第19話 再戦
三十六階へ下りる。
ここから先は、俺も自然と歩く速度が少し落ちた。
三十五階までと比べて道が分からないわけではない。むしろ何度も通っている場所だ。
ただ、ここまで来ると出てくる魔物の数そのものが少なくなる代わりに、一体一体が明らかに強くなる。
三十八階へ初めて辿り着くまでにも、かなり時間が掛かった。
「この辺から少し気を付けます」
『今まで気を付けてなかったの?』
『グランドオーガいたよね?』
『十分ヤバかっただろ』
「気を付けてはいましたよ」
ただ、少しだけその度合いが変わる。
剣を抜き、いつでも動けるようにしたまま先へ進む。
三十六階は、三十階付近に多かった岩場とは景色が大きく変わる。
地面は黒い石に覆われ、天井から伸びた太い結晶が淡い光を放っている。視界そのものは悪くなく、むしろ遠くまで見渡せる。
だからこそ、前方で何かが動いたのにもすぐ気付いた。
「いる」
足を止める。
百メートルほど先。
巨大な結晶の陰から、一体の魔物が姿を現した。
四本の長い脚に、前へ突き出た顔。体つきは馬によく似ているが、普通の馬とは明らかに違う。
赤黒い毛に覆われた身体は、遠目から見ても普通の馬より一回り以上大きく、頭部からは湾曲した二本の角が伸びている。さらに口を開くたび、牙の隙間から僅かに炎が漏れていた。
『……馬?』
『いや角生えてるぞ』
『普通の馬よりでかくない?』
『口から火出てるんだけど』
『名前聞いても無駄なんだろうな』
「こいつは火を吐くやつですね」
『知ってた』
『命名が雑』
『もうちょっと何かなかったのか』
名前なんて分からなくても、戦う分には困らない。
馬型の魔物が前脚で地面を掻く。
来る。
身体の奥に熱が生まれた。
同時に馬型の魔物が大きく息を吸い込む。
次の瞬間、その口から炎が放たれた。
横へ走る。
炎が俺を追うように薙ぎ払われ、背後の黒い地面を赤く染めていく。
それでも、炎が俺を追う速度より、こちらの方が僅かに速い。
走りながら少しずつ炎を引き離し、そのまま弧を描くように馬型の魔物との距離を詰めていく。
魔力が脚へ集まっている。
ここまでは、さっきまでと同じ。
でも――。
もう少し。
走りながら脚の感覚へ意識を向ける。
熱を感じる。
それが消えないように、脚へ押し込むようなイメージを持つ。
直後。
身体が一段強く前へ押し出された。
「おっ」
さっきまでとは明らかに違う。
馬型の魔物との距離が一気に縮まった。
魔物も一瞬反応が遅れる。
剣を横薙ぎに振るう。
首元へ刃が食い込み、赤黒い毛が舞った。
馬型の魔物が大きく身体を振り、俺を弾き飛ばそうとする。
後ろへ跳んで距離を取った。
着地する。
「今の……」
できた。
多分。
ほんの一瞬だけだったが、自分の意思で脚へ流れる魔力を強めた。
『急に速くなったぞ』
『今の何?』
『また身体強化?』
『動き変わったよな?』
確認したい。
けれど、馬型の魔物は待ってくれない。
再び大きく息を吸い込む。
今度は正面から見る。
炎が迫る直前、脚へ意識を向けた。
さっきと同じ。
熱を集める。
地面を蹴る。
一気に横へ飛ぶ。
「できた」
炎を避け、そのまま地面を蹴る。
二歩。
三歩。
今度はさっきより自然だった。
一気に懐へ潜り込む。
ここで、ふと思った。
脚でできたなら、腕でもできるんじゃないか。
剣を握る右腕へ意識を向ける。
すでに流れている熱を感じる。
それを逃がさないように、右腕へ集める。
「……ここか」
右腕の奥に、今までより強い熱が宿る。
その感覚を保ったまま、先ほど斬った首元へ剣を振り抜いた。
手応えが違う。
一撃目では途中で止まった刃が、今度は硬い肉を深く斬り裂いた。
赤黒い巨体が大きく揺れ、数歩よろめいたところで身体が光の粒子へと変わっていく。
やがて魔物の姿が完全に消え、地面には魔石だけが残った。
「……できた」
剣を見下ろす。
脚だけじゃない。
腕も同じだ。
『何が?』
『身体強化?』
「多分、自分で少しだけ強くできました」
『おお』
『習得早くね?』
『最近知ったばっかだよな?』
『無意識で7年使ってたんだからむしろ遅いのか?』
「まだよく分かりませんけどね」
さっきの感覚を思い出す。
魔力そのものを一から動かしたわけではない。
身体が勝手に脚や腕へ流したものに、自分の意思を加えただけだ。
それでも、今までとは明らかに違った。
魔石を拾い、再び歩き始める。
少しだけ面白くなってきた。
***
三十七階。
ここまで来ると、コメント欄にもさっきまでとは違う緊張感が出てきていた。
