第13話 訴えたからって、命令を無視していいとは言ってない
「採石場の西側切り場で、十八名が作業を止めています」
朝食を終えて執務室へ戻った直後、グラッドが報告に来た。
「落石の危険があると訴えており、正式申立てを出すので、調査が終わるまでは作業命令にも従わない、と。怪我人や喧嘩は出ていません」
「ハロルはどうしてる?」
「危険申告が出た時点で、西側の作業だけ止めています。所長の判断を待つとのことです」
そこまでは正しい。
危険かもしれない場所で、
『本当に危ないか調べ終わるまで働け』
では順番が逆だ。
「現場を見よう」
◇
採石場には九十六人が配置されている。
普段なら鉄槌や鑿の音が絶えないのだが、西側だけは妙に静かだった。
十八人の囚人が道具を置き、切り場から離れている。
その少し手前にハロル。
隣にはドルガンもいた。
主任権限は停止したままで、武器も持っていない。囚人へ直接命令する権限もなく、危険箇所や採石について気づいたことをハロルへ伝えるだけだ。
「所長」
ハロルがこちらへ来た。
「状況を聞かせてくれ」
「今朝、作業開始前に西側上部の岩棚が危険だという申し出がありました。最初に気づいたのは、あの男です」
三十代半ばほどの囚人が一歩前へ出る。
「昨日の夕方から、上から小石が何度も落ちてきた。今朝見たら、岩に横向きの割れ目がある」
「昨日のうちに看守へ伝えたのか?」
「ああ。作業が終わる前に言った」
グラッドが記録係へ確認する。
「昨日の作業終了報告には?」
「落石についての記載はありません」
「俺は言ったぞ」
男の声が強くなった。
「そこは後で確認する。まず、本当に危険かどうかを見る」
「俺の話を疑ってるのか」
「疑うか信じるかを決める前に、確認するんだよ」
危険申告が正しいなら作業を止める。
違うなら戻す。
順番はそれだけだ。
「ハロル、安全な位置から確認できるか?」
「できます。近づかずに見られる場所があります」
「ドルガンにも見てもらってくれ。ただし判断と指示はハロルが出す」
「承知しました」
ドルガンが鼻を鳴らしたものの、勝手に囚人へ声を掛けることはなかった。
二人は迂回して西側を確認し、しばらくして戻ってきた。
先に口を開いたのはドルガンだった。
「ハロル、閉めた方がいい。上に横割れが走ってやがるし、右端も浮いてる。真下だけ空けても足りねえ。崩れりゃ石が手前まで転がるぞ」
ハロルも頷く。
「私も危険だと判断します。西側の該当区画を閉鎖し、縄を張ります。安全が確認できるまで立入禁止にします」
「それで頼む」
看守たちがすぐに動く。
危険申告は正しかった。
昨日の報告がどこで止まったのかは別として、少なくとも作業を止めた判断は間違っていない。
「西側の十八人は、今日は別の作業へ回そう」
そう言ったところで、最初に危険を訴えた男が動かなかった。
「調査はまだ終わってない」
「岩棚についてなら、危険だと確認した。だから閉鎖した」
「俺たちは正式申立てを出す」
「出せばいい」
「だったら結論が出るまで働かない」
「それは認めない」
男の顔が険しくなる。
「申立てを出した囚人へ、不利な扱いをするなと聞いた」
「その通りだ。申立てをしたことを理由に殴ったり、飯を減らしたり、仕事を悪くしたりはさせない」
「なら――」
「でも、訴える権利と、安全な仕事まで全部拒否する権利は別だ」
周囲が静かになった。
俺は閉鎖された岩棚を指した。
「危ない場所で働かせるなという訴えは正しかった。だから止めた。今から回すのは、岩棚から離れた石材の選別と工具整理だ」
「同じ採石場だろ」
「場所が危険だと思うなら、どこが危険なのか言ってくれ。ハロルとドルガンに確認させる」
男が黙る。
ハロルが前へ出た。
「選別場と工具整理場は、今回の亀裂から十分離れています。落石が届く位置でもありません。私自身も確認しました」
「信用できない」
「何が信用できないんだ?」
「採石場そのものだ」
「それでは仕事にならない」
危険な一ヶ所が見つかった。
だから採石場全体で、どんな命令にも従わない。
