第14話 かつての壁
休憩を終えた俺は、再び二十階を目指して歩き始めた。
十六階から先は、それまでの森とは景色が大きく変わる。
木々はすっかり姿を消し、代わりに剥き出しの岩肌が左右に続いていた。道幅も狭くなり、場所によっては大人二人が並んで歩くのも難しい。
足元には細かな石が転がり、一歩踏み出すたびに靴の裏で小さく音を立てる。
「この辺から寒くなるんですよね」
『ほんとに?』
『映像じゃ分からん』
『今何度くらい?』
「分からないです。温度計持ってないんで」
『探索者なんだから持てよw』
『F級に求めすぎるな』
『38階まで行ってるF級だぞ』
『その肩書き便利すぎる』
スマホを見ながら歩いていると、少し先で石の転がる音がした。
顔を上げると、右側の岩壁に人間の頭ほどの大きさの何かが張り付いている。
灰色の甲殻に八本の脚。
岩とほとんど同じ色をしているので、注意して見なければ気付かずに通り過ぎてしまう。
「あれ、踏むと面倒なんですよ」
『何?』
『どれ?』
『見えん』
俺の視線に気付いたのか、中古ドローンがゆっくりと向きを変える。
カメラが岩壁へ向けられると、ようやく視聴者にも見えたらしい。
『いた』
『蜘蛛?』
『ロッククロウラーじゃない?』
『C級』
『擬態するやつか』
ロッククロウラーというらしい。
俺の中では、ずっと「岩みたいな蜘蛛」だった。
「踏むと上から落ちてきます」
『経験者は語る』
『踏んだことあるんだな』
「ありますよ」
初めて遭遇したとき、一匹だけだと思って何も気にせず近付いた。
その瞬間、頭上から十匹以上が一斉に落ちてきた。
倒すこと自体にも苦労したが、それ以上に全身を這い回られた感触の方が記憶に残っている。
できれば二度と経験したくない。
『どうしたの?』
『急に黙った』
「昔、いっぱい落ちてきたなと思って」
『何匹?』
「十匹くらい」
『地獄で草』
『想像したくない』
『よく生きてたな』
今なら同じ数が落ちてきても、それほど苦戦しないと思う。
でも、倒せるからといってわざわざ戦う必要はない。
少し距離を取りながら横を通り過ぎると、ロッククロウラーは俺を追いかけることもなく、岩壁に張り付いたまま動かなかった。
戦わなくていい相手とは戦わない。
それも七年間の探索で覚えたことの一つだ。
***
十八階を抜け、十九階へ入る。
階層を下りるにつれて道幅は少しずつ広くなり、代わりに空気の冷たさが増していった。
十九階も終盤に差し掛かる頃には、吐いた息が僅かに白くなっている。
休憩を終えてから、まだ一時間も経っていない。
見覚えのある大きな岩を通り過ぎたところで、前方に下へ続く階段が見えてきた。
「もうすぐです」
『20階?』
「はい」
『門番くるぞ』
『一年のやつ』
『ここまで来たら怖くなってきた』
『A級より強い?』
「どうなんでしょう」
俺には魔物のランクなんて分からない。
昔の俺にとっては、とにかく強かった。
それだけだ。
階段の前まで来たところで足を止める。
「この下が二十階です」
その一言で、コメントの速度が目に見えて上がった。
『きた』
『待ってた』
『一年足止めしたやつ』
『黒龍いる?』
『専門家求む』
どうしてみんな黒龍さんを呼びたがるんだろう。
有名な探索者らしいので、俺より魔物について詳しいのは間違いないと思うけど。
「一応、先に言っておきますけど、そんなに期待しないでくださいね」
『なんで?』
「今は多分、普通に倒せるんで」
『その普通が信用できねえんだよ』
『一年苦戦したんだろ?』
『フラグ立てるな』
一年近く苦戦したのは事実だ。
でも、それは何年も前の話。
