銀翼の血脈
静まり返った夜の丘の上で、月光を浴びて銀色に輝く巨大な竜は、ゆっくりと首をもたげた。その透き通るような気高い瞳が、じっとレイの姿を捉えて凝視する。
圧倒的な存在感と、底知れない威圧感。しかし、不思議と敵意や殺気は感じられなかった。それどころか、目の前の竜は、レイの身体の奥底に眠る微かな「何か」を感じ取っているかのように、興味深そうに鼻先をかすかにヒクつかせている。
息を呑んで立ち尽くすレイの隣で、アリスは愛おしそうに竜の巨体にそっと手を触れながら、誇らしげに微笑んだ。
「ね? すごいでしょ。この子はね、『バハムート』の末裔なんだよ」
「――バハムート……っ!?」
レイはその名を聞いて、思わず目を見開いた。
この世界において『バハムート』とは、かつて神話の時代より、選ばれし「竜騎士」たちの相棒として共に戦場を駆け抜け、永きにわたって語り継がれてきた伝説の竜の種族だった。
しかし、大昔に起きた世界を揺るがす大厄災――その「とある出来事」によって、バハムートの個体数は激減の一途を辿った。現在の時代においては、かつての圧倒的な神々しい巨体や無限の魔力からはかなり退化してしまっている。それでもなお、その血に宿る高貴な気高さや誇り高い気性は、現代の竜たちとは一線を画すほどに色濃く受け継がれていた。
「バハムートの末裔が、どうしてここに……?」
レイが驚愕のあまり絶句していると、アリスはクスッと笑って銀色の竜の首筋を優しく撫でた。
「ふふ、驚くのも無理はないさ。この子はね、私と一緒に戦う相棒なの。……でもね、レイくん」
アリスはふっと表情を和らげ、真っ直ぐにレイの瞳を見つめた。
「この子がこれほど興味津々に君を見つめているなんて、めったにないことなんだよ。……もしかしたらこの子は、君の身体の中に眠る『龍の血』の匂いを感じ取っているのかもしれないね」
アリスのその言葉に、レイは自分の胸元にそっと手を当てた。
父の形見であるアスカリオン、そして自分の中に目覚めつつある未知の力。伝説の竜の末裔が見据えるその先で、レイの運命の歯車は、また一つ大きく音を立てて回り始めようとしていた。
目の前にたたずむ気高き銀翼の竜に圧倒されながらも、レイは感嘆の息を漏らしてその姿を見上げた。
「すごいね……。伝説のバハムートを使役して戦う、本物の『竜騎士』だったんだな、アリスは」
レイの尊敬の混じった素直な言葉に、アリスは少しだけ照れくさそうに頬を緩め、ふふんと胸を張った。
「へへ! 凄いでしょ!! 私の自慢の相棒なんだから!」
そう言ってアリスが相棒の巨大な頭を優しくポンポンと叩く。すると、威風堂々としていた銀翼の竜は、どこか誇らしげに喉を鳴らした。
ちなみに、とアリスは少しお茶目に付け加える。
「ちなみに、この子の名前は『バッハちゃん』っていうんだ!」
「バッハちゃん……?」
レイは思わず遠い目をしながら、その荘厳な姿とどこか親しみやすい名前のギャップに小さく吹き出しそうになった。しかし、伝説の末裔であるこの竜が、アリスにとってどれほど大切で身近な存在であるかは痛いほど伝わってきた。
そんなレイの様子を見て満足したのか、アリスは急に目を輝かせ、ワクワクとした表情で提案を持ちかけた。
「ねぇ、レイくん! せっかくこうして出会ったんだしさ、今からバッハちゃんの背中に乗って、ちょっと空を飛んでみない?」
「えっ……!? バッハちゃんの背中に乗るって、空を……!?」
突然の提案に、レイは目を見開いて驚愕した。伝説の竜の背中に乗るなど、騎士団の訓練生となった今でも想像すらしていなかった体験だ。しかし、恐怖よりもそれを大きく上回る好奇心と胸の高鳴りが、レイの心を激しく揺さぶる。
「そんな貴重な体験……、させてくれるのか?」
「もちろん! ほら、遠慮しないでこっちに来てよ!」
アリスに促されるまま、レイは緊張で少しこわばった足取りでバッハちゃんの脇へと歩み寄った。アリスが身軽にひょいと竜の背中へ飛び乗ると、続いてレイもアリスに手を引かれ、慎重にその大きな背中へとよじ登った。
銀色の鱗はひんやりと冷たく、しかし生命力に満ちた確かな温もりがあった。アリスが「しっかり掴まっててね!」と笑うと同時に、バッハちゃんが静かに巨大な翼を広げた。
次の瞬間――。
風を切り裂く轟音とともに、バッハちゃんは力強く地面を蹴り上げ、夜空へと舞い上がった。
「うわぁぁぁ……っ!」
身体が宙に浮き上がる圧倒的な浮遊感と、全身を包み込む夜風の冷たさ。レイは思わずアリスの背中や竜の硬いタテガミを必死に掴んだ。だが、ほんの数秒でその恐怖は驚嘆へと変わっていった。
目を開けたレイの視界に飛び込んできたのは、言葉を失うほどに美しい世界だった。
眼下に広がる聖都オクヘイムの街並みは、まるで無数の宝石を散りばめたようにチカチカと暖かな光を放っている。そして、聖都のすぐ近くに広がる大海原へと目を向ければ、夜空を映した黒い水面の上を月光が美しく反射し、まるで銀の糸を引くように波がキラキラと輝いていた。
吹き抜ける風の音だけが聞こえる、静寂と美しさに満ちた天空の世界。
レイは息をのむのも忘れ、ただただ目の前の光景に魅入られていた。
