第24話 黒龍先生の強化魔法講座
「…………」
またそれか。
「その裏山って呼び方、なんとかなりませんか?」
「なんでだ? もう定着してるだろ」
「俺にはちゃんと名前があるんですけど」
「知ってる。相川湊だろ」
「ならそっちで呼んでください」
俺がそう言うと、黒龍さんは少しだけ笑った。
「じゃあ普段は相川。配信中は裏山でいいだろ」
「なんで配信中は裏山なんですか?」
「その方が視聴者に分かりやすい。それに、お前も俺のことは黒龍だと認識してるだろ?」
「……あ」
言われてみればそうだった。
黒龍さんにも、黒田龍一というちゃんとした名前がある。
それでも俺の中では、すでに黒龍という名前の方がしっくりきている。
「……じゃあ、まあいいです」
「決まりだな」
黒龍さんはそう言うと、俺の向かいの椅子へ腰を下ろした。
こうして目の前に座られても、まだ少し不思議な感じがする。
登録者二百万人。
配信を始めれば十万人以上が集まり、数時間の配信で百万円近い投げ銭が飛ぶ探索者。
健太に初めて見せてもらったときは、まさか本人とこうして話すことになるとは思っていなかった。
「それで、俺に何か用があるんですか?」
「ああ。佐伯さんから聞いてると思うが、お前の身体強化についてだ」
黒龍さんがテーブルに置かれたノートパソコンへ視線を向ける。
そこにはまだ、《深淵の四眼》との戦闘映像が表示されている。
「配信は全部見た」
「全部?」
「ああ。お前が最初にあの狼と戦ったときのもな」
黒龍さんがパソコンを操作する。
映像が進み、《深淵の四眼》へ向かって走る俺の姿が映し出された。
そして、途中で止まる。
俺が初めて、意識して全身へ魔力を巡らせたところだ。
「ここだ」
「さっき佐伯さんにも聞かれました」
「全身に魔力を循環させたんだろ?」
「はい。ちゃんとできてたのかは分からないですけど」
「いや、できてる」
黒龍さんが小さく頷く。
「できてはいる。ただ、かなり粗い」
「粗い……」
自分では上手くできたつもりだった。
「流れてる魔力の量が場所によってバラバラだ。それに、細かいところまで行き渡ってない」
「細かいところ?」
「ああ」
黒龍さんが自分の腕を軽く上げる。
「身体強化の基本は全身への魔力循環だ。全身に魔力を巡らせて、その流れを絶やさない」
そこまで言うと、黒龍さんは拳を握った。
「でも、それだけじゃ足りない。例えば剣を振るなら、全身の循環を維持したまま腕へ流す魔力を増やす」
「腕に集めるってことですか?」
「少し違う」
黒龍さんが首を振る。
「一箇所に集めるんじゃない。あくまで全身の循環は続ける。その上で腕へより多くの魔力を巡らせて、筋肉や骨、関節、指先まで細かく満遍なく行き渡らせるんだ」
「……そんなところまで?」
「そうだ」
今まで、そこまで細かく考えたことはなかった。
腕を強くしたいなら腕へ。
速く走りたいなら脚へ。
必要な場所へ魔力を流す。
俺がやっていたのは、その程度だ。
「踏み込むなら脚。剣を振るなら腕と体幹。攻撃を受けるならその場所。必要な部分へ、より多く、より細かく魔力を巡らせる」
黒龍さんが俺を見る。
「ただし、その間も他の場所への循環は絶対に止めるな」
「……難しくないですか?」
「難しいよ」
黒龍さんはあっさり答えた。
「だから技術なんだ」
なるほど。
言われてみればその通りだ。
「まあ、ここで話してても分かりにくいだろ」
「正直、よく分かってないです」
「だろうな」
黒龍さんが椅子から立ち上がる。
「せっかくだ。あの裏山のダンジョンで実際にやってみるか」
「今からですか?」
「ああ」
佐伯さんを見る。
佐伯さんも少し考えてから頷いた。
「浅い階層であれば問題ないでしょう。先日の予備調査でも一階までは入っています」
「じゃあ決まりだな」
黒龍さんがそう言って歩き出そうとする。
「あ、でも一回家に帰っていいですか?」
「何かあるのか?」
「剣とか家に置いてるんで」
「それもそうか」
今日は協会へ話をしに来ただけだ。
当然、ダンジョンへ潜る準備なんてしていない。
「それと、母さんにも言わないと」
「母親?」
「ダンジョンに行く日は伝えるって約束したんです」
黒龍さんが一瞬黙る。
そして、少しだけ笑った。
「何です?」
「いや。ちゃんとしてるなと思って」
