幕間 世界の反応
その配信は、日本時間の土曜日。
一人の大学生が、自宅の裏山にあるダンジョンへ入り、二十一階から探索を始めたところから始まった。
配信開始時点で、そのチャンネルを知る者は既に少なくなかった。
『裏山探索』
配信者の素性は、まだほとんど知られていない。
年齢は二十歳前後。
日本人の男性。
分かっているのはその程度。
それでも彼が配信を重ねるたび、視聴者は増えていった。
そして、その日の配信で。
世界は初めて知ることになる。
ダンジョンには、自分たちがまだ知らない何かが存在していることを。
◇◇◇
日本探索者協会本部。
普段なら人の少ない会議室に、十人を超える職員が集まっていた。
壁に設置された大型モニターには、一つの映像が停止した状態で映し出されている。
巨大な黒い狼。
四つの眼。
そして、その奥にある巨大な扉。
数時間前。
日本中の探索者たちを騒がせた映像だった。
「もう一度お願いします」
声を掛けられ、職員の一人が映像を再生する。
画面の中で青年が黒い狼と戦っている。
何度見ても異常な戦いだった。
攻撃を避け、剣を振るい、最後にはたった一人で倒した。
だが今、この部屋にいる者たちが注目しているのは、戦闘そのものではない。
映像が進む。
黒い狼が倒れる。
青年が巨大な扉の先へ進み、階段を下りる。
その先に現れたのは、広い空間。
壁には壁画。
中央には石碑。
そして青年が石碑へ触れた瞬間、声が流れた。
『第八門番――《深淵の四眼》の単独討伐を確認』
会議室の空気が僅かに変わる。
続けて。
『規定条件を達成しました』
『試練への挑戦を認めます』
そこで映像が止められた。
誰もすぐには口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは、協会のダンジョン調査部門を統括する男だった。
「……第八門番」
その言葉をゆっくりと繰り返す。
「問題はそこですね」
別の職員が答えた。
「第八ということは、少なくとも他にも同様の存在がいる可能性があります」
「このダンジョンの中に、か?」
「現時点では判断できません」
即答だった。
協会はすでに、このダンジョンについて一定の情報を持っている。
配信をきっかけに青年本人とも接触し、自宅裏山にある入口の場所も把握している。
調査員を派遣し、実際に一階層へ入って内部の調査も行った。
その結果、このダンジョンが通常とは明らかに異なることも分かり始めている。
一階層から出現するとは思えないほど強力な魔物。
通常のダンジョンを大きく上回る魔力濃度。
そして、高濃度の魔力環境へ長期間身を置いた場合、人体へ何らかの影響を与える可能性があること。
青年の異常とも言える身体能力についても、その環境が関係しているのではないかと考えられていた。
だからこそ、協会もこのダンジョンを重要な調査対象として扱い始めている。
だが。
今日の配信で明らかになった情報は、そのさらに先にあった。
三十八階。
《第八門番――深淵の四眼》。
その先に存在する、これまで見たこともない壁画と石碑。
そして――《試練》と《挑戦者》。
一階層を調べただけでは、到底辿り着けない情報だった。
「壁画については?」
「現在、配信映像から解析を進めています。ただ、現状では何が描かれているのかまでは……」
「石碑は?」
「こちらも同様です。ただし、音声は明瞭に記録されています」
職員が映像を少し巻き戻す。
『第八門番――《深淵の四眼》の単独討伐を確認』
再び音声が流れた。
「……単独討伐」
男が呟く。
「わざわざそう言ったということは、それ自体に意味があるのかもしれないな」
「我々もそう考えています」
単に《深淵の四眼》を討伐したことだけが条件ならば、わざわざ単独であることを明言する必要はない。
その直後に《規定条件を達成》と続いたことも気になる。
偶然の可能性もある。
だが、無視できる言葉ではなかった。
