第14話 飯が良くても、脱獄は脱獄だ
「昨日の正式申立てですが、確認が終わりました」
朝の執務室で、グラッドが数枚の紙を机へ置いた。
俺自身を対象にした、正式申立ての第二号だ。
西側切り場の危険を訴えた囚人へ、安全を確認した別作業へ移るよう命じた。本人はそれも拒否したため、一日の懲罰房としたが、その処分が「危険を訴えたことへの報復ではないか」と申し立てられていた。
「先に結論を申し上げます。西側切り場の危険を訴えたこと自体は正当でした。実際に岩棚が崩れていますし、前日に小石の落下を聞いた看守がハロルへ報告しなかった点も改善が必要です」
グラッドはそこで紙を一枚めくった。
「ただし、危険区画を閉鎖した後、ハロルが安全を確認した別作業への移動命令は妥当です。その命令を拒否した以上、作業拒否として扱ったことにも問題はありません。懲罰房一日も、現在の基準では過度な処分とは判断しませんでした」
「じゃあ、処分そのものは変更なし?」
「はい。ただし、手順について一点あります」
そう言われると思った。
グラッドが指摘したのは、命令を出した俺自身が、その命令への拒否を理由に懲罰まで決定したことだった。
「監獄長の命令そのものが申立ての対象になる場合、緊急性がなければ、懲罰の確定前に私か別の上位看守が確認した方がよいでしょう。暴力や逃走をその場で止める必要がある場合は別ですが、その場合も後から妥当性を確認します」
「それでいこう。俺の判断だけで、俺への申立てまで終わる仕組みにはしたくない」
「では、本人にもこの結果を書面で伝えます。所長から直接説明するのはおやめください。自分を訴えた囚人の房へ監獄長本人が出向けば、こちらにその気がなくても圧力になりますので」
言われてみればその通りだ。
申立人の主張を全部認める必要はない。俺の判断を無条件に正しいことにする必要もない。
事実を分けて、残せばいい。
「面倒な制度を作ったな」
「所長がお作りになったのですが」
「知ってるよ」
苦笑していると、廊下を駆けてくる足音が近づいた。
直後、扉が強く叩かれる。
「所長、外門で脱獄未遂です!」
入ってきた門衛の顔には緊張が走っていた。
俺は立ち上がりながら、人数と現在の状況だけを確認する。一名。すでに拘束済み。看守にも囚人にも怪我人はいない。
「なら現場を見る。グラッド、一緒に来て」
◇
外門の内側には、薪を運んできた荷車が止められていた。
荷下ろしはほぼ終わっており、帰りには空いた荷台へ豆や芋を積む予定だったらしい。何枚もの麻袋が畳まれ、その横では三十歳ほどの男が両手に手枷を掛けられて座っていた。
グラッドが手元の簡易名簿を確認する。
「ギル・ダーナ。家畜泥棒に加え、捕縛時に衛兵へ抵抗して負傷させています。刑期は六年です」
「どこに隠れた?」
「荷台の空袋の下です。ただし、荷車は一度も外門を越えていません」
門衛によれば、発見したきっかけは荷下ろし班の囚人二人からの報告だった。
ギルが空袋の下へ隠れ、荷車に乗って外へ出ようとしている。しかも、その二人にも協力を求めていたという。
報告を受けた看守は外門を閉じたまま作業を続けさせ、ギルが実際に荷台へ潜り込んだところで拘束したらしい。
「逃げる意思まで本人が認めているのか?」
俺が尋ねると、門衛が頷いた。
「拘束後に認めました。抵抗はしましたが、武器はなく、看守へ殴りかかるようなこともありませんでした」
「分かった。報告した二人からも話を聞こう」
◇
連れてこられた二人は、どちらも薪の荷下ろし班だった。
若い方は二十代後半。もう一人は四十代くらいで、二人ともギルに空袋を被せてほしいと頼まれたらしい。
「町まで出られれば、自分で逃げる。その後、成功したら俺たちも出られる方法を考えるって言ってました」
若い男はそこまで説明すると、少し不思議そうに俺を見た。
