第11話 第一次調査
相川湊が探索者協会で検査を受けてから二日後。
午前八時を少し過ぎた頃。
普段ならほとんど人が訪れることのない山道を、七人の男女が歩いていた。
先頭を歩くのは山岸。そのすぐ後ろには水瀬と、探索者協会の調査課に所属する職員が続いている。
さらにその後ろを歩いているのが、今回の調査に同行する三人の探索者だった。
全員がA級。
国内に数千人いる探索者の中でも、上位に位置する実力者たちだ。
最後尾には、大型のリュックを背負った測定員がいる。
今回の目的は、裏山に存在する未登録ダンジョンの第一次調査。
魔力濃度、内部構造、出現する魔物、採取可能な素材。
可能な範囲でそれらを確認し、今後の本格的な調査に必要な情報を持ち帰る。
ただし、調査範囲は一階のみ。
二階へ続く階段を発見しても、その先へ進む予定はない。
慎重すぎるようにも思えるが、前回の予備調査では、ダンジョンの入口へ到達する前に魔力濃度が五百を超え、入口付近では八百を記録した。
国内のS級ダンジョンでさえ、入口付近なら三百から四百程度。
その倍近い。
しかも、配信映像によれば一階からB級魔物のフレイムリザードが出現する。
そのため協会は、初回からA級探索者を三人投入することを決めた。
「ここからです」
山岸が足を止めた。
その先にあるのは、木々に囲まれた細い獣道。
見た目だけなら、どこにでもある山の風景にしか見えない。
だが、測定員が手にしている機械には、すでに異常な数値が表示されていた。
「現在、四百七十二です」
報告を聞いた三人の探索者のうち、一人が測定器へ目を向ける。
三十代半ばの男。
名前は真壁宗一。
探索者歴は十六年。A級へ昇格してからも十年近く、高難度ダンジョンの攻略や救助任務に参加してきた。
今回同行する三人の中では最も経験が長く、現場のリーダーを任されている。
「まだ入口は見えてないんですよね?」
「ああ」
山岸が答える。
「前回もこの辺りから急激に上がり始めた」
「資料で見るのと、実際にこの場で数字を見るのとじゃ印象が違いますね」
真壁が腰に下げた剣の位置を確認する。
その隣を歩く女性が測定器を覗き込んだ。
「御神岳でも入口は三百ちょっとだったわよね?」
「三百二十前後だったはずだ」
答えたのは、もう一人のA級探索者。
四十代の大柄な男、長谷川だった。
国内に存在するS級ダンジョン、御神岳ダンジョン。
長谷川は過去に二度、その攻略隊へ参加した経験がある。
「内部なら話は変わるが、入口へ向かって歩いている段階でこの数字は俺も初めてだ」
「私も」
女性――篠原美月が答える。
彼女もA級探索者だ。
三人とも協会から事前に資料を渡されている。
相川湊が行った配信も確認済みだ。
一階にフレイムリザード。
二階には通常種より明らかに大型のオーク型魔物。
三階にはブラックハウンド。
さらに湊本人の発言から、七年前からこのダンジョンへ通い続け、現在は三十八階まで到達していることも分かっている。
そして、その三十八階には、湊自身が一度敗北した巨大な四つ目の黒狼がいる。
映像だけを見たときは、三人とも半信半疑だった。
だが実際にここまで来てみれば、少なくともダンジョンそのものが普通ではないことだけは嫌でも分かる。
「五百超えました」
測定員の声が聞こえた。
真壁が小さく息を吐く。
「まだ歩きます?」
「あと五分ほどだ」
山岸が答える。
その言葉通り、さらに山道を進んだ。
五百三十。
五百八十。
六百四十。
入口へ近づくにつれ、数字はゆっくりと上昇していく。
やがて木々の間から岩肌が見えた。
その根元。
人が二人並んでも通れそうな洞窟が、ぽっかりと口を開けている。
「ここです」
山岸が立ち止まった。
測定員が数値を確認する。
「八百十二」
全員の視線が洞窟へ向く。
あまりにも普通だった。
巨大な門があるわけでもない。
魔力が光となって溢れているわけでもない。
山の中に偶然できた洞窟。
そう言われれば、誰も疑わないような外見だった。
「これを中学生が見つけたのよね?」
篠原が尋ねる。
「本人によれば、裏山で遊んでいる途中に偶然見つけたそうです」
水瀬が答えた。
「それで入った?」