「本人は?」
「帰宅していることは確認しています。戦闘直後ですから、まずは休ませるべきかと」
「そうだな。こちらが聞きたいことは山ほどあるが、あれだけの戦闘の直後だ」
男はモニターへ視線を戻した。
画面には、石碑の前に立つ青年の姿が映っている。
協会はすでに彼を知っている。
ダンジョンの場所も知っている。
一階層へ入り、その異常性にも気付き始めている。
それでも。
七年間、一人で潜り続けた青年が今日辿り着いた場所については、何一つ説明できなかった。
協会がこのダンジョンを調査し始めてから、まだそれほど時間は経っていない。
青年が七年間かけて進んだ三十八階へ、すぐに調査員を送り込めるはずもなかった。
《第八門番》。
《挑戦者》。
《試練》。
そして、四十階。
男は腕を組み、停止した映像を見つめる。
「……このダンジョン、我々が考えていた以上に厄介かもしれないな」
◇◇◇
同じ頃。
フランス。
政府の管理下に置かれている、とあるダンジョンの研究施設。
「止めて」
研究員の女性が言った。
日本から入手した映像が停止する。
映っているのは、青年がまだ浅い階層を探索していた頃の映像だった。
「ここ」
女性が画面を指差す。
「一階よね?」
「記録上は」
隣にいた研究員が答える。
「……おかしい」
女性が小さく呟いた。
画面に映っている魔物を見る。
一般人からすれば、それがどれほど強い魔物なのか判断することは難しい。
だが彼女たちは違う。
長年、ダンジョンの研究を続けている。
「一階に出る魔物じゃない」
「日本側も同じ見解のようです」
女性は腕を組む。
そして、別のモニターへ視線を移した。
そこには、自分たちが研究しているダンジョンの情報が表示されていた。
攻略済み階層。
二十七階。
それ以上は、まだ調査が進んでいない。
理由は単純だった。
難しいからだ。
一階から強力な魔物が現れる。
深くなるにつれて、その強さは急激に上昇する。
他のダンジョンとは、明らかに難易度の上がり方が違う。
そして、もう一つ。
魔力濃度。
一般的なダンジョンと比較して、明らかに高い。
「似てると思わない?」
女性が言った。
「日本のダンジョンと?」
「ええ」
隣の研究員はすぐには答えなかった。
日本の映像を見る。
次に、自分たちが蓄積してきたデータを見る。
確かに共通点はある。
だが、それだけだ。
「構造は違います」
「分かってる」
「出現する魔物も完全には一致していません」
「それも分かってる」
女性は椅子へ座った。
「だから、同じダンジョンだと言ってるわけじゃない」
現時点では、それを証明するものなど何もない。
日本で確認された《門番》も。
壁画も。
石碑も。
フランスのダンジョンでは、まだ発見されていない。
似ているのは、一階から強力な魔物が出現すること。
深層へ進むほど急激に難易度が上昇すること。
そして、内部の魔力濃度が異常に高いこと。
それだけだった。
偶然と言われれば、それまでだ。
「ただ――」
女性は指を組んだ。
「調べる価値はあると思わない?」
研究員は少し考えてから頷いた。
「日本側へ追加情報を求めますか?」
「ええ。それと」
女性は自国のダンジョンデータを見る。
二十七階。
「攻略班にも伝えて」
「何を?」
「もう少し先へ行ってほしいって」
研究員が僅かに顔を引きつらせた。
「簡単に言いますね」
「研究者だから」
女性は悪びれる様子もなく答えた。
「無茶をするのは探索者の仕事でしょ?」
◇◇◇
中国。
そこでは、日本やフランスよりも一歩先へ進んでいた。
巨大なモニターに映し出されているのは、日本の配信映像。
そして、その隣には別の映像が表示されていた。
日本ではない。
中国国内に存在する、政府管理下のダンジョン。
そこに映っているのは巨大な空間だった。
その最奥。
一体の魔物がいる。
日本の《深淵の四眼》とは全く違う。
巨大な人型。