「でも俺、あと八ヶ月で刑期が終わるんですよ。ここで脱獄なんか手伝って捕まったら、何年増えるか分からないでしょう。八ヶ月なら普通に待ちます」
ずいぶん現実的だ。
四十代の男は、まだ四年ほど刑期が残っているという。それでも協力しなかった理由を聞くと、少し迷った末に口を開いた。
「外へ出たいかと言われたら、そりゃ出たいですよ。好きで牢屋にいるわけじゃない。ただ、あいつ一人が逃げたせいで、荷下ろし班全部が疑われる方が嫌なんです」
男は外門の方へ目をやった。
「今の仕事なら、ずっと石を掘るよりましです。外の荷車も見えるし、前より飯も出る。それなのに脱獄が一人出たせいで、今度から全員鎖を付けろとか、外門の仕事に囚人を出すなとか言われたら、俺たちまで損するでしょう」
俺に恩を感じたからではない。
黒塔を気に入ったわけでも、正義感に目覚めたわけでもなかった。
自分の残り刑期と、今の待遇を天秤に掛けた。
その結果、ギルに付き合う方が損だと判断しただけだ。
むしろ、その方が信用できる。
「二人とも、ギルが袋の下へ入る前に看守へ知らせたんだな?」
「はい。だから俺たちは、その後は言われた通り荷下ろしを続けてました」
「なら処分はしない。脱獄計画を聞いたこと自体は罪じゃないし、手伝わず事前に報告している。ただし、今の証言は記録に残す」
若い男が安心したように息を吐いた。
二人を作業へ戻し、残ったギルへ視線を向ける。
◇
ギルは最初から、逃げること自体を悪いとは思っていない顔をしていた。
「事情は聞いた。念のため確認するけど、食事が足りないとか、看守から暴力を受けているとか、仕事場が危険だったとか、そういう理由で逃げようとしたわけじゃないんだな」
俺がまとめて尋ねると、ギルは鼻で笑った。
「飯は前より出る。最近は、意味もなく殴ってくる看守もいない。俺は薪運びだから、採石場みたいな危険もない。それでも牢屋は牢屋だろうが」
「つまり、単純に外へ出たかった」
「そうだよ。ここが前よりマシになったくらいで、囚人が逃げたくなくなると思ってるなら馬鹿だぞ」
「そこまでは思ってない」
ギルの眉がわずかに動いた。
俺は最初から、全員が黒塔を好きになるとは考えていない。
まともな飯を出そうが、病人を治そうが、囚人から自由を奪っている事実は変わらない。帰る家や家族がいる奴なら、なおさら外へ出たいだろう。
「理由が、こちらで直すべき問題なのか確認したかっただけだ。お前の場合は違うらしいから、脱獄未遂として処分する」
そこでグラッドに現在の基準を確認した。
脱獄未遂そのものに加え、外へ出る荷車へ計画的に潜伏し、他の囚人二名へ協力を求めている。一方、武器の所持も暴力もなく、門を実際に突破したわけでもない。
グラッドはそれらを踏まえ、軽い処分で済ませる案件ではないと判断した。
「十四日の懲罰房が妥当かと。終了後も、外門や外部の荷車へ直接接触する作業からは外すべきでしょう」
「それで」
俺が決定を伝えると、ギルは予想していたより長かったのか顔をしかめた。
「十四日も入れるのに、また普通に飯を出すのか?」
「通常量を出すし、水も出す。体調を崩せばラッセルにも診せる。ただし十四日間は懲罰房だ。終わってからも薪運びや荷下ろしには戻さないし、当面は移動時の監視も増やす」
「昔なら、もっと酷い目に遭わせただろ」
「昔と比べる話じゃない。飯を減らさないことと、脱獄を軽く扱うことは別だ」
食事を罰に使わない。
無意味に殴らない。
病人なら治療する。
そのどれも、逃走を許す理由にはならない。
「もう一度やったら、今回より重くなる。次に暴力や武器まで使えば、それも別に加わる。それだけ覚えておいて」
「脅しかよ」
「処分がどうなるか先に説明してるだけだ」
看守がギルを立たせる。
医務で状態を確認した後、そのまま懲罰房へ移すことになった。
連れていかれる途中、ギルは一度だけこちらを振り返った。
「飯を良くしても、逃げる奴は逃げるぞ」
「ああ。だから門も鍵も無くすつもりはないよ」
