第16話 北壁は、修理じゃ足りない
「所長。北壁の作業を止めます」
朝、執務室へ入ってきたノエラは挨拶より先にそう言った。
服も靴も泥だらけで、袖には濡れた土が付いている。
「排水路で何かあったのか?」
「排水路ではなく、その下です。今のまま石を外すのは危険です」
机の前まで来ると、ノエラは持っていた板を置いた。
簡単な北壁の断面が描かれている。
「塞がれていた排水口は十二ヶ所ありました。そこを開ければ壁の裏の水は抜け始めます。ただ、問題は水が溜まっていた期間です」
「地盤まで傷んでいる?」
「その可能性があります」
断定はしなかった。
ノエラは図の壁下を指した。
「長い間、水が抜けなければ、壁の裏へ染みた水が細かい土を少しずつ運びます。外から壁が立って見えても、その下にある土が減っている場合がある。昨日、二ヶ所で細い棒を入れて確認したところ、途中からほとんど抵抗がなくなりました」
「空洞になってるのか?」
「まだ大きさまでは分かりません。だから止めました」
その答えで十分だった。
危険かもしれないから、分からないまま石を外さない。
「今いる六人だけで調べられるか?」
「無理です」
「何人必要だ?」
「まず六人追加してください。掘る者、土を運ぶ者、支えを入れる者を分けたいです。ただし、人数を増やせば早く終わるというものでもありません。狭い場所へ人を入れすぎると、退避の邪魔になります」
「分かった。必要な職歴は?」
「石工と、土木経験者。それから木組みができる人を一人」
ベンを回すことも考えたが、家具工房側の仕事もある。
「木工班から選べるか確認させる。ベン本人が必要かどうかは、そっちで決めてくれ」
「それでお願いします」
「厨房、水運び、医務からは抜かない。ほかの作業から六人選ぼう」
第三井戸が止まっている以上、水運びはまだ減らせない。
病人は以前より減ったが、医務も余裕があるわけじゃない。
「グラッド。作業歴を見て候補を出してくれ。ノエラに選ばせる」
「承知しました」
ノエラが板を持ち上げた。
「もう一つあります」
「まだあるのか」
「人を増やす前に、作業区画を作り直してください」
「どう変える?」
「今は看守用の縄が外周にあるだけです。壁の一部を開けるなら、内部にも立入禁止線が必要です。出入口は一ヶ所だけ。誰が中へ入り、誰が出たかを数えてください。それと工具も、作業開始前と終了後ではなく、出入口を通るたびに確認したいです」
「壁が動いた時に、中へ人を探しに行かなくて済むようにするのか」
「はい。崩れた後で人数が分からないのが一番困ります」
もっともだ。
「その形でやろう」
◇
昼前には、追加の六人が決まった。
元石工が二人。
道路工事にいた者が二人。
井戸掘り経験者が一人。
残る一人は木工職人だった。
ノエラ、ドニ、バルクたち元の六人と合わせて十二人。
北壁の内側には、新しく二重の縄が張られた。
外側は見物や通行人を入れないため。
内側は、本当に作業する人間だけが入る区域だ。
入口には看守が一人立ち、木札へ名前と工具番号を記録する。
「十二人、全員入ったか?」
「はい。工具も一致しています」
グラッドが確認する。
俺が縄の内側へ入ろうとすると、ノエラに止められた。
「所長は外です」
「見るだけだぞ」
「見るだけの人が中に増えると、逃げる時の邪魔になります」
「そこまで邪魔か」
「はい」
即答だった。
「分かった。ここにいる」
専門家を置いた意味がなくなるので、素直に引いた。
ドルガンも別の位置から壁を見ている。
採石場の責任者はハロルのままだが、危険箇所についての助言役として、北壁で使う石の状態も確認させていた。
「所長。あいつの言う通りだ」
ドルガンが顎でノエラを示す。
「壁際は人数を入れすぎねえ方がいい。石が一個動くと、逃げ道なんざすぐ塞がる」
「お前も中には入るなよ」
「分かってるよ」
昔なら勝手に入っていたかもしれないが、今は命令権がないことも理解しているらしい。
