第17話 死刑囚を、まだ殺すな
王国の紋章が押された封蝋を割り、二枚の書面を取り出した。
一枚目を半分ほど読んだところで手が止まる。
もう一度、最初から読み直した。
「アルヴァン・ギレスの死刑執行を、一時停止するそうだ」
向かいに立っていたグラッドの表情が変わった。
「判決が覆ったのですか?」
「いや。そこまでは書いてない」
王都から新しい命令が出るまで、死刑を執行してはならない。
六日後、軍法審理に関する監察官一名と書記官二名を黒塔へ派遣する。
それまでアルヴァンを現在の収容下に置き、生存を確保すること。
さらに、本人に関係する収容記録、懲罰記録、医療記録、申立てその他の書類について、廃棄や改変を禁ずる。
命令そのものは明確だった。
二枚目には理由も記されている。
「以前に退けられたアルヴァンの申立てのうち、一件について再確認する必要があるらしい」
「再審ではなく、再確認ですか」
「ああ。無罪を認めるとも、判決をやり直すとも書いてない」
死刑判決は今も有効。
ただし、確認が終わるまで執行だけ止める。
慎重すぎるほど慎重な文面だった。
グラッドが書面の末尾を確認する。
「発令日は……こちらで新しい正式申立てを受け付け始めるより前です」
「アルヴァンが最近出した三人についての申立てを見て、王都が動いたわけじゃないな」
「日程を考えても不可能です」
そこははっきりしている。
アルヴァンは以前から、何度も王都へ申立てを続けていた。そのどれかが、今になって別の判断を受けたのだろう。
「使者から事情を聞こう。知らないことまで答えさせる必要はない」
「応接室へ案内しています」
◇
王都から来た使者は、三十代ほどの痩せた男だった。
軍人というより役人に近い。
王国印の入った外套は埃で白くなり、靴にも長旅の泥がこびりついている。今回は護衛隊ではなく、命令書を急いで届けるため単騎で来たらしい。
「長旅のところ悪いな。確認したいことがある」
「私に知らされている範囲でしたら、お答えします」
「まず、アルヴァンの裁判をやり直すと決まったわけではないんだな?」
「違います」
使者は迷わなかった。
「現時点で決定されているのは、過去に退けられた申立ての一件を再確認することと、その確認が終わるまで死刑執行を停止することです。判決が無効になったわけではありません」
「何の申立てを調べるのか、あなたは知らされている?」
「いいえ。監察官が関係書類を携えてくると聞いておりますが、内容までは」
「黒塔側で準備しておくものは?」
「アルヴァン・ギレス本人。それから、監察官が求めた場合に関係記録を提示できるようにしていただければ十分です。追加の指示は到着後になるでしょう」
「分かった」
こちらから勝手に必要書類を絞り込み、見せるものを選ぶ必要はない。
求められた時に出せるよう、散らばっている記録の所在を確認しておけばいい。
命令書の一文を指す。
「『生存を確保すること』と、わざわざ書いてある。通常の死刑停止命令でも、こういう表現を使うのか?」
使者は書面を見た。
「珍しい表現ではありません。監察対象となる本人が到着前に死亡すれば、確認そのものができなくなりますから」
「それ以上の意味がある可能性は?」
「私には分かりません」
妙に含みを持たせたり、知ったふりをしたりしない。
助かる。
「では、そのまま受け取る。監察官が来るまでは何があっても死なせるな、ということだな」
「はい」
「本人へ死刑停止を伝えて問題は?」
「問題ありません」
使者は疲労が強そうだったため、今夜は黒塔で休ませることにした。
命令書を届けた人間を、用が済んだ途端また馬へ乗せる必要はない。
◇
使者が下がると、グラッドが机の上へ書類箱を置いた。
「監察官へ提示する記録ですが、どこまで準備しますか」
「アルヴァン本人のものは一通り確認できるようにしよう。それと、バルト、ヘルム、ルースの三人も」
「旧東区画についても?」
「ああ」
二年前。
三人は黒塔へ到着したその夜、正式には閉鎖されていた旧東処分房へ一緒に移されている。
ところが、護送時の引継書には、
《三名は互いに接触させないこと》
と書かれていた。
さらに、
《三名から護送任務に関する申し立てがあった場合、監獄長判断で受理せず》
ともある。
その書面には黒塔監獄長の受領印まで残っている。
「監察官から求められなくても、こちらから全部出しますか?」
