特訓開始
昨夜言い渡された恐怖の「特別メニュー」が脳裏から離れず、この日の夜、レイは一睡もすることができなかった。布団の中で何度も身悶えし、明日トリスタンに木刀や剣で文字通りしばき倒される悪夢にうなされるうちに、あっという間に朝を迎えてしまった。
そして、運命の朝食の時間。
食堂の席についたレイの姿は惨憺たるものだった。
「全っ然、眠れなかった……」
目の下には大きなくまができ、寝不足でバキバキに開いた目は真っ赤に血走っている。恐怖と緊張で胃のあたりがキリキリと痛むようだ。
ふらふらと歩いてきたアリスもまた、壁に寄りかかりながら消え入りそうな声でレイに話しかけた。
「おはよ……」
「はは……アリスも、全然眠れなかったんだね」
「お互い様よね……今日ほど朝が来てほしくないと思ったことはないわ……」
目の前に並ぶ朝食は、昨日と同じように湯気を立てていてとても美味しそうだったが、今の2人にとってはこれから処刑台に向かう囚人の最後の晩餐のようなものだった。
「ご飯は……とても美味しそうだね……」
レイがうつろな目で呟いたその時、食堂の扉が勢いよく開き、底抜けに明るい声が響いた。
「おっはよー!」
やってきたのはノイだった。爽やかな笑顔を浮かべながら2人のテーブルに近づいてきたが、あまりのやつれようにピタッと足を止めた。
「あれ? 2人ともどーしたんだその顔。めちゃくちゃ寝不足じゃん!」
「あー……そーだよ……」
魂の抜けたような声でレイとアリスが同時につぶやく。
ノイは状況がよく分かっていない様子で首をかしげたが、自分の豪勢な朝食プレートをつつきながら能天気に笑った。
「ははぁ、さては昨日夜更かししすぎたな? ま、理由が何であれ、今日も一日きつい訓練が待ってるんだから飯はしっかり食えよ!」
その無邪気な励まし(?)を背に受けながら、いよいよ逃れられない「訓練の時間」がやってきてしまった。
朝の冷たい空気が漂う訓練場。
すでに待ち構えていたトリスタンは、愛用の剣を手に持ちながら、冷徹かつ不敵な笑みを浮かべて2人を見据えていた。
「おい、昨日はぐっすり眠れたか?」
白々しい問いかけに、レイとアリスは青ざめた顔でブルブルと首を横に振るしかなかった。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。……準備運動は終わりだ。そこにある訓練用の剣を構えろ、容赦なく始めるぞ!」
トリスタンのその冷酷な合図とともに、地獄の特訓の幕が切って落とされたのだった。
「おらあっ!」
まずはレイが意を決して踏み込み、トリスタンに向けて真っ直ぐに木刀を振り下ろした。しかし、トリスタンはまるで木の葉をかわすかのように、わずかな身のこなしでその一撃を軽々と躱してしまう。
すかさず、その隙をついてアリスが鋭い踏み込みから連続攻撃を仕掛けたが、トリスタンは片手でひょいとそれを完璧に受け止めた。
「甘いな。……だが、ルールを教えておこう」
トリスタンは不敵な笑みを浮かべ、二人の剣を涼しい顔で押し返しつつ言い放った。
「どんな手を使ってでも、俺に一撃でも浴びせることができたら、この特別メニューは即座に終了にしてやる。さぁ、お前らの本気を見せてみろ!」
その挑発的な掛け声を聞いた瞬間、レイとアリスの瞳の色が変わった。恐怖や焦りは消え失せ、獲物を狙う『狩人の眼』が宿る。
「……っ!」
アリスは一歩引き、素早く手際の良い動作で全身へと自身の魔力を送り込み、肉体を限界まで強化した。
次の瞬間、先ほどまでの動きとは打って変わり、風を切り裂くようなキレのある鋭い攻撃の筋へと劇的に変化する。
(すごい……! アリスの動きが全然違う!)
圧倒されるレイも、負けじと自分の体内に眠る『龍の血』と魔力を巡らせようと試みた。しかし、焦りからか上手くコントロールできず、気が散っていく。
(くそっ……! トリスタンさんはともかく、アリスはいったいどうやってあんな風に魔力を綺麗に制御しているんだ……っ!)
