第18話 30階層を超えて
「分かったかもしれない」
そう口にしたものの、すぐに身体強化を自由に使えるようになったわけではなかった。
二十四階から探索を再開して間もなく、次の魔物と遭遇したときにも試してみたが、戦闘が始まる前に身体の奥にある何かを動かすことはできなかった。
結局、相手が襲い掛かってきた瞬間にいつもの熱が広がり、身体強化は勝手に発動した。
それからも何度か試してみたが、結果は似たようなものだった。
ただ、少しずつではあるが変化もある。
最初は戦闘が始まってからでなければ気付けなかったものが、今では発動する瞬間まで分かるようになっていた。
身体の中心から何かが広がり、腕や脚へ流れていく。
それが魔力なのだとすれば、俺はこれまでずっと無意識に同じことを繰り返していたらしい。
「……今のは結構分かったな」
二十六階で魔物を倒したあと、剣を鞘へ戻しながら呟く。
『まだ練習してる』
『さっきより動き良くなってない?』
『元から動きおかしいから分からん』
『身体強化って一日で覚えられるもんなの?』
「まだ使えてないですよ」
自分の意思で発動できたことは一度もない。
「使ってるときの感覚が分かってきただけです」
『十分進歩してる』
『というか今までそれで戦えてたのがすごい』
『無意識のままでよくない?』
それは俺も少し思っている。
それでも、今まで自分の身体に何が起きていたのかを知るのは面白かった。
剣を振ったときや地面を蹴ったとき、攻撃を避けたとき。意識してみると、そのたびに身体の中を何かが移動しているように感じる。
最初は身体全体が熱くなっているだけだと思っていたが、どうやら少し違う。
右腕に力を入れれば右腕に、走れば脚に。
必要な場所へ熱が集まっているような気がする。
もっとも、それも俺がそう感じているだけで、本当に魔力が移動しているのかは分からない。
今度協会に行ったら聞いてみよう。
「先行きます」
『どこまで?』
「行けるところまでです」
『38階行く気だろ』
『黒狼待ってるぞ』
『今日はリベンジ回か?』
「だから決めてませんって」
そう答えながら、次の階へ続く道を進んだ。
***
二十七階、二十八階、二十九階と探索を進める。
階層が深くなるにつれて出てくる魔物も少しずつ強くなっていくが、この辺りはまだ何度も通った場所だ。
魔物の攻撃の癖も、どこを狙えば倒しやすいのかも知っている。
初めて配信を見る人には危険そうに見えるらしく、戦闘が始まるたびにコメントが騒がしくなるのだが、俺にとってはいつもの探索だった。
そして三十階へ下りる。
ここから先は、少し空気が変わる。
実際に空気の成分が違うとか、そういう意味ではない。
単純に出てくる魔物が強くなる。
「三十階です」
『ついに30階』
『ここからヤバいんだっけ?』
『前に30階から魔物が強くなるって言ってたな』
『タイタン級出る?』
「出てくることもありますよ」
『軽いな』
『S級指定種だぞ』
『「出てくることもありますよ」で済ませるな』
アイアンタイタンがS級指定種だと知ってから、視聴者の反応が少し変わった気がする。
俺としては、今まで強い魔物だと思っていたものに名前が付いただけなのだが。
三十階は岩場が続いている。
二十一階の湖とは違い、灰色の岩壁に囲まれた道が複雑に入り組んでいて、場所によっては人一人が通れる程度の隙間しかない。
こういう場所では大きな魔物より、小型で素早い魔物の方が面倒だったりする。
道を覚えていなかった頃は何度か行き止まりに入り込んだが、今では迷うこともない。
細い岩場を抜け、三十一階へ。
そこからさらに探索を続けた。
身体強化については相変わらずだ。
戦闘になれば使える。
終われば消える。