「そこは向こうの調査方法に任せる。ただ、聞かれた時に『探さないと分かりません』では困る」
「では関係記録の一覧を作ります。原本は今の保管場所から動かさず、確認用の写しだけまとめます」
「その方がいい」
一ヶ所へ全部集めれば便利だが、紛失や火災が起きた時にまとめて消える。
「受領印のある引継書も外しません」
「当然だ。あれだけ抜いたら、見つかった時に余計説明できなくなる」
「現在の正式申立ても?」
「残しておく。王都の命令が出た後に作られたものでも、今のアルヴァンが何を求めているかという記録にはなる」
グラッドが頷き、必要な書類を書き出していく。
「監察官が使う部屋も必要ですね」
「旧東区画以外で頼む」
「会議室を一つ空けます。独房からの移動経路も、一般囚人と交わらない形にします」
「警備人数はお前に任せる。ただ、監察官が本人と個別に話したいと言った場合まで、俺が横へ座る必要はない」
「安全確保に必要な看守は置きます」
「それでいい」
監獄長が横で聞き耳を立てていたら、確認できるものまで確認できなくなる。
◇
午後、アルヴァンの独房へ向かった。
今回は房から出さない。
俺とグラッドが格子の前に立ち、看守二人には少し離れた場所で待機してもらう。
「アルヴァン」
壁際に座っていた男が顔を上げた。
「また三人の話か」
「今日は王都からだ」
それだけで目つきが変わった。
「処刑日が決まったか」
「逆だ。死刑執行が止まった」
アルヴァンは動かなかった。
「……どういう意味だ」
「新しい命令が出るまで、お前を処刑するなと王都から正式な書状が来た。六日後、監察官一人と書記官二人がここへ来る」
「理由は?」
「過去に退けられた、お前の申立ての一件を再確認するためだ」
アルヴァンがゆっくり立ち上がった。
「再審が決まったのか」
「違う。死刑判決は残ったままだ。再確認が終わるまで執行だけ止める」
「どの申立てだ」
「まだ分からない。書状にも書いていないし、今日来た使者も知らされていなかった」
「命令はいつ出た?」
「最近お前が出した三人の申立てより前だ」
アルヴァンの眉が動く。
「なら、あれを見て動いたわけではないのか」
「そういうことになる」
「書面を見せろ」
用意していた写しを看守から受け取り、格子越しに渡した。
アルヴァンは立ったまま読み始めた。
死刑が止まった。
少なくとも、六日後まで殺されることはない。
それでも、読み終えた男の顔に安堵は浮かばなかった。
「遅すぎる」
低い声だった。
「俺は何度出したと思っている」
写しを持つ手に力が入る。
「三人が生きていた頃からだ。護送命令を確認しろ。あいつらへの処分を見直せ。俺の指示書があったはずだと、何度も求めた」
「死刑判決を受けてからも?」
「出した。全部退けられた」
アルヴァンは紙から目を離した。
「それが、なぜ今になって確認だ」
「俺には分からない」
「王都から何も聞いていないのか」
「聞いてない。監察官なら理由を知っているかもしれない」
「答えると思うか?」
「答えるかどうかも、来てからの話だ」
想像だけならいくらでもできる。
誰かが助けようとしている。
逆に、何かを隠すために動いた。
どちらも今は根拠がない。
「黒塔に残っている記録は?」
「求められれば出す」
「三人のものもか」
「ああ。入所時の記録、医務、懲罰、死亡までの経緯。旧東処分房へ一緒に移された件も、護送時の引継書も含める」
「監獄長の受領印がある書類まで?」
「それも黒塔の記録だからな」
アルヴァンの目が細くなる。
「お前自身の責任を問われる可能性もあるぞ」
「その時は説明する」
「知らなかったと言うつもりか」
少し考えてから答える。
「俺にその時の記憶がない、なんて話を監察官にしても通じない。監獄長の印で受け取られている以上、黒塔として受領した事実は認める」
そこから先は、書類と証言で判断してもらうしかない。
「隠す気はない、ということか」
「今さら一枚抜いて何になる」
アルヴァンは返事をせず、再び命令書へ目を落とした。
しばらくして聞いてくる。
「監察には、お前も立ち会うのか」
「求められれば。ただ、お前から直接話を聞きたいと言われたら、俺は席を外す」
「監獄長が?」
「お前が黒塔でどう扱われたかまで確認する可能性もあるんだろ。監獄長が横で全部聞いていたら、話しにくいこともある」
「俺が監察官を襲えば?」
