第22話 両親の攻略
目を覚まして最初に感じたのは、全身の重さだった。
まるで重力そのものが増したかのように、身体がベッドへ沈み込んでいる。
カーテンの隙間から差し込む朝日をぼんやりと眺めながら、まだ眠気の残る頭で昨日のことを思い出す。
三十八階。
四つの眼を持つ巨大な黒狼。
《深淵の四眼》。
そして、その先で見つけた石碑。
昨日だけで色々なことがありすぎたせいか、一晩眠った今でも、どこか現実感がない。
とりあえず起きよう。
そう思って上半身を起こした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「いっ……!」
身体を起こすために腹筋へ力を入れれば腹が痛み、ベッドへついた腕にも痛みが走る。
肩も背中も、脚も同じだった。
「……筋肉痛か」
普段からダンジョンを歩き回っているし、魔物とも戦っている。
運動不足とは無縁の生活をしているはずなのに、ここまで酷い筋肉痛になるのは久しぶりだった。
原因として思い当たるのは、やはり昨日の身体強化だろう。
これまでも無意識のうちに魔力を使って身体を強化していたらしいが、昨日は初めて意識して全身へ魔力を行き渡らせた。
その状態で走り、跳び、剣を振った。
普段以上の力を身体から引き出していたのだとすれば、その負担が一晩経って出てきたとしても不思議ではない。
痛む身体をゆっくり起こしたところで、何気なく腕へ視線を落とした。
白い包帯が巻かれている。
昨日、母さんに巻いてもらったものだ。
それを見ていると、自然と昨日の夕方のことを思い出した。
ダンジョンから帰ってきたのは、午後四時を少し回った頃だった。
普段なら父さんも母さんも、まだ仕事から帰っていない。
だから玄関を開けた直後、母さんから「おかえり」と声を掛けられたときは驚いた。
しかもリビングへ行けば父さんまでいて、テーブルの上に置かれたタブレットでは、俺の配信が再生されていた。
あのときは、四十階のことよりもこっちの方が厄介かもしれないと思った。
実際、その予感は間違っていなかった。
「まず、腕を見せて」
リビングのソファへ座らされた俺に、母さんが手を差し出す。
「ポーション飲んだから、だいぶ良くなってるよ」
「それでも。一応見ておくから」
「分かった」
こういうときは、看護師の母さんに任せた方がいい。
俺が腕を差し出すと、母さんは傷の状態を確認してから、持ってきた救急箱を開いた。
狼の爪に裂かれた三本の傷は、青いポーションを飲んだおかげですでに血も止まり、少しずつ塞がり始めていた。
青いポーションには疲労を和らげるだけでなく、身体が本来持っている治癒力を高める効果もある。
だからといって、怪我が一瞬で消えるわけではない。
母さんは傷をじっと確認すると、僅かに眉を寄せた。
「……結構深かったでしょ、これ」
「まあ、それなりに」
「それなりに、じゃない」
母さんは慣れた手つきで傷を処置していく。
俺は何を言えばいいのか分からず、その手元を黙って眺めていた。
ダンジョンのこと。
七年間も黙っていたこと。
それに、配信のこともある。
何から説明すればいいんだろう。
そんなことを考えていると、母さんが口を開いた。
「……今日ね。病院の後輩に言われたの」
「後輩?」
「休憩中にスマホを持ってきて、『先輩、この人、息子さんに似てません?』って」
母さんの手は傷の処置を続けたままだ。
「それで見たら、あなただった」
「……よく分かったね」
「分かるわよ。何年あなたの母親やってると思ってるの」
「……まあ、そうか」
顔を隠して配信しているわけでもない。
知り合いが見れば気付いて当然なのかもしれない。
「それで、お父さんにも連絡したの。でも私も仕事中だったから、そのまま仕事に戻ったの」
母さんはそう言いながら、傷口に新しいガーゼを当てる。
「そしたら、そのあと別の子が慌てて呼びに来たの」
「……何て?」
「『先輩、息子さん怪我してます』って」
母さんの視線が、俺の腕に残った三本の傷へ落ちる。
「確認したら腕から血を流してるし、相手は何なの、あの大きな狼」
「《深淵の四眼》」
「名前を聞いてるんじゃないの」
「……すみません」
どうやら今のは余計だったらしい。
「それで早退したの。お父さんにも連絡して、帰ってきてもらった」
「……そっか」
自分ではいつものようにダンジョンへ行って、いつものように帰ってきただけのつもりだった。
でも、二人にとってはそうじゃない。
俺がダンジョンで怪我をしたせいで、母さんは仕事を早退して、父さんまで仕事を切り上げて帰ってきた。
「……心配かけて、ごめん」
母さんの手が一瞬だけ止まる。
「本当よ」
それだけ言うと、母さんはまた傷の処置を続けた。
しばらくして包帯を巻き終える。
「はい」
「ありがとう」
母さんは救急箱を閉じると、そのまま俺の隣へ座った。
父さんもダイニングテーブルの椅子から立ち上がり、向かいのソファへ移動する。
その時点で、これから何が始まるのかは大体分かった。
「それで」
母さんが口を開く。
「話してもらうからね」
「……うん」