それは別の話だ。
「安全確認した代替作業へ移ってくれ。ほかにも危険だと思う場所があるなら、その都度確認する」
十八人の中で何人かが顔を見合わせた。
「俺は選別へ行く」
一人が道具を拾う。
「俺も」
続いて別の男が動いた。
十五人が代替作業へ向かい、残ったのは三人だった。
「三人とも、もう一度だけ確認する。安全を確認した別作業にも行かないんだな?」
「行かない」
最初の男が答え、後ろの二人も頷いた。
「理由は、採石場そのものが信用できないから?」
「ああ」
「分かった。なら、ここからは危険申告ではなく作業命令の拒否として扱う」
「結局、処分するのか」
「危険を訴えたことでは処分しない。安全な代替作業を命じられても拒否したことについてだ」
「同じだろ!」
「違う」
そこは曖昧にしたら駄目だ。
「岩棚が危険だった件では、お前が正しい。でも、一つ正しかったからって、その後の命令まで全部無視していいことにはならない」
三人へ少し時間を置く。
「今から戻れば、今回は警告だけにする。それでも拒否するなら、作業拒否として処分する」
後ろにいた一人が迷い、やがて道具を拾った。
「……俺は戻る」
もう一人も少し遅れて続く。
「俺も行く」
最後に残ったのは、最初に危険を訴えた男だけだった。
「お前はどうする?」
「戻らない」
「分かった」
グラッドを見る。
「作業拒否として一日懲罰房。食事と水は通常通り。処分理由と、危険申告については正しかったことも両方記録してくれ」
「承知しました」
男が睨んでくる。
「申立ては出すぞ」
「受け付ける」
「俺を罰した上で?」
「処分と申立ては別だからな」
男には納得できないらしい。
それでも暴れたり抵抗したりはしなかったので、余計な拘束は加えずグラッドに任せた。
◇
「甘いんだか厳しいんだか、分からねえな」
ドルガンが閉鎖された岩棚を見ながら言った。
「どっちでもいい。必要なことを分けてるだけだ」
「一日とはいえ懲罰房へ入れるくせに、飯は普通に食わせる」
「腹を減らしたら、安全な作業へ従うようになるのか?」
「ならねえだろうな」
「だったら食事を罰にする必要はない」
ドルガンが鼻を鳴らし、それから岩棚を見上げた。
「ハロル。上の横割れだけじゃなく、左側の出っ張りも見とけ。隙間に水が入ってりゃ、見えてる亀裂より先まで緩んでるかもしれねえ」
「分かりました。安全な位置から回り込んで確認します」
「下から近づくなよ」
「そのつもりです」
ドルガンはそれ以上口を出さなかった。
助言するのはドルガン。
判断して現場を動かすのはハロル。
その形も崩さない。
◇
昼前、昨日の落石について話を聞いた看守を呼んだ。
「囚人から、小石が何度も落ちてきたと報告を受けたんだな?」
「はい」
「なぜハロルまで上げなかった?」
「採石場では小石が落ちること自体は珍しくありません。今回もその程度だと思いまして」
「実際に見に行ったか?」
「下から確認しました」
「亀裂には気づかなかった?」
「はい」
隠したわけではなさそうだ。
ただ、自分の経験だけで軽いと判断し、そこで情報を止めた。
「小石が一つ落ちた程度まで、全部作業停止にしろとは言わない。でも『何度も落ちてきた』『割れ目がある』みたいに具体的な危険を言われた時は、ハロルへ上げてくれ」
「囚人が大げさに言っていると思ってもですか」
「報告した上で確認すればいい。嘘ならそれで終わる。報告自体を止めたら、本当に危ない時まで消える」
「承知しました」
「昨日報告を上げなかったことは記録する。処分が必要かは、今までの運用も含めて確認してから決める」
看守を戻した。
グラッドが記録へ目を落とす。
「危険申告そのものは正当だった、と残します」
「ああ。ただし作業拒否とは分けてくれ」
「混ぜれば、申立てをした者は調査中どんな命令にも従わなくてよい、という前例になります」
「それは困る」
申立て制度を作った目的は、規律をなくすことじゃない。
規律を守らせる側も、何をしたか記録に残すことだ。
◇
午後。
執務室で申立て記録を確認していると、低い音が腹に響いた。