『あと1階』
『次38?』
『黒狼くるぞ』
『本当に行くのか』
「行きますよ」
三十五階で決めた。
危険なら逃げる。
それだけだ。
三十七階を進みながら、何度か身体強化を試した。
歩いているだけでは、やはり難しい。身体が戦闘状態になっていなければ、そもそも魔力が手足へ流れている感覚がほとんどない。
それでも魔物と遭遇すれば、少しだけ自分の意思を加えられる。
脚や腕。
一度だけ、身体全体。
まだ長くは続かない。
一瞬強くなって、すぐ元へ戻る。
それに使うたび、僅かに身体が重くなるような気もした。
慣れていないからだろうか。
無理に続ける必要はない。
そう考え、三十八階が近付いてからは練習を止めた。
体力は残しておきたい。
やがて三十八階へ続く、大きな石造りの階段が見えてきた。
「この先が三十八階です」
『きた』
『ついに38階』
『黒狼いる?』
『毎回いるの?』
「狼がいるのは、まだ先ですよ」
『まだなの?』
『38階にいるんじゃないのか』
「三十八階の一番奥ですね」
少なくとも、俺が行ったときにはいつも同じ場所にいる。
偶然なのか、それともあの場所から動かない魔物なのか、正確なところは分からない。
「あいつを倒さないと、先には行けません」
『門番ってこと?』
「多分」
階段を下り、そのまま三十八階へ足を踏み入れた。
***
三十八階は、それまでの階層とは少し雰囲気が違う。
黒い岩肌に囲まれた広い通路が奥へ向かって延びており、ところどころにある淡い光を放つ結晶のおかげで視界は確保できるものの、その光が届かない場所には深い闇が広がっている。
「ここからちょっと歩きます」
『すぐ狼じゃないのか』
『38階も普通に広いんだな』
『あとどれくらい?』
「二、三十分くらいですかね」
その日の状況にもよる。
魔物と遭遇すれば、もう少し掛かることもある。
ただ、この階には一つ妙なところがあった。
奥へ進むにつれて、魔物を見かけなくなる。
最初のうちは何体か遭遇することもあるのだが、黒い狼のいる場所に近付くほど、その数は明らかに減っていく。
今日も同じだった。
三十八階へ入って十分ほど進んだところで一体の魔物と遭遇したが、それ以降は何も出てこない。
聞こえるのは、通路に響く俺の足音くらいだ。
『静かだな』
『さっきから全然出てこない』
『奥に行くとこんなに減るんだ』
『逆に怖い』
「この辺はいつもこんな感じですよ」
『狼の縄張りとか?』
そのコメントを見て、少し考える。
「そうなのかもしれませんね」
今まで深く考えたことはなかった。
あの黒い狼以外の魔物が近付かないのだとすれば、確かに縄張りと考えるのが自然なのかもしれない。
だとすれば、それだけ他の魔物からも恐れられているということになる。
歩きながら、右手を開いては閉じる。
身体強化の感覚はまだ残っている。
三十六階で初めて、自分の意思でほんの少しだけ強めることができた。三十七階では、それを何度か再現することもできた。
以前とは違う。
そう思う一方で、それだけであの狼に勝てるとは思えなかった。
あいつの速さは、グランドオーガとも比べものにならない。
それを知っているからこそ、自然と剣を握る手にも力が入る。
さらに十分ほど進む。
周囲に魔物の姿はない。
コメント欄も、それまでより流れる速度が落ちていた。
『まだ?』
『こっちまで緊張してきた』
『何もいないの怖いな』
『バッテリー大丈夫?』
そのコメントを見て、スマホの表示を確認する。
交換してから、まだ一時間も経っていない。
「まだ大丈夫ですよ」
最後のバッテリーではあるが、狼のいる場所までなら十分持つ。
問題は、そのあとだ。
帰り道まではまず持たないだろう。
「多分、帰る途中で配信は終わります」
『狼戦は見られそうだな』
『そこまで持てばいい』
『フラグやめろ』
「壊れなければ大丈夫です」
『それもフラグ』
思わず笑ってしまう。
そんなやり取りをしながらさらに奥へ進んでいくと、やがて通路の先が大きく開け、あの狼のいる広間が見えてきた。
「……着きました」
『ここ?』
『急に止まった』
『狼いる?』
『黒狼くるぞ』
スマホでドローンのバッテリー残量を確認すると、まだ十分に余裕がある。
俺はそのままスマホをポケットへしまい、剣を抜いて広間へ足を踏み入れた。
円形に近い巨大な空間は床から壁まで黒い石で覆われ、周囲には柱のような太い岩がいくつも立っている。
そして広間の最奥、三十九階へ続く巨大な扉の前に、そいつはいた。
全身を黒い毛に覆われた、体長五メートルほどの巨大な狼。