ただ、戦闘が終わったあとに魔力が消えていく感覚を追いかけると、ごく僅かだが身体の中に留められるようになってきた。
数秒程度で、身体が強くなったと実感できるほどでもない。
それでも最初は何も分からなかったことを考えれば、大きな違いだ。
「……もう少しなんだけどな」
『何が?』
「身体強化です」
『まだやってたのか』
『探索ついでに練習してるw』
『器用だな』
俺もそう思う。
戦いながら考え事をするなんて、昔ならできなかった。
七年間も同じダンジョンに潜っていれば、嫌でも慣れるものらしい。
三十二階へ続く通路を歩いていると、前方から低い音が聞こえた。
足を止める。
ズシン、と重い音が岩壁の向こうから響いてくる。
少し間を置いて、もう一度。
何か重いものが地面を踏みしめている。
「いるな」
『何?』
『音やばくない?』
『でかそう』
剣を抜き、先へ進む。
通路を抜けた先には、円形に近い広い空間があった。
その中央に一体の魔物がいる。
全高は三メートルほど。
二本脚で立ち、全身を黒褐色の硬そうな皮膚に覆われている。人型に近い体型だが、頭には大きな角が二本生え、異様に太い両腕はそれ自体が武器のようだった。
「鬼か」
俺が勝手にそう呼んでいるだけで、本当の名前は知らない。
こいつとは以前にも戦ったことがある。
俺の声に反応したのか、鬼がゆっくりとこちらを向いた。
目が合う。
次の瞬間、巨体が沈み込んだ。
身体の奥に熱が広がる。
それを感じると同時に横へ跳んだ。
直後、鬼の姿が一瞬で目の前から消える。
ドンッ!
さっきまで俺が立っていた場所に巨大な拳が突き刺さり、地面が大きく砕けた。
『は!?』
『速っ』
『今の何!?』
『三メートルある奴の動きじゃないだろ』
鬼が地面から拳を引き抜く。
「こいつ、見た目より速いんだよな」
『知ってたのかよ』
『普通に避けるな』
『初見じゃないの?』
『黒龍:グランドオーガです』
『!?』
『黒龍!?』
『本物きた』
『黒龍いるじゃん!』
『グランドオーガ?』
『黒龍:アイアンタイタンより上ですよ』
『は!?』
『今のタイタンより強いの!?』
『マジかよ』
『逃げろ!』
『誰か配信主に教えろ!』
鬼が地面を蹴った。
一瞬で距離が縮まる。
突き出された拳を身体を捻って躱し、今度はこちらも動いた。
すれ違いざまに脇腹へ剣を走らせる。
硬い皮膚を刃が斬り裂いた。
浅い。
すぐに反撃が来る。
振り返りながら放たれた裏拳を屈んで避け、そのまま足元へ潜り込む。
右脚へ一撃。
鬼の巨体が僅かに傾いた。
だが倒れない。
すぐに太い脚が横薙ぎに振るわれる。
後ろへ跳ぶと、靴の先を風圧が掠めた。
『普通に反撃したぞ』
『アイアンタイタンより上なんだよな?』
『動き見えてるのおかしくない?』
『黒龍:少なくとも私が知っている個体と同じなら、間違いなく上です』
『じゃあなんでこんな余裕そうなんだよ』
こいつの動きは知っている。
右拳。
左拳。
蹴り。
一度大きく距離を取ってからの突進。
鬼が両脚に力を込める。
来る。
俺も地面を蹴った。
次の瞬間、互いの姿が一気に掻き消える。
鬼が放った右拳を、身体を低くして懐へ滑り込むことで躱す。すぐ横を巨大な腕が通過するのとほぼ同時に、さらに一歩踏み込んだ。
あまりの速さに何が起きているのか理解できなかったのか、それまで絶え間なく流れていたコメントが一瞬止まる。
狙うのは、さっき傷を付けた右脚。
同じ場所へ剣を振り抜く。
今度は深い。
鬼が体勢を崩し、膝が地面へ落ちる。
その瞬間には、もう動いていた。
倒れ込む巨体の横を駆けて背後へ回ると、地面を蹴り、その勢いのまま背中から肩へと一気に駆け上がる。
鬼が振り払おうと腕を伸ばす。
その前に剣を首へ叩き込んだ。
一撃では浅い。
すぐに剣を引き抜き、同じ場所へもう一度振り下ろす。
刃が深く沈んだ。