今でも同じように苦戦するとは思えない。
俺は剣の柄に手を置き、二十階へ続く階段を下り始めた。
***
階段を下り切ると、巨大な空間が広がっていた。
十一階の森林ほどではないが、それでも体育館がいくつも入りそうな広さがある。
床も壁も黒っぽい岩でできており、天井からは青白い光を放つ細長い鉱石が何本も伸びている。その淡い光のおかげで、照明がなくても広間の奥まで何とか見渡すことができた。
そして、広間の一番奥。
今日もそいつはいた。
「ああ、いた」
『どこ?』
『暗くて見えん』
『奥になんかいる』
初めて見る人なら、大きな岩と勘違いするかもしれない。
高さは三メートルほど。
横幅はそれ以上。
全身が黒い岩のような外殻で覆われ、異様に太い両腕に比べると脚は短い。頭部は胴体にめり込むようについていて、その中央に一つだけ赤い目がある。
微動だにせず座り込んでいる姿は、巨大な石像そのものだった。
『ゴーレム?』
『違う』
『待って』
『これ……アイアンタイタンじゃない?』
『マジ?』
『いや、似てるけどデカくない?』
アイアンタイタン。
初めて聞く名前だ。
「そういう名前なんですね」
『また知らない』
『知らずに一年戦ってたのかよ』
『これS級指定種だぞ』
『は?』
『マジで?』
『アイアンタイタンならS級』
『協会職員見てるなら確認してくれ』
S級。
それは少し意外だった。
以前聞いた話では、魔物の危険度でS級は最高位だったはずだ。
「そんなに強いんですか?」
『お前が言うな』
『その質問が一番怖い』
『一般探索者が単独で戦う相手じゃない』
『普通はパーティー前提だぞ』
コメントを読みながら広間へ一歩踏み込む。
ゴゴゴ、と低い音が響いた。
奥で石像のように座っていたアイアンタイタンが、ゆっくりと身体を起こしていく。
三メートルを超える巨体が完全に立ち上がると、昔感じていた圧迫感を少しだけ思い出した。
赤い目が俺を捉える。
「これです。高校生の頃、こいつを倒せなくて一年くらいここで止まってました」
剣を抜く。
初めてここへ来たときのことは、今でも覚えている。
当時の俺は何も考えずに正面から斬りかかった。
でも、剣は簡単に弾かれた。
場所を変えて何度斬っても、ほとんど傷を付けられない。
そのうちアイアンタイタンの拳が飛んできて、咄嗟に剣で受け止めたものの、そのまま身体ごと吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、しばらく息もできなかった。
その日は逃げた。
次に来たときは、もっと重い武器なら通用するかもしれないと思い、大きなハンマーを持ってきた。
それでも駄目だった。
ならばと関節を狙った。
そこには少しだけ攻撃が通った。
だから何度も試した。
脚や腕、首、脇、背中。
攻撃する場所を変え、武器も変え、少しずつ戦い方を変えていった。
そうやって何度も挑戦するうちに分かった。
こいつは確かに硬い。
でも、全身が同じ硬さではない。
「行きます」
俺が地面を蹴るのと、アイアンタイタンの右腕が振り上げられたのはほぼ同時だった。
昔は、あの拳が持ち上がるだけで身体が固まった。
一度でもまともに食らえば終わる。
そう思うと、どうしても早く避けようとしてしまい、そのせいで次の攻撃に追い込まれることも多かった。
でも、今は落ちてくる軌道まではっきり見える。
巨大な拳が振り下ろされる直前、俺は左へ身体を滑らせた。
直後、轟音とともにさっきまで立っていた場所が砕け、小石が頬を掠める。
振り下ろされた腕の横を抜けながら懐へ入り、狙うのは右脚の膝裏。
剣を振り抜く。
ガキンッ!