しばらく風に身を任せたあと、隣で心地よさそうに目を細めているアリスの横顔に気づき、レイはふと気になっていた疑問を口にした。
「ねぇ、アリス……。いつも、こうして夜になるとバッハちゃんの背中に乗っているの?」
アリスは夜風に揺れる髪を優しく押さえながら、穏やかに微笑んでうなずいた。
「ううん、毎日ってわけじゃないけどね。でも、心がモヤモヤしたり、ちょっと疲れたりしたときは、こうして空に上がってくるんだ。ここから綺麗な景色を見下ろしていると、日々の嫌なことなんて、ちっぽけなことに思えて全部忘れられるの」
その言葉を聞いたレイは、少しだけ意外そうな顔をしてアリスを見た。
「……君に、『嫌なこと』なんて概念があるんだね。アリスは明るくて、誰の前でもニコニコ笑っているから、そういう悩みとかとは無縁の人間なんだって勝手に思っていたよ」
レイの素直な感想に、アリスはふっと表情を和らげ、少しだけ大人びた苦笑いを浮かべた。
「もう、失礼だなー。これでも一応、女の子はみんな色々あるんだよ。……女の子は繊細なんだからね」
「そうなんだ……ごめん」
照れくさそうに謝るレイを見て、アリスは「冗談だよ!」と無邪気に笑った。その笑顔は、先ほどまでの神秘的な竜騎士の顔とはまた違う、年相応の少女の温かさに満ちていた。
やがて、バッハちゃんはゆっくりと高度を下げ、ふたたび先ほどの静かな城外の丘へと優しく着地した。
地面に足を着けたレイの胸には、先ほどまでの恐怖や不安は綺麗に消え去り、代わりに爽やかな達成感と心地よい疲労感が広がっていた。
「バッハちゃん、ありがとうね! お疲れ様!」
アリスは愛おしそうに竜の巨大な額に自分の額を寄せ、最後にその額へと優しく口付けをした。
その愛情深い仕草に応えるように、バッハちゃんはふぅーっと温かい鼻息を吐き出すと、夜の闇に溶け込むように静かに翼を広げ、再び夜空の彼方へと飛び去っていった。
遠ざかる翼の音が完全に消えるまで、レイとアリスはしばらくの間、並んで夜空を見上げ続けていた。
聖都での新しい生活が始まってからわずか一日。しかし、レイの心の中には、かけがえのない仲間たちとの確かな絆と、明日への新しい一歩を踏み出すための勇気が、しっかりと灯り始めていたのだった。
夜空のフライトから戻り、静けさを取り戻した自分たちの宿舎へと帰ってきたレイとアリス。しかし、そのエントランスの扉を開けた瞬間、2人の足がピタリと止まった。
そこに腕を組み、仁王立ちで立ちはだかっていたのは――我が隊の隊長、トリスタンだった。
「お前ら……。就寝時間は、とっくに過ぎているぞ」
低く静まり返った声が、夜の廊下にピリッとした緊張感を走らせる。
遊び疲れた子供のように固まったレイとアリスを見て、トリスタンは冷たく、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべながら容赦ない言葉を言い放った。
「門限破りの罰として――明日の朝からの訓練、お前たち2人だけ『特別メニュー』に変更してやってもいいんだぞ?」
その「特別メニュー」という悪魔的な響きを聞いた瞬間、アリスの顔から血の気がサーッと引いていった。彼女の身体はまるで凍りついたようにガタガタと震え始める。
「えっ……と……。た、隊長……? それだけは、ほんとに、ほんとに勘弁してください……っ!」
普段の強気な竜騎士の面影はどこへやら、アリスは引きつった声で必死に命乞いをした。
隣で状況がよく分かっていないレイは、「え? 特別メニューって、そんなに凄いの?」と首をかしげながらアリスに尋ねた。
アリスは青ざめた顔で、ガタガタと震えながら小声で恐怖の真実を告げる。
「レイくん……知らないでしょ……。あの特別メニューっていうのはね、容赦ない『休憩無しのトリスタン隊長とのガチンコ撃ち合い』のことなの……!」
それは、この隊の誰もが恐れおののく、文字通りの地獄のメニューだった。
過去にその制裁を受けた隊士たちは、もれなく2日間ほど全身の筋肉がイカれてベッドから一歩も立ち上がることができなくなるという。どんなに修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者たちであっても、トリスタンの容赦ない猛攻の前では例外なく撃沈してきた伝説の鬼メニューだった。
「なっ……! そんなの聞いてないよ!」
レイは青ざめ、慌ててトリスタンの前へと飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいトリスタンさん! それだけは本当に勘弁してくださいって! 俺、まだ入隊したばかりの、一応ピカピカの新人のペーペーなんすよ!?」
レイ必死の弁解も、トリスタンの冷徹(かつ少し楽しそうな)な瞳には一切響かなかった。
トリスタンはふっと鼻で笑い、冷酷に言い放つ。
「新人だからこそ、夜更かしの代償を体に叩き込んでおく必要がある。……明日の朝、覚悟しておけよ」
そう言い残すと、トリスタンはバタンと音を立てて自分の部屋へと去っていった。
取り残された廊下に、2人の絶望的なため息だけが虚しく響き渡る。
星空のデートの余韻は綺麗に吹き飛び、レイとアリスの前には、明日訪れるであろう恐怖の地獄絵図しか見えていなかった。