鬼の巨体が大きく揺れる。
俺は肩から飛び降り、そのまま距離を取った。
数歩。
鬼がこちらを向こうとする。
だが、途中で動きが止まった。
巨体が光の粒子へ変わり始める。
『……え?』
『終わった?』
『今何した?』
『速すぎて分からなかった』
『巻き戻したい』
『タイタンより上なんだよな、こいつ?』
『黒龍:……速いな』
『黒龍さん?』
『あれ?』
『今敬語じゃなかったぞw』
『黒龍さん素が出てるwww』
『さすがに興奮してる?』
『トップ探索者もただの視聴者になってて草』
少し間を置いて、新しいコメントが流れる。
『黒龍:……今はいいだろ』
『開き直ったw』
『もう戻す気ないじゃん』
『黒龍も興奮するレベルなのかよ』
やがて鬼の身体が完全に消え、地面には拳より一回り大きな魔石だけが残った。
「思ったより早かったな」
剣を確認してから鞘へ戻す。
魔石を拾い上げ、そこでようやくスマホへ目を向けた。
コメント欄は凄いことになっている。
『普通に倒したぞ』
『今の何だったんだよ』
『タイタンより上なんだよな?』
『黒龍さん解説頼む』
『グランドオーガって何級?』
その中に見覚えのある名前を見つけた。
「黒龍さん来てたんですね」
『今さらw』
『戦闘中ずっといたぞ』
『コメント見ろ』
『今のグランドオーガだって』
「グランドオーガ?」
さっきまで鬼がいた場所を見る。
「こいつ、そんな名前だったんですね」
『そこから!?』
『名前知らなかったのかよ』
『鬼って呼んでたもんなw』
『黒龍:名前も知らずに戦っていたのか』
「この辺の魔物の名前、ほとんど知らないですよ」
俺がここへ潜り始めた頃は、そもそも探索者ですらなかった。
出てくる魔物の名前を調べる必要もなかったので、見た目で適当に呼んでいるものが多い。
「それより、アイアンタイタンより強いんですか?」
『黒龍:少なくとも俺が知っているグランドオーガならな』
「へえ」
『へえじゃない』
『反応薄すぎw』
『お前今それ倒したんだぞ』
『黒龍:あれを単独であそこまで安定して倒せる探索者は、国内でも数えるほどしかいない』
「動きが分かりやすいんですよ」
『黒龍:……そういう問題じゃない』
『完全に素の黒龍になったw』
『さっきまでの敬語どこいった』
『もう取り繕う気ゼロで草』
『配信主の基準がおかしい』
『黒龍:それより、グランドオーガが普通に出てくるのか?』
「三十階を越えると、たまにいますよ」
『黒龍:……そうか』
それだけだった。
でも、他のコメントは止まらない。
『今の間なんだよ』
『黒龍さん絶対引いてるだろw』
『30階台怖すぎ』
『タイタン以上が普通に歩いてるダンジョン』
『これ38階の狼どんだけ強いんだよ』
最後のコメントに目が止まった。
三十八階の黒い狼。
グランドオーガより遥かに強い。
初めて遭遇してから何度か挑んだが、一度もまともに攻撃を当てられたことがない。
それどころか、最後に戦ったときでさえ、俺は逃げるだけで精一杯だった。
「……まあ、あいつは別ですね」
『別?』
『グランドオーガより?』
『タイタンより強いのは確定?』
「比べものにならないですよ」
コメント欄がさらに騒がしくなった。
『は?』
『今のより!?』
『嘘だろ』
『38階どうなってんだよ』
『黒龍:比べものにならない?』
「はい」
魔石をリュックへ入れる。
「少なくとも、俺が戦った中では一番強いです」
『黒龍:……なるほど』
黒龍から、それ以上のコメントはなかった。
俺は三十二階の奥へ続く道を見る。
まだ先は長い。
身体強化の感覚も、少しずつ分かってきた。
それに、さっきの戦闘中に一つ気付いたことがある。
グランドオーガの背中から肩へ駆け上がったとき、脚へ集まっていた熱が普段よりはっきりと感じられた。