「中学生の頃から、あそこに行ってたんでしょ?」
「うん」
そこからは質問攻めだった。
いつ裏山のダンジョンを見つけたのか。
どうして中へ入ったのか。
どのくらいの頻度で潜っていたのか。
今までどんな魔物と戦ってきたのか。
怪我をしたことは何度あるのか。
そして、どうして七年間も黙っていたのか。
最後の質問については、自分でも上手く答えられなかった。
最初は、わざわざ話すようなことだと思っていなかった。
裏山で変な穴を見つけて、中へ入った。
少し進んで、魔物を倒した。
また次も行った。
そうやって少しずつ奥へ進んでいるうちに、ダンジョンへ行くこと自体が日常になっていた。
気付けば何年も経っていて、今さらどう説明すればいいのか分からなくなっていた。
当然、それで二人が納得してくれたわけではない。
特に母さんには、かなり怒られた。
「もし何かあったら、どうするつもりだったの?」
「それは……」
「昨日だってそう。あの傷で済んだからよかったけど、もっと深かったら? 腕じゃなくて別の場所だったら?」
返す言葉がなかった。
俺にとっては何度も経験してきた魔物との戦いだ。
けれど母さんにとっては、昨日初めて知ったことだ。
息子が自分たちの知らない場所で、何年も危険なことを続けていた。
「……ごめん」
「本当にそう思ってる?」
「うん」
少しだけ考えてから、言葉を続けた。
「ダンジョンに行ってたことを謝るのは、ちょっと違うと思う。でも、七年間ずっと黙ってたことは……本当にごめん」
母さんは何も言わなかった。
父さんも黙ったまま俺を見ている。
しばらくして、母さんが口を開いた。
「これからも行くの?」
その質問には、すぐに答えられなかった。
昨日は本当に危なかった。
《深淵の四眼》の攻撃をまともに受けていれば、死んでいた可能性だってある。
それでも。
まだ四十階がある。
その先に何があるのか、俺は何も知らない。
「……行くと思う」
「私は行ってほしくない」
母さんは迷うことなくそう言った。
「昨日のを見たあとで、行ってきなさいなんて言えるわけないでしょ」
「……うん」
「今までだって危ないこと、何度もあったんでしょ?」
「……あった」
今度は曖昧にせず答えた。
母さんの表情が僅かに歪む。
怒っている。
でも、それだけじゃない。
心配しているのだと、さすがの俺にも分かった。
「でも、行かないとは言えないんでしょ?」
「……うん」
母さんが何か言おうとしたところで、父さんが静かに口を開いた。
「今日はもういい」
「お父さん?」
「湊も疲れてる。俺たちも、今日いきなり知ったばかりだ」
父さんはそう言ってから俺を見る。
「俺たちにも少し考えさせてくれ」
「……分かった」
結局、その日の話はそこで一区切りとなった。
そのあと夕食を食べ、風呂に入って、俺はいつもより早く自分の部屋へ戻った。
身体も疲れていたのだろう。
ベッドへ入ってからは、ほとんど記憶がない。
そして一夜明け、今に至った。
腕に巻かれた包帯を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
「……バレたな」
七年間。
誰にも言わずに続けてきたことが、たった数回の配信で全部両親に知られてしまった。
ただ、不思議と後悔はしていない。
隠し続ける必要がなくなったと思えば、少しだけ気が楽になった部分もある。
俺はベッドから足を下ろし、ゆっくり立ち上がる。
「いっ……」
太腿に鈍い痛みが走った。
傷よりも、こっちの方が今日一日は大変そうだ。
普段よりゆっくり歩きながら部屋を出て、階段を下りる。
一階からは食器の触れ合う音が聞こえてきた。
リビングへ入る。
「おはよう」
「おはよう。湊、腕は?」
母さんは俺の顔を見るなり、真っ先に包帯へ視線を向けた。
「昨日よりいいよ」
「あとで見せて」
「分かった」
看護師にそう言われれば、断る理由もない。
父さんはすでにダイニングテーブルへ座っていた。
コーヒーを飲みながら、昨日と同じタブレットを見ている。
画面を見て、俺は足を止めた。
「……また俺の配信見てるの?」
「ああ」
「全部見るつもり?」
「そのつもりだ」
妙なところで真面目だ。
俺は苦笑しながら椅子を引き、ゆっくり腰を下ろした。
座るだけで太腿が痛む。
「ずいぶん酷そうだな」
「筋肉痛」
「昨日あれだけ動けばそうなるだろ」
父さんはそう言うと、タブレットの画面を消した。
それから俺を見る。
「湊。昨日の話なんだが」
箸を取ろうとしていた手を止めた。
「うん」
「お前が寝てから、母さんと二人でもう一度、お前があの狼と戦っている動画を見た」
「……二人で?」
「ああ」
父さんは短く答える。
「最初から最後まで見た。正直、最後まで見るのはきつかった」
父さんがそんなことを言うのは珍しかった。
俺は何も言えず、その続きを待つ。
「お前が吹き飛ばされたところも、腕をやられたところも見た」
父さんはそこで一度言葉を切った。
「それでも見ていられたのは、お前が無事に帰ってきたあとだったからだ」
俺は父さんを見る。
