第15話 密告者を、英雄にするな
「食堂で囚人同士の暴行がありました。負傷者は一名です。ただ、原因が少し厄介です」
昼前、執務室へ入ってきたグラッドは、数枚の記録を机へ置いた。
「何が厄介なんだ?」
「先日、ギル・ダーナの脱獄未遂を看守へ知らせた囚人の一人が狙われました」
それなら意味が分かる。
ギルが外へ出る荷車の空袋へ潜り込もうとした際、荷下ろし班の二人が事前に看守へ知らせた。
名前は必要以上に広めないよう指示したが、同じ班の人数は多くない。誰が門衛と話していたのか見ていた者もいただろうし、ギル本人から伝わった可能性もある。
「怪我の程度は?」
「額を切っています。ラッセルが診察中です。暴行した男はすでに拘束し、一緒にいた二名も別々の場所で待機させています」
「分かった。先に負傷者を見よう」
◇
医務室では、先日話を聞いた若い囚人が寝台へ腰掛けていた。
オルフ・ネイン、二十七歳。
残り八ヶ月の刑期を捨てて脱獄へ付き合う方が馬鹿らしい、とギルの誘いを断った男だ。
額には新しい布が巻かれている。
「傷は浅いです」
ラッセルが傷を確認しながら説明する。
「木皿の縁で切ったようですが、縫合するほどではありません。意識もはっきりしていますし、現時点で吐き気や強い頭痛もない。ただ、今日はしばらく様子を見ます」
「午後の作業は?」
「今の状態なら休ませます。今夜まで異常がなければ、明日は重い物を避けた軽作業から戻して構いません」
「そこは任せる」
医務判断を俺が横から変える必要はない。
ラッセルの確認が終わってから、オルフへ向き直った。
「何があった?」
「飯を食ってたら三人で来ました。昨日、門で看守に何を喋ったって聞かれて、俺が答えなかったら『ギルを売ったんだろ』って言われました」
「三人とも手を出したのか?」
「殴ったのは一人だけです。残り二人は横に立って、俺がその場から出られないようにしてました。木皿で一発やられたところで看守が来たんで、それ以上はありません」
「脅しもあった?」
オルフが不機嫌そうに頷く。
「次も看守に余計なことを言ったら、今度は額だけじゃ済まないって」
単なる食事中の喧嘩ではない。
目的を持った報復だ。
「一つ確認する。今の荷下ろしから別の配置へ移りたいか?」
オルフの顔つきが変わった。
「どうして俺が外されるんです?」
「また狙われる可能性がある。本人が希望するなら考えるつもりだった」
「嫌です」
返事は迷わなかった。
「俺は脱獄を手伝わなかっただけですよ。それで殴られた上に、俺の方が荷下ろしから外されたら、最初から黙ってた方が得だったことになるでしょう」
もっともだった。
守るつもりで配置を変えても、本人が望んでいなければ結果として報告した側だけが仕事を失う。
「分かった。医務上の問題がなければ、元の配置へ戻す。今日はラッセルの指示に従って休め」
「それならいいです」
「それと、ギルの件を知らせたことへの褒美を出すつもりもない。それで構わないな?」
オルフはむしろ嫌そうな顔をした。
「要りませんよ。そんなもの貰ったら、もっと目立つでしょう」
「そうだな」
英雄になりたいわけではない。
黒塔を良くするために立ち上がったわけでもない。
残り八ヶ月を無事に終えるため、脱獄へ巻き込まれる方が損だと判断した。それだけだ。
なら、こちらも余計な意味を付ける必要はない。
◇
オルフを殴った男はガドルという。
三十四歳。
傷害と強盗で収監されている。
別室へ移し、グラッドと看守二名を立ち会わせて話を聞いた。
「木皿で一回殴った。そこは認める」
ガドルは最初から否定しなかった。
「理由も認めるのか?」
「仲間を売ったからだ」
「ギルと親しかったのか?」
「そういう話じゃねえ」
ガドルは苛立った様子で椅子の背にもたれた。
「囚人が何でも看守へ喋るようになったら終わりだろ。誰が何を隠してるとか、誰が誰と揉めたとか、看守に気に入られたい奴が全部売るようになる」
「だからオルフを殴って黙らせようとしたのか?」
「一度分からせときゃ、次から余計なことを言わなくなる」
目的まで自分で認めた。
「ギルが処分されたのは、オルフたちが話したからじゃない」
「何が違う」
「報告を受けた後、門衛はギルが実際に荷車へ潜り込むまで確認した。本人からも脱獄目的だったと認める供述を取っている」
申告だけで誰かを有罪にする制度にはしていない。
事実を調べ、嘘なら退ける。私怨で誰かを陥れるための虚偽申告なら、その行為自体を問題にする。
「だからといって、報告した人間を三人で囲み、次に話したらもっと酷い目に遭わせると脅すことまで許せるわけじゃない」
「囚人同士の話だろ」
「黒塔の中で起きた暴行と脅迫だ。監獄側が扱う」
誰を嫌うかまで決めるつもりはない。
仲間だと思っていた人間を売った、とガドルが感じることまで禁止できない。
だが、その感情を理由に殴り、恐怖で黙らせるところまで来れば規律の問題になる。
「一緒にいた二人は何をした?」
「俺についてきただけだ。殴ったのは俺だけだぞ」
「そこは本人たちからも別々に聞く。お前が決めることじゃない」
グラッドが手元の記録を確認する。
「ガドルについては、ギルの件を知らせたことへの報復だったと本人が認めています。複数人で対象を囲み、木皿で負傷させ、今後の申告を止める目的で脅迫した。偶発的な喧嘩として扱う理由はありません」
「処分はどう考える?」
「懲罰房十日が妥当です。食事、水、必要な治療は通常通り。懲罰期間中の運用も現在の基準に従います」
ギルの計画的な脱獄未遂は十四日。