自分で動かしたわけじゃない。
それでも、身体が何をしているのかは分かった。
「もう少し試してみるか」
剣の柄に手を置き、そのまま奥へ向かって歩き出した。
***
三十三階へ下りてからも、探索は順調に進んだ。
出てくる魔物は三十階より上とは明らかに違う。
硬い外殻を持つもの。
身体の一部から炎を放つもの。
グランドオーガほどではないにしても、一瞬の油断が怪我に繋がりそうな魔物が当たり前のように現れる。
それでも、足が止まることはなかった。
何度も通った道で、戦い方も分かっている。
それに今日は、いつもとは少し違う。
「……また脚だ」
三十三階で魔物を倒したあと、その場で軽く右脚を動かしてみる。
戦闘中、攻撃を避けるために地面を蹴った瞬間、魔力が脚へ集まる感覚があった。
グランドオーガと戦ったときよりも、さらに分かりやすかった。
『身体強化?』
「はい」
『まだ練習してたのか』
『戦いながらずっとやってるな』
『器用すぎる』
「勝手に使ってるのを確認してるだけですけどね」
まだ、自分の意思では動かせない。
それでも戦うたびに感覚は鮮明になっていた。
剣を振るえば腕へ。
地面を蹴れば脚へ。
攻撃を受け止めれば、腕だけではなく身体全体へ。
今まで何も考えずにやっていたことが、少しずつ見えるようになってきた。
不思議な感覚だった。
自分の身体なのに、今まで知らなかった使い方を教えられているような気がする。
三十四階へ下りる。
この階は背の高い岩があちこちから突き出していて、視界が悪い。
慎重に進んでいると、岩陰から四足の魔物が飛び出してきた。
身体は大型犬ほどだが、頭から背中にかけて無数の針のような突起が生えている。
「こいつ面倒なんだよな」
『また知らん奴』
『名前は?』
「知りません」
『でしょうね』
『もう聞いた方が悪いまである』
思わず少し笑う。
魔物が背中を丸めた。
すぐに横へ跳ぶ。
次の瞬間、背中から数本の棘が放たれた。
俺がいた場所を通り過ぎ、背後の岩へ突き刺さる。
『飛ばすの!?』
『危なっ』
『遠距離持ちかよ』
二射目。
今度は前へ出た。
飛んでくる棘の間を抜け、一気に距離を詰める。
身体の奥から熱が広がり、それが脚へ集中する。
分かる。
地面を蹴る瞬間、脚に集まった何かが一気に強くなる。
一歩で大きく距離が縮まった。
魔物が三射目を放とうと身体を丸める。
その前に懐へ入り、剣を振り抜いた。
首を断たれた魔物が光の粒子へ変わる。
魔石が地面へ落ちた。
「……今のは分かりやすかったな」
魔石を拾いながら、さっきの感覚を思い出す。
脚へ集まった魔力。
それが地面を蹴った瞬間に強くなった。
いや。
強くなったというより――。
「使った?」
『何が?』
「魔力です」
『今さら!?』
『ずっと使ってるんじゃないの?』
「そうじゃなくて……」
上手く説明できない。
今までは身体が勝手にやっていた。
さっきも基本的には同じだ。
でも地面を蹴る直前。
ほんの一瞬だけ、脚へ集まっているものを意識した。
その瞬間、いつもより少し強く地面を蹴れたような気がする。
自分で魔力を動かしたわけではない。
ただ、すでにそこにあったものを少しだけ強く使った。
そんな感覚だった。
「……まあ、もう一回試してみます」
『実験感覚で深層攻略するな』
『さっき国内で数えるほどしか倒せない魔物倒した奴とは思えん』
『協会の人が見てたら頭抱えてそう』
スマホをしまい、探索を再開した。
***
三十五階へ下りた頃には、さすがに少し疲れを感じ始めていた。
戦闘そのものより、朝から歩き続けている時間の方が長い。
適当な岩を見つけ、その上に腰を下ろそうとしたところで、ドローンのバッテリー残量を示すランプが赤く点滅しているのが目に入った。
もうほとんど残っていない。