◇
最初に外したのは、壁の下部に積まれている石ではなかった。
ノエラは壁から少し離れた地面を掘らせた。
「そこから見るのか?」
縄の外から聞くと、ノエラがこちらを向く。
「いきなり壁の根元を掘れば、支えている土まで崩す可能性があります。少し離れた場所から深さを確かめます」
掘った穴へバルクが細い鉄棒を差し込む。
途中までは固い。
さらに押すと、急に棒が沈んだ。
「止めて」
ノエラが長さを確認する。
「もう一本、少し東へ」
二本目も途中から抵抗が消えた。
三本目。
今度は固いまま。
何度か場所を変えながら調べていく。
ガイラスも呼んでいたが、彼は少し離れたところで記録を見ているだけだった。
「分かるか?」
「私に地面の中は見えません」
「兵站総監でも?」
「兵站総監は土を透視しません」
「それもそうだな」
ガイラスは北壁の図面を見ながら続けた。
「ただ、修理が大きくなるなら、石材、木材、人員、食料を何日分使うかは計算が必要です。規模が分かってから呼んでください」
「今すぐ出せと言っても無理か」
「何を直すのか決まっていないのに必要量だけ当てろと言われても、それは計算ではなく占いです」
「分かった。占いは頼まない」
ガイラスは満足そうに頷いた。
◇
午後まで調査を続け、ノエラが縄の外へ出てきた。
「追加でもう十二人欲しいです」
「十二人増やすのか」
「一度に壁際へ入れるわけではありません」
朝の十二人と合わせて二十四人になる。
「掘り出した土と石を運ぶ班を外側に置きます。それと、支え用の木材を加工する班。中で作業する人数は増やしません」
「どこから回す?」
「石運びと道路整備からで足ります。厨房や医務はいりません」
「水運びもそのままで?」
「はい」
グラッドと配置を確認する。
道路整備から七人。
石材運搬から五人。
ほかの仕事を止めずに出せる範囲だった。
「二十四人で確定しよう。ただし、全員が同じ区域に入らないよう役割を分ける」
「最初からそのつもりです」
「分かってる。確認しただけだ」
ノエラが少しだけ笑った。
◇
問題が起きたのは、追加の十二人が配置されてから一時間ほど後だった。
壁際の土を少しずつ取り除き、傷んだ下部の石を調べていた時だ。
「止めて!」
ノエラの声が飛んだ。
作業者全員の手が止まる。
ドニが触れていた基礎石の一つが、ほんのわずかに傾いた。
見ていた俺には、
「少し動いた」
程度にしか見えない。
だが次の瞬間、その下の土が音もなく沈んだ。
「全員、外へ!」
ハロルではなく、北壁作業の安全を任されているノエラの指示が飛ぶ。
中にいた者たちが工具を置き、決めていた一ヶ所の出口へ向かう。
看守が一人ずつ数える。
「十!」
「十一!」
「十二!」
最後にノエラが出る。
「十二名、全員退避!」
内側に人はいない。
工具は置いたままだが、今は構わない。
数秒遅れて、基礎石の横にあった土が拳二つ分ほど沈み込み、小石が中へ吸い込まれた。
底へ落ちる音が、少し遅れて返ってくる。
誰も喋らなかった。
「怪我人は?」
「いません」
ノエラが答える。
「全員確認します」
一人ずつ見ても、怪我はない。
「工具は?」
「中に九点残っています。今は回収しません」
「それでいい」
命より鑿一本の方が大事なわけがない。
ノエラは地面へ近づかず、沈んだ場所を遠くから見た。
「やはり下が抜けています」
「どのくらい大きい?」
「今見えた分だけでは判断できません。安全な場所から穴を追加して測ります」
ここでも即答しなかった。
◇
作業を完全に止め、安全区域をさらに広げる。
長い鉄棒を使い、離れた場所から何ヶ所も探る。
さらに細い試掘孔を作り、土の固さと深さを確認した。
夕方近くになって、ようやくノエラが集計した。
「少なくとも八メートルほど、土が弱くなっている区間があります」
「八メートル全部が空洞なのか?」
「違います。完全に空いている場所と、土が残っていてもかなり緩んでいる場所が混ざっています。どこまで続くかは、まだ全部見えていません」