「はい」
「一人で?」
「一人で」
篠原はしばらく洞窟を眺める。
「……好奇心って怖いわね」
「本人は秘密基地を見つけたくらいの感覚だったようです」
「それで七年か」
長谷川が低く呟いた。
十四歳前後の少年が偶然この場所を見つけた。
そして誰にも知らせることなく通い続け、いつの間にか三十八階へ到達した。
事実だけを並べれば並べるほど、現実味がなくなっていく。
「準備するぞ」
真壁の一言で、三人の表情が変わった。
武器を確認する。
測定機器を起動する。
通信端末にも問題はない。
山岸が全員を見回した。
「予定通り、今回の調査範囲は一階のみ。二階への階段を確認しても下りない。攻略ではなく情報収集が目的だ」
全員が頷く。
「体調に異常を感じた場合はすぐに申告してくれ。調査続行より全員の帰還を優先する」
「了解」
真壁を先頭に。
七人は洞窟へ足を踏み入れた。
***
入口から百メートルほど進んだところで、測定員が声を上げた。
「九百を超えました。現在九百七です」
洞窟内は薄暗い。
壁や天井に青白く光る石が点在しているため完全な暗闇ではないが、足元を確認するため全員がライトを使用している。
真壁が周囲を見渡す。
「体調は?」
「問題ありません」
測定員が答える。
長谷川と篠原も異常はない。
職員たちは高濃度魔力環境を想定した防護装備を身につけている。
A級探索者の三人も、多少の魔力濃度で活動に支障をきたすような経験の浅い探索者ではない。
それでも。
ここがまだ一階であることを考えれば、九百という数字は十分すぎるほど異常だった。
「相川さんは、この辺りも防護装備なしですよね?」
篠原が歩きながら尋ねる。
「はい。少なくとも本人から専用の防護装備を使っていたという話は聞いていません」
水瀬が答える。
「七年前から?」
「そうなります」
「そりゃ……」
篠原は一度言葉を止めた。
「あの検査結果になるのも、何か関係があるのかもしれないわね」
湊の検査結果について、三人にも必要な範囲で情報は共有されている。
一般的な探索者とは比較にならないほど大きな魔力容量。
高い身体能力。
そして、実戦映像で確認できる身体強化。
それらが七年間この環境へ適応し続けた結果なのではないか。
協会内部では、すでにそんな仮説も出始めている。
「まだ仮説です」
水瀬が答える。
「分かってる。でも、この数字を見ると疑いたくもなるわよ」
その後も一行は慎重に奥へ進んだ。
壁面。
地面。
鉱石。
植物。
温度。
湿度。
魔力濃度。
調べられるものは可能な限り記録し、一部はサンプルとして回収する。
電子機器類にも異常はない。
通信も正常。
記録用カメラも問題なく動いている。
ただ一つ。
測定器が示す魔力濃度だけが、ここが普通の洞窟ではないことを示し続けていた。
「九百六十三」
測定員が数字を読み上げる。
少し進む。
「九百八十一」
上昇はしている。
だが、急激ではない。
真壁が数値を聞きながら言った。
「場所によって濃淡があるな」
「はい。先ほどの場所では九百四十まで下がっています。奥へ進めば必ず上がるという単純な構造ではなさそうです」
測定員が答える。
「深さだけで判断しない方がよさそうだな」
長谷川が周囲を見る。
「記録しておきます」
山岸が答えた。
その直後だった。
真壁が右手を上げる。
全員が足を止めた。
「いる」
空気が変わる。
真壁が腰の剣をゆっくり抜く。
長谷川が大盾を構え、篠原も短槍を手にした。
通路の奥。
岩陰から低い唸り声が響く。
「グルルルル……」
やがて。
大きな影が姿を現した。
四足歩行。
赤黒い鱗。
二メートルを超える体長。
口の隙間から、僅かに炎が漏れている。
「フレイムリザード」
篠原が呟いた。
配信で見た魔物。
危険度B級。
映像越しではなく、今、本当に一階を歩いている。
「資料通りだな」
真壁が剣を構える。
「避けられそう?」
「無理そうだな」
フレイムリザードは明確にこちらを見ている。
頭を下げる。
口の奥が赤く光った。
「来るぞ」
長谷川が前へ出た。
巨大な盾を地面へ固定する。
直後。
炎が通路を埋め尽くした。
「防御!」
ゴオオオッ!