金属同士をぶつけたような音が広間に響いた。
手に強い衝撃が返ってきたものの、刃は僅かに外殻へ食い込んでいる。
「まだ硬いな」
『今斬った?』
『すごい音したぞ』
『硬すぎだろ』
『てか速い』
『ドローン追えてないじゃん』
アイアンタイタンがこちらへ振り返る。
昔はあの動きにさえ焦っていた。
でも、今見るとかなり遅い。
いや、こいつが遅くなったわけじゃない。
俺が昔より速くなったんだ。
太い腕が横薙ぎに振られる。
しゃがんで避けると、頭上を通過した腕の風圧だけで髪が大きく揺れた。
そのままさらに懐へ潜り込み、右脇へ剣を突き込む。
ここも外殻が薄い。
「ふっ!」
最初は硬い感触があったものの、力を込めると少しずつ刃が沈んでいった。
いける。
そう思った瞬間、アイアンタイタンの赤い目が強く光った。
見覚えがある。
「まずっ――」
すぐに剣を引き抜き、身体を捻る。
直後、巨体そのものが勢いよく回転した。
完全には避け切れず、巨大な肩が左腕を掠める。
強い衝撃を受け、足が地面から離れた。
数メートル飛ばされたものの、どうにか着地する。勢いを殺し切れずに二歩、三歩と後ろへ下がり、靴底を滑らせながら何とか止まった。
「……やっぱり重いな」
左腕が少し痺れている。
まともに食らったわけでもないのにこの威力。
やっぱり昔の俺が苦戦しただけはある。
『当たった!?』
『大丈夫?』
『今ので掠っただけ?』
『普通の人なら吹っ飛んで終わりだろ』
『今の受けて立ってるのおかしくない?』
昔なら、今の一撃だけで立ち上がれなくなっていたかもしれない。
でも今は、左腕が少し痺れている程度だった。
それどころか、戦いが続くにつれて身体の奥が少しずつ熱くなっている。
前回、サーベルパンサーと戦ったときにも感じた感覚。
協会で言われたことを思い出す。
身体強化。
戦闘中、俺は無意識に身体強化を強めている可能性があるらしい。
意識を身体の内側へ向けてみる。
今まで考えたこともなかったが、確かに何かが全身を巡っているような感覚があった。
「これが魔力なのかな……」
『何が?』
『急にどうした』
『戦闘中に考え事するなw』
確かに、考えるなら終わってからでいい。
アイアンタイタンが再びこちらへ向かってくる。
三メートルを超える巨体が突進するたびに、床から振動が伝わってきた。
昔なら、とにかく距離を取って逃げていた。
でも今は違う。
真正面から動きを見る。
巨体の割にはかなり速い。
それでも避けられる。
ギリギリまで引きつけてから横へ一歩。
アイアンタイタンの巨体がすぐ横を通り過ぎた。
その瞬間、右脚の膝裏にある、さっき傷を付けた場所へ剣を振り抜く。
ガキンッ!
今度はさっきより深い。
刃が外殻の隙間へ食い込み、アイアンタイタンの巨体が大きく傾いた。
そのまま片膝をつく。
『効いた!』
『膝!』
『さっきと同じ場所狙ってる』
『弱点知ってるんだ』
『動き完全に覚えてるだろこれ』
当たり前だ。
こいつを倒すために、何度ここへ来たと思っている。
次の動きだって知っている。
片膝をついたあと、アイアンタイタンは必ず右腕を地面すれすれに振り回す。
赤い目が光る。
腕が動き始めるより一瞬早く地面を蹴った。
身体が浮き上がり、その下を巨大な腕が通り過ぎる。
そして俺は、振り抜かれた腕の上へそのまま着地した。
止まらずに一歩、二歩と踏み込み、アイアンタイタンの腕を駆け上がる。
『は!?』
『何してんの』
『腕走ってる!』
『それアリなの!?』
『完全に動き読んでる』
肩まで到達する。
ここまで来れば、狙う場所は一つしかない。
首の後ろ。
頭部と背中を覆う外殻の間に、ほんの僅かな隙間がある。
何度目かの挑戦で、偶然見つけた場所だ。
剣を逆手に持ち替える。
「ここ」
刃を突き立てた。
ズッ、と今までとは明らかに違う感触が手に伝わる。
深い。
アイアンタイタンの身体が大きく震えた。
両手で柄を握り、さらに剣を押し込む。
昔は、ここまで辿り着いても力が足りなかった。
両手で押しても、全体重を掛けても、どうしてもあと少しが届かなかった。
だから最初に倒したときは、一度で仕留めることなどできず、何度も同じ場所を狙い続けた。
でも今は違う。
身体に力を込めた瞬間、全身を巡っていた熱が一気に濃くなった。
何かを意識したわけじゃない。
ただ、もっと力が必要だと思った。
それだけだった。
次の瞬間、剣が一気に沈んだ。
根元まで深く突き刺さる。
アイアンタイタンの赤い目が一度、二度と点滅し、その光が消えた。
巨体がゆっくりと前へ傾き始める。
「うおっ」
巻き込まれる前に剣を引き抜き、肩から飛び降りる。
直後。
ズゥゥン!