「看守は置く。拘束も外さない。そこまで自由にする話じゃない」
アルヴァンが小さく息を吐いた。
「変なところだけ徹底しているな」
「事故が起きたら、六日待った意味がなくなる」
そこでアルヴァンは少し黙った。
「一つ聞く」
「何だ?」
「お前は、俺が国王を殺そうとしたと思っているのか」
今までの調査だけでは判断できない。
アルヴァン本人からも、国王殺害未遂の具体的な経緯はまだ聞いていない。
「分からない」
そう答えると、アルヴァンは眉一つ動かさなかった。
「ただ、お前が国王を殺そうとしたかどうかと、バルトたちが黒塔でどう扱われたかは別だ」
「……」
「仮にお前が本当に有罪でも、三人への扱いまで正当だったことにはならない。逆に、三人への処遇に問題があったからといって、お前の死刑判決まで間違いだったことにもならない」
一緒にしてしまえば、どちらか一方の事実だけで全部を決めることになる。
「だから分けて調べる」
アルヴァンはしばらく俺を見ていた。
やがて、手元の紙を軽く持ち上げる。
「これは返すのか」
「写しだから持っていていい」
「死刑囚に王命書を?」
「写し一枚で城門は開かないだろ」
「破いたらどうする」
「お前の分がなくなるだけだ。原本は別にある」
アルヴァンの口元がわずかに動いた。
「相変わらず妙な男だ」
「それくらいなら聞き慣れた」
独房を離れる時、アルヴァンはまだ命令書を見ていた。
◇
夕方、北壁へ向かった。
内側には木製の仮設柵が伸び、一般の通行区画と工事区域が完全に分けられている。
出入口は一ヶ所。
そこに看守が立ち、出入りする人数と工具を記録していた。
「中へ入らないでくださいね」
姿を見つけるなり、ノエラが釘を刺してきた。
「今日は入る気はない」
「今日は、ですか」
「今後も呼ばれるまでは入らない」
「それなら結構です」
信用が少しだけ上がったらしい。
「進み具合は?」
「仮設柵の第一段階は終わりました。昨日沈んだ場所にも、新しい動きは見えていません。ただし、地面の中まで安定したという意味ではありません」
「明日は?」
「支えを追加してから調査を再開します。いきなり基礎石は外しません」
「二十四人はそのまま?」
「はい。ただ、壁際へ入れる人数は十二人以下に保ちます。残りは石と土の運搬、木材加工です」
「分かった。必要なものが増えたらグラッドへ上げてくれ」
「所長が直接持ってこなくても?」
「そこまで暇そうに見えるか?」
ノエラが少し考えた。
「よく現場には来ます」
「……それは認める」
笑われた。
それくらいの余裕があるなら、今日の北壁は大丈夫そうだった。
◇
執務室へ戻ると、グラッドが机いっぱいに書類を並べていた。
「アルヴァン関係の原本所在は、ほぼ確認できました」
「早いな」
「写しを作るだけなら明日中に終わります。ただ、旧東処分房そのものを監察官が確認したいと言う可能性もあります」
「その場合は見せよう。壁の名前も今のまま残してある」
「承知しました」
「北壁は第一段階の仮設柵まで終わった。明日から支えを増やして調査再開だそうだ」
「では、どちらも予定通りですな」
机の端に王都からの命令書を置く。
「あと六日か」
「監察官の到着まで、ですね」
「ああ」
グラッドは少し考えてから、予定表をこちらへ向けた。
「記録整理はこちらで進めます。北壁の人員と資材については、ガイラスとノエラから上がってきたものを私がまとめます」
「俺は必要な判断だけすればいい、と」
「できれば、そうしてください」
「ずいぶん念を押すな」
「専門家へ任せた仕事を確認しに行って、そのまま作業へ加わろうとなさるので」
「そこまではしてないだろ」
「北壁の縄を越えようとはしました」
反論できない。
「分かった。勝手に穴を掘ったりはしない」
「それでお願いします」
六日後、王都から監察官が来る。
何を確認し、どんな判断を持ち帰るのかは、まだ分からない。
北壁も、基礎をどこまで作り直すことになるのか確定していない。
分からないことは多い。
それでも、期限だけははっきりした。
六日間。
アルヴァンを現在の収容下で確実に生かし、残っている記録を失わず、北壁の工事も止めない。
今やるべきことは、それで十分だった。
第17話━改訂版了
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