炎が盾へぶつかり、左右へ分かれる。
長谷川は一歩も動かない。
「相変わらず熱いな!」
「右から行く!」
篠原が長谷川の盾から飛び出した。
一気に距離を詰める。
フレイムリザードが頭を向ける。
その瞬間には、反対側から真壁が走っていた。
完全に意識が分散する。
篠原の短槍が前脚の関節へ突き刺さった。
「ギャアッ!」
巨体が傾く。
「真壁!」
「分かってる!」
真壁が踏み込む。
剣に魔力が走った。
青白い光が刃を覆う。
狙うのは首。
一閃。
硬い鱗ごと切り裂いた。
フレイムリザードの巨体が地面へ倒れる。
戦闘開始から二十秒ほど。
それで終わった。
「周囲確認」
真壁の言葉で篠原が奥を見る。
長谷川は後方。
新たな魔物はいない。
「クリア」
「こっちも問題ない」
やがてフレイムリザードの身体が淡い光に包まれ、消えていった。
その場には赤い魔石が残る。
水瀬は一連の戦闘を見ていた。
速い。
それ以上に、無駄がない。
長谷川が攻撃を受け止める。
篠原が相手の意識と体勢を崩す。
真壁が仕留める。
危険な賭けをする必要などない。
これがA級探索者三人の戦い方だった。
「流石ですね」
水瀬が言う。
「B級一体にA級三人だからな。これくらいは当然だ」
真壁は剣に付いた血を振り落とした。
そして、地面に残された魔石を拾う。
「ただ……」
その視線が先ほどまでフレイムリザードがいた場所へ向く。
「これを相川君は一人で倒したんだよな?」
「はい」
「防具なし」
「はい」
「炎を吐く瞬間に真正面から突っ込んで、口の中に剣を刺した」
「配信映像では」
真壁が眉間を押さえた。
「何回見ても、真似したいとは思わんな」
「本人は何度も戦った経験から、あれが一番倒しやすいと思っているようです」
「そこなのよね」
篠原が短槍を戻しながら口を挟む。
「一回成功したからやったんじゃない。何度も戦った結果、あの倒し方になった」
配信の中で湊は言っていた。
昔は倒すのに二十分ほどかかった。
つまり、最初から簡単に倒せたわけではない。
何度も戦い、攻撃の癖を覚え、炎を吐く直前の隙まで身体で覚えた。
「七年、か」
長谷川が呟いた。
「積み重ねってのは恐ろしいな」
真壁が魔石を測定員へ渡す。
「これも持ち帰って調べてもらおう」
専用ケースへ魔石が収められる。
そして調査は再開された。
***
それから一時間半。
一行は一階の調査を続けた。
新たなフレイムリザードとの遭遇はなかった。
代わりに二種類の小型魔物を確認した。
角の生えたウサギ。
配信で湊が最初に倒したホーンラビット。
そして、体長一メートルほどの灰色の鼠型魔物。
どちらもA級探索者三人が警戒するほどの相手ではない。
むしろ調査隊が時間を使ったのは、魔物以外の部分だった。
通常の洞窟では見られない苔。
微弱な魔力を帯びた鉱石。
地上では確認されていない小型の植物。
どれも今の段階では価値すら分からない。
一つずつ写真を撮り、位置を記録し、必要なものだけを採取する。
当然、進行速度は遅くなる。
「千百二十六」
測定員が報告した。
一階の奥へ進むにつれて、平均的な魔力濃度は上昇している。
ただし、途中で千を下回る場所もあった。
一定ではない。
現在地は入口から二キロを少し越えた辺り。
「この先は?」
真壁が尋ねる。
山岸が簡易地図を確認した。
事前に湊から聞き取った内容を元に作ったものだ。
「相川さんの話では、この先を右。その後の分岐を左へ進めば二階へ続く階段があるそうだ」
「どれくらい?」
「本人の感覚では二十分程度」
真壁が腕時計を見る。
「本人の感覚、か」
ここまで来て、その言葉をそのまま受け取っていいのか少し怪しくなっていた。
湊は一階から十階まで、魔物に邪魔されなければ一時間とかからないと言っている。
一方、調査隊は一階を進むだけですでに二時間近く使っている。
もちろん比較そのものが間違っている。
湊は通り慣れた道を移動するだけ。
こちらは立ち止まりながら測定し、写真を撮り、サンプルを採取している。
「ここを毎回通ってるのか」
真壁が呟く。
「本人にとっては、もう勝手知ったる場所なんでしょうね」
水瀬が答えた。