「この前、怒られたばっかりなんで」
「なるほどな」
黒龍さんが納得したように頷く。
その少し奥では、先日の一件を知っている佐伯さんが何とも言えない表情で苦笑していた。
◇◇◇
協会の車で家まで送ってもらう。
家の前には黒龍さんと佐伯さんに待ってもらい、俺だけ玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり。早かったわね」
リビングから母さんの声がする。
靴を脱ぎ、そのままリビングへ向かう。
母さんはテーブルで何かを書いていた。
「母さん」
「何?」
「今からダンジョン行ってくる」
ペンが止まった。
「……今日?」
「うん」
母さんの視線が真っ先に俺の腕へ向く。
傷はもう塞がっているとはいえ、赤い跡はまだ残っている。
「この前あんな怪我したばっかりで?」
「今日は浅いところだけだよ」
「本当に?」
「一階とかその辺。奥には行かない」
それでも母さんの表情から心配は消えない。
「それに今日は一人じゃないよ」
「誰かいるの?」
「黒龍さん」
「黒龍?」
「配信やってる探索者の人。今、家の前にいる」
母さんが窓の方を見る。
「……あの黒龍さん?」
「多分、母さんが思ってる人」
どうやら名前は知っていたらしい。
「その人に身体強化を教えてもらうことになって。今日はその練習」
「本当に浅いところだけなのね?」
「うん」
「配信は?」
「今日はしないよ」
母さんはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「……分かった。気を付けてね」
「うん。準備してくる」
二階へ向かおうとして、ふと思い出す。
「あ、母さん」
「何?」
「今日の晩ごはん、ハンバーグがいい」
「……」
「できればチーズ入ってるやつ」
「早く準備してきなさい」
「はーい」
自分の部屋へ向かい、いつもの装備を準備する。
高校一年の頃から使っている剣。
ポーション。
その他、ダンジョンへ潜るときにいつも持っていくものを鞄へ詰める。
配信用ドローンは置いていく。
今日は配信ではなく、黒龍さんから身体強化を教えてもらうために潜るのだ。
準備を終え、家を出る。
黒龍さんが俺の剣を見る。
「それが配信で言ってた剣か」
「はい」
「高校一年の頃に拾って、それからずっと使ってるんだったな」
「そうです」
黒龍さんが俺の剣をじっと見る。
「……随分、魔力が馴染んでるな」
「そうなんですか?」
「ああ。長く使ってるからって、普通はここまでならない」
俺も剣を見る。
見た目はいつもと変わらない。
高校一年の頃にダンジョンで見つけてから、何年も使い続けている剣だ。
「ずっとダンジョンに持って行ってたからですかね?」
「可能性はあるな」
黒龍さんはもう一度剣を見ると、それ以上は何も言わなかった。
俺も特に気にせず、いつものように剣を腰へ下げた。
◇◇◇
家の裏へ回り、山へ入る。
何度歩いたか分からない道を進み、ダンジョンの入口へ到着した。
俺にとっては見慣れた場所だ。
しかし、黒龍さんは入口の前で足を止めた。
「ここか」
「はい」
黒龍さんが入口の奥を見つめる。
「……映像で見るのとは違うな」
「何がです?」
「魔力だよ」
そう言われて、俺も入口を見る。
特にいつもと変わらない。
「濃いんですか?」
「かなりな」
黒龍さんが俺を見る。
「お前、本当にこれが普通だと思ってたのか?」
「他を知らないので」
「そうだったな」
佐伯さんは入口まで同行し、ここから先は俺と黒龍さんの二人で入ることになった。
ダンジョンへ足を踏み入れる。
一階。
俺にとっては何百回と歩いた場所だ。
黒龍さんは周囲を確認しながら進んでいる。
「予備調査の報告は読んでたけど……」
壁。
地面。
奥へ続く通路。
黒龍さんの視線が次々と動く。
「実際に入ると、やっぱりおかしいな」
「そうですか?」
「一階の魔力濃度じゃない」
「普通のダンジョンってもっと薄いんですか?」
「比べものにならないくらいな」
そんな話をしながら進んでいると、通路の奥から何かが近付いてきた。
黒龍さんが足を止める。
現れたのは、四足歩行の魔物だった。
大きさは二メートルほど。
全身を灰色の硬そうな毛で覆われ、口元から二本の牙が伸びている。
見覚えがある。
この辺りではたまに出てくる魔物だ。