「こっちも交換するか」
ドローンを手元まで戻して着地させる。
電源を落としてバッテリーを外し、リュックから予備を取り出した。
持ってきたバッテリーは、これで最後だ。
残念ながらバッテリーも既に生産が終了していて、中古でしか手に入らなかった。
一つで二時間ほど使える。らしい。
これまでにも一度交換しているので、地上へ戻るまで配信を続けるのは難しいだろう。
新しいバッテリーを取り付け、電源を入れる。
プロペラが回転し、ドローンが再び俺の前へ浮かび上がった。
「これが最後のバッテリーなので、切れたら今日は配信終わりです」
『あと2時間?』
『十分だろ』
『帰りまでは無理そうだな』
『38階までなら行ける?』
『黒狼見せてくれ』
「行くとはまだ言ってませんよ」
『まだ言ってるw』
『ここまで来て帰るの?』
『あと3階だぞ』
今度こそ岩の上に腰を下ろし、リュックから水を取り出して口に含む。
さすがに身体にも疲労が溜まってきている。
とはいえ、まだ動ける。
脚にも腕にも問題はない。
スマホを見ると、相変わらずかなりの勢いでコメントが流れていた。
『やっと休んだ』
『何時間潜ってんだ』
『体力どうなってるんだよ』
『38階行く?』
『黒狼見たい』
『グランドオーガより強いんだよな?』
やっぱり、その話になる。
水をもう一口飲んでから、スマホを膝の上に置く。
「……どうしようかな」
『行こう』
『行くしかない』
『無理すんな』
『その狼だけはヤバそう』
三十八階まで、あと三つ。
距離だけを考えれば大したことはない。
問題は、その先にいる相手だ。
黒い狼。
額に縦に並んだ四つの目。
普通の狼より圧倒的に大きな身体。
そして何より、異常なまでの速さ。
初めて遭遇したときは、何が起きたのかすら分からなかった。
気付いたときには横を通り抜けられ、服が裂けていた。
あと少しずれていれば、腹を切り裂かれていたと思う。
それから何度か挑んだ。
最初よりは動きを追えるようになった。
攻撃も避けられるようになった。
それでも、勝てなかった。
最後に挑んだときでさえ、剣をまともに当てることはできなかった。
結局、危険だと判断して逃げた。
「……」
自分の右手を見る。
今日一日で、身体強化について少しだけ分かるようになった。
これまで身体が勝手にやっていたこと。
魔力がどこへ流れ、どの瞬間に使われているのか。
そしてさっきは、ほんの僅かだが自分の意思がそこへ介入したような感覚もあった。
だからといって、急に強くなったわけではない。
黒い狼に勝てる保証なんてどこにもない。
ただ――。
今なら、前とは少し違うかもしれない。
「行ってみますか」
コメント欄が一気に加速した。
『!?』
『きた!』
『38階!?』
『黒狼リベンジ!』
『マジで行くのか』
『無理だけはするなよ』
『逃げる準備しとけ』
「危なかったら逃げますよ」
そこは今までと変わらない。
勝てない相手と無理に戦う理由なんてない。
それに俺は、あいつから逃げることには慣れている。
水の蓋を閉め、リュックへ戻す。
立ち上がって軽く身体を伸ばした。
まだ動ける。
疲労も、この程度ならいつもの範囲だ。
「じゃあ、行きます」
リュックを背負い直し、三十六階へ続く道へ向かう。
『楽しみ』
『急に緊張してきた』
『さっきのグランドオーガより遥かに強いんだろ?』
『どんな化け物だよ』
『配信主が逃げるレベルだからな』
最後のコメントを見て、少しだけ笑う。
確かにその通りだ。
アイアンタイタンを倒した。
グランドオーガも倒した。
それでも、あの黒い狼だけは一度も倒せていない。
だからこそ、確かめてみたい。
今日一日で掴み始めた、この感覚。
それがどこまで通用するのか。
三十八階まで、あと三つ。
俺は奥へ続く道を歩き始めた。