「七年も通えばそうなるのかしら」
篠原が苦笑する。
「普通は七年通う前に誰かに報告すると思うがな」
長谷川の言葉に、真壁が笑った。
そんな会話ができる程度には、三人のA級探索者にはまだ余裕がある。
測定員も防護装備のおかげで問題なく行動できている。
現在の数値は高い。
だが、それだけで撤退する必要はない。
「進みましょう」
真壁が言った。
「予定通り、階段までは確認しておきたい」
山岸も頷く。
「二階への入口を確認したら引き返す」
再び歩き始める。
その後、さらに二種類の魔物と遭遇した。
一体はホーンラビット。
もう一体は巨大なムカデに似た魔物だった。
体長は二メートルほど。
赤黒い外殻に覆われていたが、真壁たちが三人で戦えば大した相手ではなかった。
篠原が動きを止め、長谷川が頭部を盾で押さえ込み、真壁が外殻の隙間へ剣を突き刺す。
三人の連携は崩れない。
湊の戦い方とはまるで違う。
湊は長年の経験によって、相手の癖を知り尽くしている。
対して三人は、初めて見る相手でも役割を分担し、互いの死角を補うことで安全に倒す。
どちらが正しいという話ではない。
積み上げてきたものが違うのだ。
そして。
午前十一時を少し回った頃。
一行はようやく目的の場所へ辿り着いた。
「……これか」
真壁が足を止める。
目の前で洞窟の床が途切れ、その先には石造りの階段が続いている。
地下へ。
二階へと続く階段だ。
青白い光に照らされたその先は暗く、ここからでは奥まで見通すことはできない。
「二階への階段を確認」
山岸が記録する。
その隣で測定員が機器へ目を落とした。
「現在、千百九十八です」
その報告に、何人かが測定器へ視線を向けた。
千二百に届く寸前。
入口付近で記録した八百十二から、さらに四百近く上昇している。
そして何より。
ここはまだ一階だ。
「最大値は?」
山岸が聞く。
「ここです。それ以前の最高値が千百八十一」
「分かった。記録しておいてくれ」
「はい」
測定員が現在地と数値を記録する。
真壁はその横で、二階へ続く階段を見つめていた。
配信映像では、この先に通常のオークより明らかに大型の個体が三体いた。
「行ってみたい?」
篠原が横から聞く。
「探索者にそれ聞くか?」
真壁が苦笑する。
「聞くだけ」
「そりゃ気にはなるさ」
真壁は剣の柄へ軽く触れた。
この先に何がいるのか。
配信映像である程度は知っている。
それでも、自分の足でここまで来れば、実際に確かめてみたいと思うのが探索者というものだった。
だが、今日は攻略に来たわけではない。
一階の調査と、二階へ続く階段の確認。
それが今回の任務だ。
「でも、今日はここまでだ」
「賢明ね」
篠原も階段から視線を外した。
「周辺の記録が終わったら戻るぞ」
山岸の指示で、階段周辺の調査が始まった。
壁。
床。
階段の材質。
温度。
空気の組成。
そして魔力濃度。
写真を撮り、位置と数値を記録していく。
通信機器や撮影機器にも異常はない。
一通りの調査を終えると、真壁たちは装備を確認して来た道へと向き直った。
二階へ続く階段は、すぐそこにある。
それでも誰一人として足を踏み入れようとはしなかった。
未知のダンジョンで、好奇心を理由に予定外の行動を取らない。
それもまた、彼らが長く探索者を続けてこられた理由の一つだった。
十二分後。
第一次調査隊は予定通り、一階の調査だけを終えて地上への帰路についた。
***
午後二時過ぎ。
探索者協会東関東支部。
第一次調査を終えた山岸たちは、そのまま会議室へ入っていた。
大型モニターには、今日取得したデータが表示されている。
山中では四百台。
入口で八百十二。
一階内部では九百から千百程度。
そして、二階へ続く階段の前で記録した最大値が千百九十八。
「機器の異常は?」
会議に参加している職員の一人が尋ねた。
「ありません」
測定員が答える。
「予備機を含めて全て正常です。通信機器、撮影機器にも異常はありませんでした」
「なら、この数値で間違いないと」
「はい」
職員はモニターに表示された数字を見つめた。
入口で八百を超えていることは、事前の調査ですでに分かっていた。