「ちょうどいいな」
黒龍さんが言った。
「こいつ、協会の分類ならC級くらいだ」
「そうなんですか?」
「知らなかったのか?」
「名前も知らないです」
「……まあいい」
黒龍さんが魔物へ向かって歩き出す。
しかし、武器を抜かない。
「何してるんです?」
「循環のもう一つの効果を見せてやる」
魔物が黒龍さんへ気付く。
低く唸り、地面を蹴った。
一気に距離を詰め、その前脚を振り上げる。
黒龍さんは動かない。
「え?」
爪が黒龍さんの身体を捉えた。
ガッ――。
鈍い音が響く。
だが、黒龍さんはその場から一歩も動かなかった。
服にも傷一つついていない。
魔物の方が驚いたように後退する。
「魔力を綺麗に循環させてると、身体の内側だけじゃなく、外側にも魔力が巡る」
黒龍さんが自分の胸を軽く叩く。
「循環した魔力の一部が身体の表面を覆う。目には見えないが、それが防御膜になる」
「それで防いだんですか?」
「ああ」
もう一度魔物が襲い掛かる。
黒龍さんは今度は僅かに身体を動かした。
次の瞬間。
魔物の巨体が横へ吹き飛んだ。
何をしたのか、一瞬分からなかった。
黒龍さんが軽く拳を振っただけに見えた。
壁へ激突した魔物は、そのまま動かなくなる。
「……すご」
思わず声が漏れた。
「今の相手くらいなら、普段から循環させてる魔力だけでも攻撃はほとんど通らない」
「じゃあ、ずっと循環させてれば攻撃を避けなくてもいいんですか?」
「そんなわけあるか」
即答された。
「今のはC級だからできるんだ。B級になれば攻撃によるし、A級相手に棒立ちでこんなことしたら死ぬぞ」
「死ぬんですか?」
「当たり前だろ。S級なんて論外だ」
黒龍さんが呆れたように俺を見る。
「身体強化は無敵になる技術じゃない。防げる攻撃を防いで、致命傷になる攻撃を少しでも軽くするための技術だ」
「なるほど」
「それだけじゃない」
黒龍さんが続ける。
「循環させた魔力は、外からの攻撃だけじゃなく、自分の力からも身体を守る」
「自分の力?」
「お前、この前の戦いのあと酷い筋肉痛にならなかったか?」
思わず黒龍さんを見る。
「なりました」
「やっぱりな」
「何で分かるんです?」
「映像見れば大体分かる。あれだけ無理矢理身体能力を引き上げて、魔力を雑に流してたら当然だ」
黒龍さんが自分の腕を軽く叩く。
「筋肉、骨、関節。綺麗に循環させた魔力は、強化した身体そのものも保護してくれる」
「……それ、先に知りたかったな」
「普通はダンジョンに七年も潜る前に習うんだよ」
何も言い返せなかった。
「じゃあ、やってみろ」
「はい」
俺は体内の魔力を意識する。
胸の辺りから全身へ。
腕。
脚。
指先。
全身へ魔力を巡らせる。
《深淵の四眼》と戦ったときにもやったことだ。
ただ、黒龍さんに言われたことを意識すると、今まで自分がどれだけ大雑把に魔力を流していたのかが少しだけ分かる。
「もっと細かく」
黒龍さんの声が飛んでくる。
「細かく?」
「腕に流した、脚に流した。それで終わるな。もっと細部まで意識しろ」
右腕へ意識を向ける。
肩から肘。
手首。
指先。
さらに、その内側まで。
筋肉や骨の一本一本――とまではいかないが、腕全体を隙間なく魔力で満たすように意識する。
「……難しい」
「全身の流れが乱れてるぞ」
「あ」
右腕へ集中したせいで、脚への流れが弱くなっていた。
慌てて全身へ意識を戻す。
「一箇所に意識を向けた途端に他が疎かになる。それじゃ駄目だ」
「これ、かなり難しくないですか?」
「だから難しいって言っただろ」
もう一度。
全身へ魔力を巡らせる。
その流れを維持したまま、今度は右腕へ。
より多く。
より細かく。
しかし、腕へ流す量を増やすと、今度は全身の循環が乱れる。
「……あ」
「焦るな。まずは全身の流れを維持しろ」
「はい」
何度か繰り返す。
全身への循環。
そこから右腕へ。
細部まで満遍なく。
全身の流れを維持したまま――。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
全身を巡る魔力を止めることなく、右腕の隅々まで魔力が行き渡ったような感覚があった。
「……今の?」
「ああ」
黒龍さんが頷く。
「今の感覚だ」
自分の右腕を見る。
見た目には何も変わっていない。