ガドルは脱獄そのものではないが、報復目的で複数人を集め、実際に負傷させた上、今後も黙らせるつもりだった。
「十日で確定しよう。残る二人は、それぞれ何をしたのか確認してから決める」
ガドルは不満そうに口を歪めたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
残りの二人には、別々に事情を聞いた。
一人は、オルフがその場から離れないよう食堂の通路側へ立ったことを認めた。
もう一人は、ガドルがオルフを脅しに行くこと自体は知っていた。ただし木皿で殴るところまでは聞かされていなかったという。
周囲にいた囚人と看守の証言も合わせる。
「通路を塞いだ方は、オルフが逃げられないようにする意図があったことまで認めています」
グラッドが記録をまとめる。
「もう一名は威圧目的で同行したことは認めました。ただし、暴行へ直接加わった形跡はありません」
「三人で来たから同じ罰、にはしない方がいいな」
「私もそう考えます」
逃げ道を塞いだ男は五日。
威圧する目的で同行した男は三日。
どちらも懲罰房とし、食事や水、必要な治療は通常通りとした。
同じ場所にいたからではなく、本人が何をしたかで処分を決める。
その方が、次に似た事件が起きた時も基準がぶれない。
◇
三人の処分を決めた後、グラッドが別の報告を持ってきた。
「食堂だけではなく、他の作業場にも話が広がっています。先日荷下ろしをしていた者について、『看守の犬になった』と言う囚人が出ているようです」
「誰かが意図的に広めているのか?」
「いえ。ギルが捕まった状況から推測され、勝手に広まっているようです。もう一人のケランも、今日の作業中に同じ班の二人から距離を置かれたと報告されています。ただし、今のところ暴言、脅迫、作業妨害はありません」
ケランは四十代。
残り刑期は四年ほどある。
それでもギルの誘いを断った理由は、今の荷下ろし仕事や待遇まで巻き添えで悪くなるのが嫌だったからだ。
「距離を置かれたというだけなら、監獄側が罰する話じゃない」
「私もそう考えます。ただ、今日のような脅迫へ変わらないかは見ておく必要があります」
「ああ。ただし、オルフとケランに看守を張り付けるのはやめよう。それこそ二人が特別扱いされていると宣伝することになる」
「通常の巡回の中で注意します」
「それで頼む」
報告者専用の警備。
報告者専用の食事。
報告者だけの特別配置。
そんなものを作れば、守るどころか標的に印を付けることになる。
必要なのは英雄を作ることではない。
報告しただけで得もしなければ、殴られもしない状態だ。
◇
夕方の点呼後、グラッドから全棟へ短い伝達を出した。
ギルの件には触れない。
オルフやケランの名前も出さない。
「看守への申告だけを理由に、他の囚人を処分することはない。申告内容について事実を確認した上で判断する。また、申告した者へ食事、刑期、作業上の特別な利益を与える制度も設けない」
中庭に並んだ囚人たちの間で、小さなざわめきが起きる。
グラッドは声を変えず続けた。
「ただし、誰かが看守へ申告したことを理由として暴行、脅迫、作業妨害を行った場合は、それぞれの行為について規律違反として扱う」
伝えるのはそれだけだった。
看守へ密告すれば得をする、という制度にはしない。
逆に、看守へ何か話せば囚人仲間から制裁される、という仕組みにもさせない。
「反発は残るでしょう」
囚人たちが各棟へ戻り始めた後、グラッドが言った。
「そこまでは消せない。誰を好きになるか、誰と付き合うかまで監獄が決める話じゃないからな」
「では、暴力や脅迫へ変わった時点で対応する」
「ああ。嫌うだけなら自由だ。ただ、殴って黙らせようとしたら止める。その線でいい」
余計な制度は作らない。
線を越えた行為だけ、記録して処理する。
◇
翌朝、外門へ向かうと薪の荷車が一台入ってきていた。
ギルの脱獄未遂を受け、門衛二人が荷台だけでなく車体の下まで確認している。荷下ろし班の人数も、作業前に一人ずつ照合されていた。
その中にオルフがいる。
「もう戻したのか?」
近くにいたグラッドへ聞く。
「今朝ラッセルが確認しました。重い物を一人で持たせないことを条件に、軽作業への復帰を許可しています」
額にはまだ布が巻かれている。
それでも本人は昨日と同じ荷下ろし班へ立っていた。
オルフが荷台から薪束を下ろそうとすると、横から別の男が片側を持った。
ケランだった。
「持てる」
オルフが言う。
「知ってる」
「じゃあ離せよ」
「お前が倒れたら、その分まで俺が運ぶことになる。そっちの方が面倒だ」
「……好きにしろ」
二人で薪束を運んでいく。
仲間同士の感動的な助け合いには見えない。
だからこそ、悪くなかった。
オルフを助けたから褒美が出るわけでもない。
ケランが看守に気に入られようとしている様子もない。
怪我をした同僚が無理をして倒れれば、自分の仕事が増える。それが嫌だから片側を持った。
その程度の理由で十分だ。
少なくとも、報告した囚人が殴られた挙げ句に仕事まで失い、周囲から完全に切り離される形にはならなかった。
「門衛、人数は?」
「荷下ろし班六名。確認済みです」
「荷車を出す時にも、もう一度頼む」
「承知しました」
黒塔の囚人全員に、正義感を持たせるつもりはない。
監獄長を好きになってもらう必要もない。
ただ、自分に関係する危険を知らせた方が損をし、黙っていた方が得になる場所へは戻したくなかった。
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