地響きとともにアイアンタイタンが倒れ、広間全体が大きく揺れた。
舞い上がった砂埃が少しずつ晴れていく。
アイアンタイタンはもう動かなかった。
「……倒した」
久しぶりに戦ったけど、思っていたより早く終わった。
小さく息を吐いてからスマホを見ると、さっきまで途切れることなく流れていたコメントが、なぜか一瞬だけ止まっている。
『…………』
『え?』
『倒した?』
『マジで?』
『S級だぞ!?』
『アイアンタイタン単独撃破!?』
『しかも何分だよ今の』
『5分も経ってないだろ』
『いやいやいやいや』
『F級だよな???』
『昨日登録したばっかだぞ』
『意味分からん』
『協会見てる!?』
『黒龍呼んでこい!!!』
『これ生配信だよな?』
『普通に歴史的な映像じゃね?』
一気に流れ始めたコメントは、戦う前とは比べ物にならないほど速かった。
一つ読んでいる間にも、次々と新しいコメントが現れては画面の上へ消えていく。
「そんなに凄いんですか?」
『お前が倒したんだろ!!』
『なんで本人が一番冷静なんだよ』
『S級指定種だぞ!』
『普通は単独で戦う相手じゃない』
『しかもほぼ無傷じゃん』
『F級とは』
『ランク制度泣いてるぞ』
強い魔物だとは思っていた。
ただ、俺にとっては昔から二十階にいる「硬いやつ」という印象の方が強い。
「昔はもっと苦戦したんですよ」
『そういう問題じゃない』
『むしろ高校生で倒してた方もヤバい』
『ていうか剣大丈夫?』
『あれだけ硬いの何回も斬ってたぞ』
『途中すごい音してたよな』
『刃こぼれしてない?』
そのコメントを見て、手にした剣へ目を落とす。
「ああ、これですか?」
念のため刃を確認する。
あれだけ硬い外殻を何度も斬りつけたというのに、刃には傷一つ付いていない。
昔から使っているので俺にとっては見慣れたことだが、こういう相手と戦った後だけは、この剣の頑丈さをありがたく感じる。
「大丈夫ですよ。傷もないです」
『マジかよ』
『やっぱりその剣頑丈すぎる』
『そういやダンジョンで拾ったやつだったな』
『持ち主も剣もおかしい』
『どっちも耐久値どうなってんだ』
「便利ですよ、これ」
『便利で片付けるな』
『前も聞いたぞそれ』
思わず笑って、剣を鞘へ戻した。
コメント欄の勢いはまだ収まる気配がない。
『でも本当にS級倒したんだよな……』
『未だに信じられん』
『戦い方が完全に経験者だった』
『弱点全部知ってたじゃん』
『何回戦ったんだよ』
何回戦っただろう。
正確には覚えていない。
「二十回くらい?」
『多すぎ』
『一年掛かったってそういう意味か』
『毎回生きて帰ってきたのがすげえ』
『高校生だよな?』
二十回で済んでいただろうか。
もっと来た気もする。
最初は攻撃がほとんど通らなかったし、まともに戦うことすらできなかった。
それでも何度か挑むうちに関節が弱いと分かり、さらに別の弱点も見つけた。一回の挑戦で少しずつ何かを持ち帰って、それを次の戦いで試す。
そうやって一年近く掛けて、ようやく倒した。
「最初に倒したときは、一時間以上戦ってたと思います」
『は?』
『一時間これと?』
『高校生が?』
『そりゃ戦い方覚えるわ』
『よく途中で諦めなかったな』
正確な時間は覚えていない。
ただ、朝からダンジョンへ入ったのに、家へ帰った頃にはすっかり暗くなっていた。
そして母さんに滅茶苦茶怒られた。
そのことだけは、よく覚えている。
「これを倒したら、二十一階に行けるんですよ」
広間の奥へ視線を向ける。
アイアンタイタンが立っていた場所のさらに向こう側に、巨大な岩の扉がある。
今までは固く閉ざされていた扉だ。
やがて広間に低い音が響き、扉がゆっくりと左右へ開いていく。
『扉開いた』
『完全にボスじゃん』
『門番確定』
『21階行く?』
『行こうぜ!』
時計を見る。
まだ昼を少し過ぎたところ。
今日の予定は二十階までだった。
ただ、帰りの時間を考えてもまだ余裕はある。
二十一階を少し見せるくらいなら問題ないだろう。