けれど、さっきまでとは明らかに違った。
「もう一回やってみます」
同じ感覚を再現しようとする。
全身へ巡らせて、右腕へ――。
「……あれ?」
できない。
「そんなもんだ」
黒龍さんは特に驚いた様子もない。
「一回できたなら十分だ。何度も繰り返して身体に覚えさせろ」
「はい」
再び魔力を巡らせる。
そのときだった。
「……待て」
黒龍さんの声が変わった。
「何です?」
「今度はいつも通り、右腕を強化してみろ」
「いつも通り?」
「ああ。今教えたことは全部忘れていい」
よく分からないまま、普段通り右腕へ魔力を集める。
肩から腕へ。
そして手の先まで。
これまで無意識にやっていた身体強化と同じだ。
「……やっぱりか」
黒龍さんが呟いた。
「何です?」
「お前、魔力を流しすぎだ」
「そうなんですか?」
「流しすぎなんてもんじゃない」
黒龍さんが俺の右腕をじっと見る。
「普通はこんな量を一箇所に流したら、扱い切れない魔力がそのまま無駄になる」
「でも、ずっとこれでやってましたよ」
「そこなんだよ」
黒龍さんが僅かに眉を寄せる。
「お前の場合、流し込んでる魔力が多すぎる。細部まで綺麗に巡らせられてない分が、そのまま身体の外へ漏れてる」
「漏れてる?」
「ああ」
自分の腕を見る。
当然、俺には何も見えない。
「普通なら漏れた魔力はそのまま散って終わりだ。でも、お前は漏れ出す量そのものが多すぎる」
黒龍さんが俺の右腕を指差す。
「散るより先に、漏れた魔力がそのまま身体を覆ってる。それが循環で作る防御膜の代わりになってるんだ」
「さっき黒龍さんがやったのと同じですか?」
「結果だけなら似てる。ただ、中身は全く違う」
黒龍さんは即座に否定した。
「俺は循環させた魔力で意図的に身体を保護してる。お前の場合は、扱い切れずに漏れた魔力が、馬鹿みたいな量のせいで偶然同じ役割をしてるだけだ」
「……そんなことあるんですね」
「普通はない」
黒龍さんはそう言って、少し黙った。
その視線が、俺の腕に残る三本の傷跡へ向く。
「……そういうことか」
「何がです?」
「《深淵の四眼》に腕をやられたときだ」
俺も傷跡を見る。
「あのときも、攻撃を受ける直前に腕へかなりの魔力を流してただろ」
思い出す。
避け切れないと判断して、腕で攻撃を受けた。
その直前。
確かに魔力を腕へ集中させていた。
「はい」
「だからその傷で済んだんだ」
「どういうことです?」
「あの攻撃を生身でまともに受けてたら、もっと酷いことになってた」
黒龍さんが俺の腕を指差す。
「お前は綺麗な循環で防いだわけじゃない。腕に馬鹿みたいな量の魔力を流し込んで、そこから漏れた魔力がそのまま防御膜の代わりになったんだ」
「じゃあ、ちゃんと防御できてたってことですか?」
「違う」
即答された。
「全然違う」
「……」
「普通はこんなことできない。漏れた魔力なんて、防御に使えるほどの量にならないからな」
黒龍さんが俺を見る。
「どれだけ魔力あるんだ、お前」
「分かりません」
「……そうだったな」
なぜか疲れたような顔をされた。
「とにかく、今までのお前は魔力量で無理矢理成立させてたんだ」
「でも使えてましたよ?」
「使えてたから余計に面倒なんだよ」
黒龍さんが頭を掻く。
「まずは循環をもっと綺麗にしろ。その上で、必要な場所へより多く、より細かく魔力を巡らせる」
「はい」
「今日はその感覚を掴めれば十分だ」
「分かりました」
筋肉痛のことを考えても、ちゃんとした身体強化を覚える意味は大きい。
何より、今まで自分がやっていたことがどれだけ大雑把だったのか、少しずつ分かってきた。
その後もしばらく、一階を歩きながら魔力循環を練習した。
何度か魔物とも遭遇した。
普段なら考えるまでもなく倒せる相手だ。
だが、循環を意識しながら戦うとなると話が変わる。
全身へ魔力を巡らせる。
その流れを維持したまま脚へより多く、細かく。
踏み込む。
次は腕。
剣を振る。
その間も全身への循環を――。
「乱れてるぞ」
「……あ」
黒龍さんの声で気付く。
剣を振ることへ意識を向けた瞬間、脚への魔力の流れが弱くなっていた。
「難しいな……」
「最初からできると思うな」
黒龍さんはそう言いながら、襲ってきた別の魔物へ目を向ける。
次の瞬間。
一歩踏み込んだ。