「昨日、お前は二階で寝てた。だから大丈夫だって分かってた」
父さんの隣で、母さんが黙っている。
「それでも母さんは何度か目を背けてたよ」
「……お父さん」
母さんが小さく咎めるように言う。
「悪い」
そう言いながらも、父さんの表情は笑っていなかった。
「もしあれを生で見ていたらと思うと、俺も冷静ではいられなかったと思う」
「……うん」
「七年間、お前が無事に帰ってきていたのは分かってる。昨日だってそうだ」
父さんの声はいつもと変わらない。
それでも、昨日よりずっと重く聞こえた。
「でも、次も必ず帰ってこられるとは限らないんだろ?」
絶対に大丈夫だなんて、俺にも言えない。
「……そうだね」
「なら、親として行ってこいとは言えない」
隣を見ると、母さんも黙って俺を見ていた。
「ただ、お前はもう二十歳だ」
父さんが続ける。
「俺たちが何を言っても、最後に決めるのは湊だ」
「お父さん……」
「分かってる」
父さんは母さんを見る。
「俺だって行ってほしいわけじゃない」
それから再び俺へ視線を戻した。
「それでも行くんだろ?」
少しだけ迷ってから、俺は頷いた。
「うん」
父さんが小さく息を吐く。
「なら、約束してくれ」
「約束?」
「ダンジョンへ行く日は必ず俺たちに伝えること。危険だと思ったら無理をしないこと。それと――」
父さんの視線が俺の腕へ向く。
「怪我をしたら隠さないこと」
「……分かった」
「本当に分かってる?」
母さんが念を押してくる。
「分かってるよ」
母さんはまだ何か言いたそうだった。
しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「私はまだ納得してないからね」
「うん」
「行っていいとも言ってない」
「……うん」
「でも」
母さんの視線が、俺の腕に巻かれた包帯へ落ちる。
「何も知らないまま待ってるよりは、その方がいい」
「分かった」
これまでのように、何も言わず裏山へ向かうことはもうできない。
でも、七年間も黙っていたことを考えれば、これくらいは当然だと思う。
少し重かった空気が、ようやく和らいだような気がした。
俺も朝食へ手を伸ばそうとする。
すると、父さんが再び口を開いた。
「それと湊。もう一つ話がある」
「まだあるの?」
「ある。こっちも大事な話だ」
父さんがタブレットを俺の方へ向ける。
画面には俺の配信ページが表示されていた。
「この配信の収益、どうするつもりなんだ?」
「収益?」
「広告とか、投げ銭とかあるんだろ?」
「あるみたいだけど」
「……あるみたい?」
父さんが呆れたような顔をする。
実際、俺はほとんど確認していなかった。
収益化したこと自体は知っているが、今いくら入っているのかまでは把握していない。
「これだけの人が見てるんだから、それなりの金額になってるんじゃないの?」
母さんに言われても、俺には分からない。
少なくともコンビニのアルバイト代よりは多いのだろう。
「税金のこともあるからな」
「税金?」
「……やっぱりか」
父さんがため息をついた。
「収入が増えれば、それで終わりじゃないんだぞ」
「そうなの?」
「そうなの、じゃない」
父さんにまで母さんと似たような返しをされた。
結局、配信で入ってくるお金については、しばらく父さんと母さんに相談しながら管理することになった。
必要なものがあれば相談して、そこから使う。
税金についても父さんが調べてくれるらしい。
俺としても、その方がありがたい。
時給千百二十円のコンビニで働いている大学生に、突然大きな金額を管理しろと言われても困る。
「それと今日は絶対に行かないでよ」
話が一段落したところで、母さんが念を押してきた。
「行かないって」
「本当に?」
「この身体見れば分かるだろ」
そう言って肩を動かした瞬間、鈍い痛みが走った。
「……痛っ」
母さんが呆れたように俺を見る。
父さんは小さく笑っていた。
俺は誤魔化すように味噌汁へ手を伸ばす。
腕を動かしただけでも、肩の辺りにはまだ痛みが残っている。
そこでまた、昨日の戦いを思い出した。
《深淵の四眼》と戦っている最中。
俺は初めて、意識して魔力を全身へ行き渡らせた。
今まで無意識にやっていた身体強化。
昨日の戦いでは、それを意識して使うことで、今まで以上の力を引き出すことができた。
ただ、その結果がこの全身の筋肉痛だ。
まだまだ使い方が上手いとは言えないんだろう。
四十階も気になる。
石碑のことだって、何も分かっていない。
だけど、今の身体で潜るつもりはない。
それなら今日は、昨日掴んだ感覚をもう一度整理してみよう。
四十階へ行く前に。
まずは、この身体強化をちゃんと自分のものにしてみよう。
そんなことを考えていると、ポケットに入れたままのスマートフォンが振動した。
バイブレーションの感覚から、どうやら電話らしい。
痛む腕を動かしてスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
『探索者協会 佐伯』
表示されていた名前を見て、俺は僅かに眉を上げた。