太い四本の脚を折り畳むようにして伏せたその姿は以前と何も変わらず、額には二つずつ縦に並んだ四つの目がある。
俺が広間へ入ったことに気付いたのか、狼がゆっくりと顔を上げた。
四つの目が、一斉にこちらを向く。
『……でか』
『あれが狼?』
『目が四つあるぞ』
『グランドオーガよりヤバいの?』
『黒龍:知らない魔物だ』
『黒龍でも知らない!?』
『マジかよ』
『初確認?』
『黒龍:少なくとも俺は見たことがない』
コメントを見ることなく、俺は剣を握り直した。
何度見ても、あの四つの目は苦手だ。
全部が別々に動いているわけではない。それでも、腕や脚、剣の先まで同時に見られているような感覚になる。
「久しぶり」
当然、返事はない。
狼はゆっくりと身体を起こすと、こちらへ向き直った。
その瞬間、身体の奥から一気に熱が広がる。
グランドオーガと戦ったときよりも強く、身体が勝手に反応している。全身へ流れ込む魔力の量も、それまでの戦闘とは比べものにならない。
俺の身体が、目の前の相手をそれだけ危険だと判断しているのだろう。
「……やっぱり、こいつは別だな」
狼が僅かに姿勢を低くした。
来る。
次の瞬間、黒い巨体が視界から消えた。
「っ!」
身体を横へ投げる。
直後、黒い巨体が目の前を通り過ぎ、僅かに遅れて風が頬を叩いた。
着地すると同時に振り返ると、狼はすでに十メートル以上離れた場所でこちらを向いている。
『は?』
『消えた?』
『何が起きた』
『速すぎる』
『グランドオーガと全然違うぞ』
狼がこちらを向く。
来る。
地面を蹴った。
魔力を脚へ。
三十六階で掴んだ感覚を使う。
身体が一気に加速する。
直後、鋭い爪が俺のいた場所を通過した。
「よし」
避けられる。
以前より余裕がある。
あいつが振り返る。
今度は俺から行く。
地面を蹴り、距離を詰める。
右腕へ魔力を集める。
剣を振る。
狼が僅かに身体をずらした。
空振り。
すぐに爪が飛んでくる。
剣を引き戻す暇はない。
身体を反らして避ける。
爪の先が服を掠めた。
距離を取る。
「……やっぱり速いな」
以前より動きは見える。
それでも攻撃が当たらない。
狼が再び消える。
右。
反応する。
剣を振る。
だが、そこにはもういない。
背後。
「っ!」
咄嗟に前へ跳ぶ。
背中を何かが掠める。
着地と同時に振り返る。
あいつはすでに次の攻撃へ移っていた。
速い。
それだけじゃない。
こいつは俺の動きを見ている。
四つの目が、腕も脚も剣も全部見ているように感じる。
フェイントもほとんど通じない。
何度か攻防を繰り返すうちに、以前との違いもはっきりしてきた。
狼の攻撃は、以前より確実に避けられるようになっている。それでも、こちらの剣は一度も届かない。
『やばい』
『初めてじゃない?』
『何が?』
『攻撃全然当たってない』
『さっきのグランドオーガと別物すぎる』
『黒龍:完全に動きを読まれてるな』
狼が低く身体を沈める。
嫌な構えだ。
覚えている。
「それか」
一気に魔力が脚へ流れる。
黒い巨体が消えた。
俺も地面を蹴る。
一度目。
横へ。
狼の爪が通過する。
だが終わらない。
すぐに方向を変えてくる。
二度目。
後ろへ。
牙が目の前を通過する。
三度目。
また来る。
脚へ魔力を集める。
もっと。
さっきより強く。
地面を蹴った。
身体が想像以上に加速した。
狼の爪が僅かに届かない。
避けた。
「……」
着地する。
あいつも少し離れた場所で止まった。
四つの目が俺を見ている。
今の感覚。
身体が勝手に使っていた魔力に、俺が少しだけ力を加えた。
それだけで、さっきより速く動けた。
なら。
もっと強くしたら?
その考えが頭に浮かぶ。
協会で身体強化について説明を受けたときのことを思い出す。
俺は無意識に身体強化を使っている。
それもかなり高い水準で。
そして、もし今以上に使えたとしても、身体への影響が分からない以上、無理に出力を上げようとしない方がいい。
そう言われた。
今なら、その意味が少し分かる。
今までの俺は、自分がどれだけ魔力を使っているのかすら知らなかった。
でも今は違う。
身体の中にあるものを感じる。
脚へ。
腕へ。
全身へ。
まだ使える。
そんな感覚がある。
黒い狼がこちらを睨んでいる。
俺は剣を握り直した。
「……もう少しだけ」
身体を巡る魔力へ意識を向ける。
今日、何度も繰り返してきた感覚。
それでも、まだ先があるような気がする。
この力は、こんなものじゃない。
俺の直感が、そう囁いていた。