俺が今必死に意識している魔力操作を、黒龍さんは当然のようにやっている。
全身を巡る魔力は一度も乱れない。
踏み込む瞬間には脚。
身体を捻れば体幹。
拳を振る瞬間には腕。
それぞれへ流れる魔力の量が細かく変化し、その部位の隅々まで行き渡っている。
それでも、全身への循環は途切れない。
魔物が黒龍さんへ攻撃するより早く、その拳が胴体へ突き刺さった。
巨体が地面を転がる。
「……すごいですね」
「何が?」
「魔力操作」
「これくらいできないと、上ではやっていけない」
黒龍さんは何でもないことのように答えた。
俺も同じようにやってみようとする。
当然、できない。
全身へ意識を向けながら戦うだけでも難しいのに、そこから必要な場所へ流す魔力の量を増やし、さらに細部まで満遍なく巡らせる。
すぐにできるようなものではなかった。
結局、その日のうちに身につけることはできなかった。
それでも。
最初よりは何となく分かる。
全身へただ魔力を流すのではなく、巡らせる。
その流れを絶やさない。
そして必要な場所へ、より多く、より細かく。
まだ曖昧だが、その感覚だけは少し掴めた気がした。
◇◇◇
ダンジョンの入口へ戻る。
外へ出たところで、黒龍さんが一度振り返った。
暗い入口をじっと見つめている。
「……三十九階か」
「行きます?」
「行かねえよ」
即答だった。
「気にはなるけどな」
「なら行けばいいのに」
「お前な……」
黒龍さんが呆れたように俺を見る。
「俺は今日初めてここに入ったんだぞ」
「でも強いですよね?」
「強けりゃ未知のダンジョンに準備なしで潜っていいわけじゃない」
そういうものなのか。
「お前は七年かけて三十九階まで進んだんだろ?」
「はい」
「俺にはその七年がない。地形も魔物も何も知らない状態で深部まで行くのは探索じゃなくて自殺だ」
黒龍さんが再び入口を見る。
「行くなら準備してからだ」
やっぱり行ってみたいらしい。
黒龍さんが入口から視線を外す。
「それより相川」
「はい?」
「次、空いてる日あるか?」
「大学とバイトがなければ」
「なら予定確認しとけ」
「何かあるんですか?」
黒龍さんが笑う。
「次は俺と別のダンジョンに潜るぞ」
「別の?」
「ああ」
黒龍さんが続ける。
「国内のA級ダンジョンだ」
「A級……」
俺が知っているのは裏山のダンジョンだけだ。
他のダンジョンへ入ったことは一度もない。
「そこで今日教えたことを実戦で練習する」
「ここじゃ駄目なんですか?」
「駄目じゃない。ただ、お前はここに慣れすぎてる」
確かに、一階なんて何百回歩いたか分からない。
「環境も魔物も知らない場所で、戦いながら循環を維持する。そこから必要な場所へ流す魔力を細かく変える。それが次の練習だ」
「なるほど」
初めての、裏山以外のダンジョン。
少し興味が湧いてきた。
「それと」
黒龍さんが続ける。
「そのときは配信するぞ」
「配信?」
「ああ。俺もやる」
「それって……」
「コラボ配信ってやつだ」
コラボ。
言葉くらいは聞いたことがある。
配信者同士が一緒に配信するやつだ。
「俺と黒龍さんで?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、そうですけど」
登録者二百万人の黒龍。
そして、配信を始めてまだそれほど経っていない俺。
その二人で一緒にダンジョンへ潜るらしい。
「嫌か?」
「いや。別に大丈夫です」
「なら決まりだな」
黒龍さんが満足そうに頷く。
「日程はあとで連絡する」
「分かりました」
そう答えたところで、ふと思い出す。
「黒龍さん」
「何だ?」
「今日ってもう終わりですよね?」
「ああ」
スマートフォンを取り出して時間を見る。
まだ夕食には十分間に合う。
「ならよかった」
「何かあるのか?」
「今日、晩ごはんハンバーグなんで」
「……」
黒龍さんが黙った。
「何です?」
「いや」
黒龍さんは少しだけ遠い目をした。
「お前といると、たまに大学生だってこと思い出すな」
「大学生ですけど」
「知ってるよ」
黒龍さんが歩き出す。
俺もその後を追う。
身体の中には、さっき一瞬だけ掴んだ魔力の流れが、まだ僅かに残っている気がした。
次はA級ダンジョン。
初めての、裏山以外のダンジョン。
それがどんな場所なのか。
少しだけ楽しみだった。




