がどの段階で付いたのかも不明?」
「はい。そこも確認対象にします」
セヴェルは引継書を見た。
「ただし、軍の出発記録に書かれていないからといって、収監時に別の指示が追加されること自体が不自然とは限りません。この書面が違法だったとも、誰かが勝手に作ったとも、今の段階では判断しません」
「分かりました」
新しい紙が一枚出るたび、犯人まで一人増えるような話にはしなくていい。
◇
「次に、現在の懲罰房を確認させてください」
旧東処分房を出たところで、セヴェルが言った。
「三名の死亡記録には懲罰と食事制限が出てきます。現在、黒塔でどう扱っているのかも確認したい」
「案内します」
空いている懲罰房を一室開ける。
通常の一人房より一回り狭い。
中にあるのは水、排泄用の容器、夜間用の寝具。それに、房内で行える簡単な作業道具だけだ。
セヴェルが中へ入り、壁や床まで確認する。
「食事は?」
「通常と同じ量を出しています」
「懲罰なのに減らさない?」
「食事を減らすこと自体を罰には使っていません」
「では、通常の一人房との違いは?」
「懲罰期間中は通常作業へ出しません。食堂へも出さず、他の囚人との接触も制限します」
畳まれた寝具を示す。
「起床後は寝具を畳ませます。医務上の必要がない限り、日中ずっと寝て過ごすことも認めていません。房内清掃のほか、麻紐をほぐして束ね直すような危険の少ない単純作業をさせています」
「通常作業よりは軽いですね」
「軽いです。ただ、休暇として使えるようにもしていません」
「故意に規律違反を繰り返し、ここへ入りたがる者が出た場合は?」
「その反復も次の処分判断へ含めます。ただし、飯を減らしたり寝具を取り上げたりして身体を壊す方向にはしません」
「理由は?」
「規律違反をしたなら、その行為について処分すれば足ります。飢えや病気まで罰に混ぜる必要はないと考えています」
セヴェルは書記官が記録するのを待った。
「この運用で問題が出ないと思っていますか」
「始めてまだ日が浅い。抜け道として使われるようなら、その時点で見直します」
「身体を害さない範囲で?」
「はい」
「分かりました」
褒められもしない。
否定もされない。
監察なら、それで十分だ。
◇
午後は三人の死亡までの記録を確認した。
バルトは黒塔へ収容された後、肋骨を三本折っている。
ラッセルは休養を命じたが、翌日には採石場へ戻され、十二日後に高熱で死亡した。
ヘルムは冬季に七日の減食処分を受けた。
途中で隠していたパンが見つかり、さらに十四日追加。
十五日目には発熱し、二十一日目に死亡。
ルースは作業終了時までは生存していたとドルガンが証言している。
しかし夜間点呼は個人確認ではなく人数だけ。
いつ、どの時点で房からいなくなったのかは確定できず、三日後に旧採石場区画で遺体が見つかった。
セヴェルは三人分の記録を並べる。
「三名とも、死亡までの経緯は異なります」
「はい」
「現時点で、黒塔が三名を計画的に殺害したと判断できる材料はありません」
「俺もそこまでは考えていません」
「ただし、処遇に問題がなかったとも言えない」
バルトは医務判断が無視された。
ヘルムには、発熱後も減食が続いた。
ルースに至っては、いつ房を離れたかすら分からない。
「三名を一つの事件へまとめて処理するつもりはありません」
俺は答えた。
「それぞれ何が起きたのか分けて確認します」
セヴェルがこちらを見る。
「黒塔の責任を軽くするためではなく?」
「一緒にした方が黒塔へ重い責任を負わせられるなら、そうするべきだとは思いません。逆も同じです」
バルトが死んだ理由と、ヘルムが死んだ理由と、ルースが消えた理由。
同じ三人だからといって、必ず同じ原因である必要はない。
セヴェルはそれ以上追及せず、アルヴァンが提出した正式申立ての写しへ目を移した。
収容初夜に三人が旧東処分房へ移された理由。
護送任務についての申立てが存在したのか。
存在した場合、それを誰がどう処理したのか。
三人が死亡するまでに受けた処遇。
そして、確認結果を本人へ知らせること。
「この申立ては、王都から死刑停止命令が届くより前に出されていますね」
「はい」
「今日確認した出発記録について、アルヴァン本人は?」
「まだ知りません。俺も先ほど初めて見ました」
セヴェルは少し考えた。
「では、私から伝えます。監獄長にも同席していただきたい」
「黒塔へ出された申立てにも関係するからですか」
「はい。本人への説明を別々に行い、後から内容が食い違う方が面倒です」
「分かりました。同席します」
◇
夕方。
アルヴァンは独房の格子越しに、王都から持ち込まれた出発記録の写しを見ていた。
バルト。
ヘルム。
ルース。
三人の名前がある。
命令者として、自分の名前もある。
二年前から存在すると主張し続け、そのたびに確認できないと言われてきた護送任務。
その記録が、今になって王都側から出てきた。
アルヴァンは長い間、口を開かなかった。
「……あっただろう」
怒鳴り声ではなかった。
それだけに重かった。
セヴェルが答える。
「あなたの主張のうち、三名へ正式な護送任務を命じたという点は、この記録で裏付けられました」
「では、なぜ二年前に見つからなかった」
「今回見つかった控えは、当時照会された場所とは別の保管先に残されていました。当時の確認が十分だったかどうかも調べます」
「十分だったはずがない」
「その点も含めて確認するために、私はここへ来ています」
アルヴァンの指が、写しの端を強く掴む。
「三人は俺の命令に従った」
「正式な護送任務へ出たことは確認できました。ただし、途中で六名と争った際の行動まで、すべて正当だったと確認できたわけではありません」
「分かっている」
返答は早かった。
一枚の記録で三人の罪まで消えるとは、アルヴァン自身も考えていないらしい。
「それで、俺の判決にはどう影響する」
「これから確認します」
セヴェルは余計な期待を持たせない。
「今回の記録によって、あなたが過去に行った供述の信用性を判断する前提の一部に誤りがあった可能性が出ました。そのため、死刑執行は停止されています」
アルヴァンの顔つきが変わる。
「国王殺害未遂についても調べるのか」
「はい。ただし、無罪であることを前提に調べるわけではありません」
「それでいい」
セヴェルが書記官へ合図する。
一人が革鞄から厚い書類束を取り出した。
「明日は、あなたが国王殺害未遂で死刑判決を受けた事件そのものを確認します」
アルヴァンの視線が書類束へ落ちた。
部下三人の話ではない。
今度は、アルヴァン・ギレス本人がなぜ死刑囚になったのかを調べる。
死刑を止めた理由が、ようやくその事件そのものへ繋がろうとしていた。
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