「壁を全部壊す必要は?」
「それもまだ決められません」
ノエラは図面へ新しい線を引いた。
「今分かっている範囲だけなら、この区間の下部を一度開け、傷んだ土を除いて支えられる地盤まで戻し、基礎から積み直す方法を考えます。ただし、その先も同じ状態なら範囲は広がります」
「排水口だけ直す修理じゃ済まない?」
「はい」
ノエラが北壁を見上げる。
「これは壁の表面を直す仕事ではありません。少なくとも一部は、基礎から作り直す必要があります」
百日後に崩れる北壁。
ゲームでは、豪雨の後に大きく崩れて囚人たちが外へ出る道になる。
最初は排水口を塞いだから水が溜まり、それを開ければ防げるのだと思っていた。
甘かった。
長い間抜けなかった水は、すでに壁の下へまで影響している。
「今日中に再開は?」
「しません」
「明日は?」
「朝一番で沈みが増えていないか確認してからです」
「分かった」
俺が決められるところはそこまでだ。
「ガイラス」
「聞いております」
「必要量を出せそうか?」
「ようやく入口が見えてきました」
ガイラスが図面を受け取る。
「ただし、八メートルで終わる場合と倍に広がる場合では話が違います。まず判明している区間を基準に、最低限必要な石材、木材、運搬量を出します。追加分は調査が進んでからです」
「それで頼む」
「食料については、二十四人になった程度なら大きな変更は不要です。重労働区分へ移る者だけ確認します」
「厨房へは俺からじゃなく、グラッド経由で伝えてくれ」
「承知しました」
何でも俺が直接走って指示する必要はない。
ノエラが工事を考え、ガイラスが必要物資を計算し、グラッドが人員を動かす。
俺がやるのは、誰に何を任せ、止めるべき時に止めることだ。
◇
日が傾く前に、内側の作業区画へ仮設の木柵を入れた。
縄だけでは、夜間に誰かが誤って入る可能性がある。
出入口は一ヶ所。
看守が封をし、翌朝まではノエラの許可なしに開けない。
「工具九点は中に残したままでいいな?」
グラッドが確認する。
「ああ。誰も入れるな」
「明朝、人数と工具を改めて数えてから作業を再開します」
「頼む」
ノエラも帰る前に柵を確認した。
「所長」
「どうした?」
「明日からは、こちらが呼ぶまで縄の内側へ入らないでください」
「今日は入ってないだろ」
「今日だけは」
「信用ないな」
「監獄長が落ちた穴を埋める作業まで増やしたくありません」
「それは俺も嫌だ」
ノエラは少し口元を緩めてから、すぐ真顔に戻った。
「冗談ではなく、基礎を開け始めたら今日より危険になります」
「ああ。専門家の指示には従う」
「なら大丈夫です」
そこまで言い切られると、こっちも勝手なことはできない。
執務室へ戻ろうとしたところで、外門の鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、もう一度。
荷車が入る時の合図ではない。
「何の鐘だ?」
グラッドが門の方を見る。
「王国の公用使者です」
ほどなく門衛が走ってきた。
「所長。王都から騎馬の使者が到着しました」
「王都から?」
「はい。王印付きの書状を携えています」
北壁の報告かと思ったが、門衛が続けた言葉は違った。
「宛先は黒塔監獄長。内容は、死刑囚アルヴァン・ギレスの処遇についてとのことです」
北壁は、表面を塞げば済む修理ではなかった。
そして黒塔の中で掘り返していたもう一つの問題にも、王都の側から動きが出たらしい。
「使者を応接室へ。書状の封は俺が確認する」
「承知しました」
百日後に崩れるはずの壁を直すだけでも、想像していたよりずっと大きな仕事になった。
そこへ今度は、王都から死刑囚についての正式な書状まで届いた。
どちらも途中で止めるわけにはいかなかった。
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