「二十一階、ちょっとだけ見ます?」
『行け!』
『行こう』
『お願いします』
『ここで終わるな』
『絶対行け』
コメントが凄い勢いで流れていく。
「じゃあ、少しだけ」
倒れたアイアンタイタンの横を通ろうとしたところで、その巨体が淡い光に包まれ始めた。
やがて巨体が消え、残っていたのは大人の拳ほどもある大きな魔石だった。
「お」
拾い上げる。
今まで手に入れたものと比べてもかなり大きい。
『でか』
『それいくらするんだ』
『S級魔石!?』
『絶対持って帰れ』
『協会が欲しがりそう』
「これは持って帰ります」
さすがに価値がありそうだ。
魔石をリュックへ入れ、開いた扉の向こうへ進む。
短い通路の先にあったのは、下へ続く階段だった。
二十一階。
一段ずつ下りていくにつれて、さっきまで感じていた寒さが少しずつ薄れていく。
それと同時に、別の匂いが鼻に届いた。
水の匂い。
いや、もっと特徴的な匂い。
「……そうだった」
懐かしい。
『何?』
『何がある?』
『早く見せて』
階段を下り切る。
その瞬間、中古ドローンが俺の横を抜け、カメラを前方へ向けた。
視界が一気に開ける。
青い水面と、白い砂浜。
巨大な地下空間いっぱいに、海のような湖が広がっている。
向こう岸は霞んで見えない。
遥か上には青白く光る鉱石が無数にあり、その光が水面へ反射していた。
小さな波が白い砂浜へ打ち寄せ、そのたびに微かな水音が響いている。
『…………』
『は?』
『海?』
『地下だよな?』
『どうなってんだこのダンジョン』
『広すぎる』
『向こう岸見えないんだけど』
『さっきまで岩山みたいな場所だったよな?』
俺は階段を下り、砂浜へ足を踏み入れた。
靴の下で白い砂が小さく鳴る。
「二十一階です」
『おかしいだろ』
『11階は森』
『21階は海』
『じゃあ31階は何なんだよ』
そのコメントを見て、俺は少し考える。
三十一階。
もちろん知っている。
何度も行った場所だ。
「三十一階ですか?」
『知ってるの?』
『教えて』
『何がある?』
答えようとして、少しだけ考え直した。
今ここで全部話してしまうのは、何となく勿体ない気がする。
「それは、行ったときのお楽しみで」
『おい!』
『気になる!』
『今から行け』
『38階まで行こう』
『予定変えろ』
「今日は行きません」
そこは譲らない。
俺は慎重派だ。
予定も準備もしていないのに、視聴者に言われたからという理由だけで奥まで行くつもりはない。
それに、今までは俺一人の都合だけでよかったが、今日は協会にも二十階まで行くと伝えてある。
その約束を無視するのも違う気がする。
俺はしばらく水面を眺めた。
二十一階より先も、俺にとってはよく知っている場所だ。
何度も歩き、何度も魔物と戦い、ときには大怪我をしながら、それでも少しずつ先へ進んできた。
そうして辿り着いたのが三十八階。
そして、その先だけは俺も知らない。
「……三十一階か」
久しぶりに行ってみるのも悪くない。
もちろん今日ではなく、次か、その次。
焦る必要はない。
俺は七年間、そうやって少しずつこのダンジョンを進んできたのだから。
「じゃあ、今日は帰ります」
『えええええ』
『ここで!?』
『海もっと見せて!』
『せめて探索して』
『頼む!』
「二十階までって言ったんで」
『真面目か』
『そこで律儀なの何なんだよ』
『38階まで行ってるくせに慎重すぎる』
それは褒め言葉として受け取っておこう。
俺は砂浜に背を向け、二十階へ戻る階段へ向かう。
中古ドローンも旋回し、いつものように俺の後ろをついてきた。
次にどこまで行くかは、まだ決めていない。
ただ、二十階のアイアンタイタンと久しぶりに戦ったことで、昔とは違う自分の動きを少しだけ実感できた。
身体強化のことも、まだよく分かっていない。
確かめたいことは増えている。
そして、その先には三十八階。
四つの目を持つ黒い狼がいる。
あいつのところへ戻る日は、俺が思っていたより近いのかもしれない。