全身を岩のような外殻で覆い、二本の腕だけでなく、背中からさらに二本の腕が伸びている。
計四本。
それが巨大な門の前に座っている。
「やはり……」
研究者の一人が口を開いた。
「無関係とは思えない」
誰も否定しなかった。
日本。
中国。
内部の構造は違う。
出現する魔物も違う。
だが、共通点が多すぎる。
一階層から高い危険度。
異常な魔力濃度。
深くなるにつれて急激に上昇する難易度。
そして。
一定以上の深層に存在する巨大な空間。
その奥にある扉。
さらに、それを守るように存在する強力な魔物。
中国側が、その存在へ到達したのは約半年前。
これまでに三度、討伐作戦が行われている。
全て失敗。
死者も出た。
以来、攻略は一時的に停止されていた。
「門番……」
一人の男が呟いた。
これまで中国では、この魔物を便宜上《守護個体》と呼んでいた。
だが日本の石碑は、明確に別の名称を使った。
《門番》。
そして。
「第八」
男が映像を見る。
「我々のものにも番号がある可能性が?」
「否定はできません」
「確認する方法は?」
研究者が首を振った。
「現時点ではありません」
日本の場合、門番を倒した先に石碑があった。
ならば。
自分たちのダンジョンでも、その先に何かが存在する可能性がある。
確かめる方法は一つしかない。
目の前にいる魔物を倒すこと。
「攻略計画を再開する」
部屋の空気が変わる。
「前回以上の戦力を投入する。装備も人員も、必要なものは用意しろ」
「しかし――」
「日本では一人で倒した」
男は静かに言った。
「ならば我々が、国家単位で挑んで倒せない理由はない」
誰も答えない。
モニターの中では、四本腕の巨人が巨大な門の前で静かに座っていた。
◇◇◇
もちろん。
世界中が同じ反応を示したわけではない。
映像は瞬く間に世界へ広がった。
四つの眼を持つ巨大な狼。
それを一人で倒した日本人。
謎の石碑。
第八門番。
試練。
挑戦者。
その言葉について、世界中で様々な憶測が飛び交った。
自国のダンジョンとの共通点を探し始める国。
研究機関へ映像の分析を命じる国。
日本へ情報提供を求める国。
逆に、何もしない国もあった。
単に、日本に強い探索者が現れた。
そう考えるだけ。
配信の演出ではないかと疑う者もいる。
自国には関係ないと判断する政府もあった。
そもそもダンジョン研究へ十分な予算を割いていない国もある。
世界には数多くのダンジョンが存在する。
その全てが同じ構造をしているわけではない。
出現する魔物も違う。
階層数も違う。
ならば、日本の一つのダンジョンで起きた出来事が、自国にも関係しているとは限らない。
少なくとも。
その時点では。
そう考える国の方が多かった。
ただ。
世界には既に知っている国もあった。
《門番》と呼ばれる存在を。
その先にあるものを。
そして、日本の配信を見て初めて、自分たちが見落としていた可能性に気付いた国が。
◇◇◇
アメリカ合衆国。
地下深くに造られた研究施設。
巨大な会議室の壁一面を使い、日本から届いた映像が映し出されている。
十数人の男女が、それを無言で見ていた。
画面の中で。
青年が石碑へ手を触れる。
『第八門番――《深淵の四眼》の単独討伐を確認』
誰も驚かない。
少なくとも、《門番》という言葉にではない。
続けて。
『規定条件を達成しました』
『試練への挑戦を認めます』
そこで、一人の研究者が映像を止めた。
「もう一度」
映像が戻る。
『第八門番――《深淵の四眼》の単独討伐を確認』
停止。
「……ここだ」
男が言った。
画面には字幕が表示されている。
――単独討伐。
会議室にいる者たちの表情が変わる。
その横。
別の巨大モニターが点灯した。
映ったのは、アメリカ国内に存在するダンジョン。
政府によって最高機密に指定されている、その深層。
巨大な扉。
壁画。
そして。
中央に置かれた石碑。
日本のものと酷似していた。