ギルはそれ以上何も言わず、看守とともに去っていった。
◇
問題は、これで終わりではない。
外門の手順をグラッドと確認すると、これまで入ってくる荷車については積み荷まで調べていたが、出ていく荷車が空の場合、確認が簡単な目視だけになることがあった。
今回は囚人二人が事前に知らせてくれた。
もし黙っていたら、門衛が確実にギルを発見できたとは言えない。
「脱獄しようとした奴を十四日入れても、同じ穴が残っていたら別の奴が試すな」
「仰る通りです。外へ出る荷車についても、荷台だけでなく車体の下、積み荷がある場合は不自然な隙間まで二名で確認させます。外門周辺で作業した囚人の人数も、荷車を通す前に照合しましょう」
「人は増やさなくて済む?」
「元から外門には複数配置しています。確認順序を変えれば対応できます」
なら、その方がいい。
また看守を増員して勤務を圧迫しては、別の問題が起きる。
「今日からそれで。あと、このやり方は門衛だけじゃなく交代要員にも伝えて」
「承知しました」
脱獄犯を重く罰することと、脱獄できる穴を塞ぐことは別の仕事だ。
どちらか片方だけでは足りない。
◇
午後には、ギルを通報した二人の記録も確認した。
若い男は本当に残刑八ヶ月ほどで、もう一人も四年程度。どちらにも過去の脱獄歴はなかった。
「二人には何か報奨を出しますか?」
グラッドからそう聞かれたが、すぐに首を振った。
「食事を増やしたり、露骨に楽な仕事へ移したりするのはやめよう。密告すれば得をする仕組みにすると、今度は嘘の通報が増える」
「では何もなしですか?」
「協力した事実は記録する。今後、外門みたいに一定の信用が必要な仕事を決めるとき、判断材料にするくらいでいい。ただ、二人が通報したこと自体は必要以上に広めないで」
グラッドは少し考えてから意味を理解した。
「他の囚人から、密告者として恨まれる可能性がありますか」
「あると思う。正しいことをした人間を、こっちが勝手に危険へ晒す必要はない」
グラッドは頷き、記録だけを残すことになった。
◇
夕方の点呼では、八百二十四人全員が確認された。
ギルは懲罰房の中にいるため収容人数そのものは変わらない。
「脱獄者はゼロ。未遂が一件です」
グラッドの報告を聞きながら、中庭を見下ろした。
俺が知っている大脱獄では、北壁が崩れた後、大勢の囚人が一斉に外へ走った。
全員が最初から仲間だったわけではない。
脱獄計画に加わっていなかった人間まで、壁が開き、周囲が走り始めたことで同じ方向へ動いた。
今なら逃げられる。
残れば、また昔の黒塔で死ぬかもしれない。
そう思わせるだけの理由が、この監獄には山ほどあった。
今日も、逃げたい人間はいた。
けれど誘われた二人は、ギルについていかなかった。
一人は残り八ヶ月の刑期を捨てる気がなかった。もう一人は、せっかく少しましになった仕事や待遇を、他人の脱獄のせいで失いたくなかった。
俺への忠誠なんか必要ない。
黒塔を好きになってもらう必要もない。
ただ、脱獄へ加わる方が得だと思う人間を減らせばいい。
「所長、脱獄未遂があった割には、少し機嫌が良さそうに見えます」
グラッドに言われ、俺は中庭から視線を外した。
「逃げようとした一人より、誘われても乗らなかった二人の方を考えてた。ただ、これで待遇を良くすれば誰も逃げなくなる、なんて勘違いはしないよ」
「ギルが良い例ですな」
「そういうこと。壁も鍵も看守も必要だし、逃げようとした奴にはきちんと処分もする。その上で、無茶な脱獄に乗る理由を減らしていく」
それなら、今の俺にもできる。
迫っている大脱獄を止めるには、八百人全員から好かれる必要なんかない。
一人が走ったとき、残りまで雪崩のように同じ方向へ走る。
そんな監獄でなくなればいい。
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