机の上のインク壺がわずかに揺れる。
「今の音、採石場か?」
立ち上がった直後、廊下の向こうから看守が走ってきた。
「所長! 西側の岩棚が崩れました!」
グラッドと一緒に採石場へ向かう。
◇
西側切り場には砂埃が残っていた。
「怪我人は出たか!」
「いません!」
ハロルが返す。
「今朝閉鎖した区画だけです!」
見ると、岩棚の一部が崩れ落ち、人の胴ほどある石が何個も地面へ転がっている。
朝まで十八人が働いていた場所だ。
あのまま作業を続けさせていたら、怪我人ゼロでは済まなかっただろう。
ドルガンが上を見たまま言った。
「まだ浮いてる石が残ってやがる」
ハロルも同じ場所を見る。
「今日だけでなく、明日も閉鎖を続けます。上部の状態を確認して、必要なら安全な方法で先に浮いた石を落とします」
「頼む」
俺が指示を出す前に、ハロルは周囲の看守へ閉鎖範囲を広げるよう命じた。
責任者として動けている。
少し離れたところには、朝の十八人がいた。
安全な選別作業へ移った者たちが、崩れた岩を見て顔色を変えている。
ハロルが彼らの前へ行った。
「今朝の危険申告は正しかった。昨日の報告が私まで届かなかった点も確認する」
囚人たちが黙って聞く。
「ただし、西側を閉鎖した後、安全を確認した別作業まで拒否してよいことにはならない。その点は変わらない」
誰も反論しなかった。
目の前には、本当に崩れた岩棚がある。
一方で、安全な場所へ移った十五人は何事もなく仕事を終えている。
どちらも事実だった。
◇
夕方、執務室へ戻ると記録係が待っていた。
「所長。新しい正式申立てが一件出ています」
「アルヴァンとは別の案件だな?」
「はい。本日、作業拒否で一日懲罰房となった囚人からです」
予想はしていた。
「内容を聞かせてくれ」
記録係が読み上げる。
西側切り場に落石の危険があると訴えた。
危険は実際に認められ、その日の午後には岩棚が崩落した。
それにもかかわらず監獄長から別作業を命じられ、拒否したことで懲罰房へ入れられた。
危険を訴えたことへの報復ではないか。
「正式に受け付けてくれ」
記録係が少し迷う。
「申立ての対象は、所長ご自身ですが」
「だから受け付けない、という決まりは作ってないだろ」
グラッドを見る。
「一次確認はお前に頼めるか?」
「私が行います。まず、危険申告が事実だったこと、実際に崩落したことを確認事項へ入れます」
「ああ」
「同時に、西側閉鎖後の代替作業が安全確認されていたこと、本人が警告を受けても拒否したこと、ほかの二名は警告後に作業へ戻ったことも確認します」
「処分の一日が妥当だったかも見てくれ」
「当然です」
グラッドはそこで一度手を止めた。
「ただし、監獄長本人への申立てを私だけで最終確定するのも適切ではありません」
「どうする?」
「私が事実関係と判断理由をまとめます。その記録は保存し、王都から監査が入った際にも閲覧できる状態にしておくのがよいかと」
「それでいこう。俺に都合が悪い結果でも、そのまま残してくれ」
「承知しました」
記録係が新しい受領簿を開く。
最初の欄にはアルヴァン・ギレス。
その下へ新しい申立人の名、概要、受領者が書き込まれていく。
対象者の欄には、
《監獄長 ディルク・ハーゼン》
と記された。
「正式申立て、第二号です」
「受理してくれ」
受領印が押される。
作ったばかりの制度が、早速俺自身に向いてきた。
気分がいいかと聞かれれば、もちろん嫌だ。
だが、自分への申立てだけ握り潰せる制度なら、あの引継書に書かれていた、
《申し立てがあった場合、監獄長判断で受理せず》
と大して変わらない。
危険を訴えた点では、あの男が正しかった。
安全な代替作業を拒否した点については、今も俺の処分が妥当だったと思っている。
なら、両方を記録した上で確かめればいい。
少なくとも黒塔では、誰が正しいかを決めるために、先に訴えそのものを消すやり方へ戻すつもりはなかった。
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