それでも実際に内部へ入り、一階だけで千二百近くまで上昇することが確認された意味は大きい。
そして、今日持ち帰った情報は魔力濃度だけではない。
フレイムリザードの魔石。
未知の鉱石。
植物。
苔。
その他、採取したサンプルはすでに別部署で分析が始まっている。
「探索者側から見て、どうでした?」
視線が真壁へ向く。
真壁は少し考えてから答えた。
「一階を歩くだけなら、俺たちにとって危険な環境ではありません」
その言葉に、何人かが僅かに表情を緩める。
「出現する魔物についても同じです。少なくとも今日確認した範囲なら、俺たち三人で問題なく対処できます」
フレイムリザードも危険度はB級。
A級探索者が三人揃っていれば、正面から戦ったところで大きな危険はない。
他に遭遇した魔物も同様だった。
「ただ――」
真壁はモニターへ視線を向けた。
「今日調べたのは一階だけです」
誰も口を挟まない。
「配信映像では、二階の時点で通常種とは違うオーク型魔物が出ている。三階にはブラックハウンド。その先については、ほとんど分かっていません」
長谷川も頷いた。
「俺も同意見だ。今日の範囲だけを見れば、俺たちが苦戦するような場所じゃない。だが、それを理由にこのダンジョン全体を判断するのは危険だろう」
篠原が腕を組む。
「何しろ三十八階まであることだけは分かってるものね」
「少なくとも、三十八階までは、だ」
真壁が訂正する。
三十八階が最下層だとは誰も言っていない。
そこにいる四つ目の黒狼を、湊がまだ突破できていないだけだ。
その先に何階あるのか。
誰にも分からない。
「一番気になるのは、やっぱりそこだな」
真壁が簡易地図の端に記された数字を見る。
『38』
その横には、湊から聞き取った四つ目の黒狼についての情報が記されている。
「相川君が一度負けた相手か」
「本人の話では、死にかけたそうです」
水瀬が答えた。
真壁はしばらく資料を見つめる。
「今日一階を歩いてみて、余計に分からなくなったな」
一階なら問題なく進めた。
だからこそ、その先を簡単には想像できない。
十階。
二十階。
三十階。
そして三十八階。
七年間一人で潜り続けた青年が、今なお突破できずにいる魔物。
それがどれほどの存在なのか。
「現時点でS級指定はしない」
山岸が口を開いた。
「情報が足りなさすぎる。今日調査できたのは一階だけだ。既存の分類へ無理に当てはめる段階ではない」
異論は出なかった。
「当面は未評価の特殊ダンジョンとして扱い、一般探索者の立ち入りは禁止。採取したサンプルの分析結果を確認した上で、第二次調査の規模を決定する」
そこで山岸は、もう一枚の資料を見る。
そこには相川湊の名前があった。
「今回の結果は相川さんにも伝える」
水瀬が頷く。
「本人が一番詳しい場所ですからね」
「そうだな」
少し間を置いて、真壁が口を開いた。
「ちなみに、相川君は一階を抜けるのにどれくらい掛かるんだ?」
「本人の話では、一階から十階まで、魔物に邪魔されなければ一時間も掛からないそうです」
真壁が黙る。
今日、自分たちは一階を調べるだけで数時間を使った。
もちろん調査をしながら進んでいる以上、単純な比較に意味はない。
それでも。
「……やっぱり、その大学生の方も調査した方がいいんじゃないか?」
真壁が真顔で言った。
水瀬は苦笑するしかなかった。
***
その日の夕方。
俺は大学近くのコンビニで、ペットボトルを冷蔵棚へ並べていた。
「相川」
後ろから健太に呼ばれる。
「ん?」
「今日、協会の調査だったんだろ?」
「ああ」
そういえば今日だった。
協会の人たちが裏山へ入ると聞いていた。
「どうだったって?」
「まだ聞いてない」
「気にならないの?」
「一階だけだろ?」
そう答えると、健太が微妙な顔をした。
「その一階でB級出るんだけどな」
「ああ、フレイムリザード」
最近覚えた。
「お前、普通に名前使うようになったな」
「覚えたからな」
「成長したな」
「馬鹿にしてる?」
「ちょっとだけ」
俺は棚へ最後のペットボトルを入れる。
A級探索者が三人同行すると聞いている。
俺でも今ならフレイムリザードに苦戦することはない。