「我々がここへ到達したのは二年前」
研究者が話し始める。
「門の前に存在した個体を討伐し、この空間へ到達した」
画面が切り替わる。
そこに映し出されたのは、一体の巨大な竜だった。
全長は二十メートルを超える。
暗い赤色の鱗に覆われた巨体。
背中から伸びる一対の翼。
頭部には後方へ湾曲した二本の角が生え、開かれた巨大な顎の隙間からは炎が漏れている。
アメリカ側が便宜上、《火竜》と呼んでいる個体だった。
日本の《深淵の四眼》とは、姿も大きさもまるで違う。
だが、この個体もまた巨大な門の前に居座り、その先へ進もうとする探索者を阻んでいた。
今となっては、その役割が何だったのかも分かる。
《門番》。
ただし。
それ以上のことは、アメリカにも分からない。
日本の石碑は、《深淵の四眼》という名称を告げた。
ならば、この火竜にも石碑が定めた何らかの名称が存在するのかもしれない。
だが、アメリカの石碑は一度も反応していない。
そのため《火竜》が何番目の門番なのか。
そもそも、日本と同じように番号を与えられているのか。
その正式な名称が何なのか。
アメリカでさえ、まだ知らなかった。
最初の討伐には十一人の探索者が参加した。
アメリカでも最高峰の者たち。
死者こそ出なかったが、重傷者は三名。
それほどの戦いだった。
そして。
その先で石碑を発見した。
触れた。
調べた。
魔力を流した。
考えられる限りの方法を試した。
だが。
「二年間、一度も反応しなかった」
研究者が言う。
誰も答えない。
再び日本の映像。
『単独討伐を確認』
「我々は石碑が壊れている可能性まで考えていた」
別の男が口を開く。
「違ったわけだ」
「ああ」
研究者が頷いた。
「条件を満たしていなかった可能性が高い」
静寂。
たった一人で。
あの火竜を倒す。
その条件がどれほど異常なのか。
この部屋にいる者たちは、誰より理解している。
十一人。
それも、ただの探索者ではない。
当時のアメリカが集められる最高峰の戦力を揃えて、ようやく討伐した相手だ。
「この日本人は?」
「現時点で詳細な情報は多くありません。配信者本人も、このダンジョンの特殊性を完全には理解していなかった可能性があります」
「年齢は?」
「推定二十歳前後」
僅かなざわめきが起こる。
そのとき。
それまで一言も話していなかった男が、小さく笑った。
会議室の一番奥。
椅子へ深く腰を掛けた男。
年齢は三十代半ば。
大柄ではない。
むしろ探索者として見れば、平均的な体格。
それでも、この部屋にいる誰もが彼を知っている。
アメリカ最高峰。
世界でも五本の指に入ると評される探索者。
その男は腕を組んだまま、日本の映像を眺めていた。
「面白いな」
研究者たちの視線が集まる。
男は気にしない。
画面に映っている青年を見る。
「七年間、一人で?」
「本人の発言が正しければ」
「いいね」
男が笑う。
その様子を見ていた研究責任者が、少し考えてから口を開いた。
「一つ聞いていいか?」
「何だ?」
責任者が別の画面を操作する。
二年前。
十一人の精鋭探索者が《火竜》と戦った映像が表示される。
巨大な翼を広げ、炎を吐き出す火竜。
その炎から逃れる探索者たち。
魔法が飛び交い、武器が鱗へ叩き込まれる。
映像越しでも、その戦いの激しさは十分に伝わってくる。
「お前なら」
男が画面を見る。
「あの火竜を、一人で倒せるか?」
会議室が静まり返った。
すぐには答えない。
男は椅子へ座ったまま、過去の戦闘映像を眺める。
十秒。
二十秒。
やがて。
口元が僅かに上がった。
「分からない」
意外な答えだった。
責任者が眉を上げる。
だが男は続けた。
「だから――」
椅子から立ち上がる。
「やってみよう」
二年間。
誰も反応させることのできなかった石碑。
その謎を解くため。
そして、日本の名も知らぬ青年が辿り着いた場所へ追いつくため。
アメリカが、再び動き始めた。