A級がどのくらい強いのかはまだよく分からないが、少なくともB級より上だということくらいは健太から教えてもらった。
三人もいるなら問題ないだろう。
「それより健太」
「何?」
俺は健太の後ろを指差す。
「店長が見てる」
振り返る。
レジの向こう。
店長と目が合った。
「……仕事するか」
「そうだな」
俺たちは何事もなかったように作業へ戻った。
それから十分ほど経った頃。
制服のポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
休憩に入ってから確認する。
水瀬さんからだった。
『本日の第一次調査が終了しました。全員無事です』
それなら良かった。
その下に続きがある。
『予定通り、一階の調査と二階へ続く階段の確認まで完了しました』
「おお」
思わず小さく声が出る。
最後まで行ったらしい。
さらに読む。
『一階最奥部で、魔力濃度約1200を記録しました』
俺の指が止まった。
千二百。
入口で八百くらいだと言っていたから、奥の方が高いらしい。
ただ。
「……それって高いのか?」
俺には基準が分からない。
前に説明された国内のS級ダンジョンの入口が三百から四百程度だったことは覚えている。
そう考えれば高い気もする。
でも。
七年間ずっと入っていた場所だ。
今さら数字を見せられても、いまいち実感が湧かない。
「何見てんの?」
休憩室へ入ってきた健太が、俺の後ろからスマホを覗こうとする。
「今日の調査結果」
「どうだった?」
「一階の奥で魔力濃度が千二百くらいだって」
健太が止まった。
「……千二百?」
「うん」
「前にS級の入口が三、四百って言ってなかった?」
「言ってた」
「じゃあヤバいじゃん」
「やっぱ高いのか」
「なんで俺より反応薄いんだよ」
そう言われても困る。
俺にとっては数字を知らなかっただけで、昨日までと何も変わっていない。
中学生の頃から何百回も歩いた道だ。
「でも一階だぞ?」
俺が言うと、健太はしばらく黙った。
そして。
「それが一番ヤバいんだよ」
真顔で言われた。
俺はもう一度スマートフォンを見る。
一階で千二百。
それなら。
もっと下はどうなっているんだろう。
単純に階層が深くなるほど魔力濃度が高くなるとは限らない。
今日の調査でも、場所によって数字にばらつきがあったらしい。
それでも、少し気になった。
十階。
二十階。
三十階。
そして。
三十八階。
あの四つ目の狼がいる場所では、どんな数字が出るんだろう。
今まで魔力濃度なんて気にしたこともなかった。
目の前の魔物が強いか弱いか。
自分が進めるか、まだ無理なのか。
俺にとって重要だったのは、それくらいだ。
だけど協会の人たちと関わるようになって、自分が当たり前だと思っていたものに一つずつ数字や名前が付いていく。
フレイムリザードもそうだった。
魔力濃度もそうだ。
知らなくても困らなかった。
それでも、知れば少し面白い。
「……次行ったとき、測れないかな」
何気なく呟いた。
「やめとけ」
健太が即答した。
「まだ何も言ってないだろ」
「お前がそういう顔してるとき、大体ろくなこと考えてない」
失礼な。
別に危ないことをするつもりはない。
ただ少し。
自分が七年間遊んできた場所のことを、ちゃんと知ってみたいと思っただけだ。
スマートフォンの画面を消し、テーブルの上へ置く。
その瞬間。
頭に浮かんだのは、三十八階で待つ巨大な黒い狼だった。
初めて戦ったとき。
俺は何もできなかった。
今までの魔物とは明らかに違った。
速さも。
力も。
俺を見る四つの目から感じた圧力も。
だから逃げた。
次に戦うなら、勝てるだけの準備をしてからだと決めた。
あれから俺なりに鍛えてきた。
そして最近は、自分の身体について知らなかったことまで少しずつ分かり始めている。
だったら。
次にあいつの前へ立ったとき。
前とは少しくらい違う戦いができるかもしれない。
俺は椅子の背もたれへ身体を預けた。
三十八階へ行くのは、まだ少し先。
そう思っていたはずなのに。
一度思い出してしまうと、久しぶりにあの四つの目を見たくなっている自分がいた。