頭の中で必死に思考が巡る中、トリスタンはアリスの猛攻を冷静にいなし続けていた。やがて、強烈な鍔迫り合いの末、トリスタンが全身から放った気迫でアリスの体勢を崩し、一気に弾き飛ばした。
「くぅ……っ!」
地面に転がったアリスの隙をついて、レイは思い切って彼女の側に駆け寄り、切羽詰まった様子で声を上げた。
「なぁ、アリス! どうやったら体に上手く魔力を巡らせることができるんだ? コツを教えてくれ!」
アリスは荒い息を整えながら、パッとレイを見上げて答えた。
「どうやるって……うーん、難しく考えないで! 自分の血液が体中をくまなく巡っているでしょ? あれと同じよ。魔力を血液のように、自分の意志で全身へスムーズに循環させるイメージに近いの!」
(血液と同じように循環させるイメージ……!)
「なるほどね……よし、やってみるか!」
レイは深く呼吸をし、頭の中でクリアにそのイメージを描きながら、体内の魔力をぐっと一箇所に集めてから一気に流し込んだ。
ビリッ――!
その瞬間、レイの全身に激しい稲妻のような電流が走った。
それは、かつて初めてアスカリオンを握り、自分の内なる力に目覚めたときと同じ感覚だった。それを今、自分の明確な意識と意志の力で引き起こすことに成功したのだ。
「こーゆう感じか……っ!!」
身体の底からフツフツと湧き上がる圧倒的な熱量と軽快なスピード感。レイは自分の変化に確信を持つと、自信に満ちた笑みを浮かべてトリスタンを指差した。
「覚悟してくださいよ、隊長! 今の俺の速度には、もう追いつけませんよ!」
気勢を上げ、稲妻のような爆発的な踏み込みで一気にトリスタンとの距離を詰めた――はずだった。
――場面は変わり、数十分後。
そこには、見事に返り討ちに遭い、全身ボコボコに腫れ上がった惨めな姿で地面に大の字で転がっているレイの姿があった。
「……あの人……強すぎだろ……」
腫れ上がった顔のまま、レイは青空を見上げながら、遠い目をして力なく呟くのだった。
レイが大の字で地面に転がり、遠い目をして星屑を数えている傍らで、アリスはまだ諦めずにトリスタンへと猛攻を仕掛け続けていた。
全身の魔力強化を極限まで高め、鋭い連撃を繰り出すアリス。その動きは確実に研ぎ澄まされていき、少しずつではあるが、あの無敗のトリスタンを確実に追い詰めているという手応えが彼女の胸にあった。
――だが。
ドスンッ!!
重く乾いた衝撃音が訓練場に響き渡った。
アリスが放った踏み込みのわずかな隙を見逃さず、トリスタンの鋭い蹴りがアリスの腹部へと直撃した。
「ぐっ……!」
圧倒的な衝撃に息を詰まらせ、アリスはその場に崩れ落ちる。トリスタンは涼しい顔のまま、愛用の剣を収めると、うずくまるアリスに視線を落として言った。
「今の最後の攻撃、直撃する直前に体表の魔力で防御壁を作ったのはよくやった。だがな……実戦の戦場においては、あんな隙を晒した時点で確実に死んでいるぞ」
その言葉に、アリスは悔しそうに歯噛みしながらも、返す言葉もなく地面をぐっと叩いた。
トリスタンはそれ以上追撃することなく、満足したようにフッと鼻を鳴らした。
「……まぁ、いい。今日のところはこの辺にしといてやる。明日からは、お前たちも通常通りの通常のメニューに参加しろ」
それだけ言い残すと、トリスタンは振り返り、夕日に向かって歩き去っていった。
地獄のような特別メニューがようやく終わった安堵感と、圧倒的な実力差を見せつけられた絶望感の入り交じった空気の中、訓練場には荒い息遣いだけが残された。
すっかり日が沈み、夜の帳が降りた聖都オクヘイムの宿舎・食堂。
「はっははははっ! おいレイ、なんだそのパンパンに腫れ上がった顔は! はっははは!」
大きな席に座るなり、ノイはレイの顔を見るや否や腹を抱えて大爆笑した。
レイは腫れ上がった頬をアイスバッグで冷やしながら、じとっとした目でノイを睨みつける。
「笑ってんじゃないよ……。いてて……。ほんと、あの人強すぎだろ……人間なのあれ」
「まあまあ、そう怒るなって!」
ノイはからからと笑いながらも、ふと表情を少し引き締め、感心したように腕を組んだ。
「でもさ……隊長は、自分では一切『魔力』を持たないって言うだろ? それであの化け物じみた強さは、たしかに他の連中とは次元が違うよな」
「うん……あんな化け物みたいな動き、魔力がないなんて信じられないよ」
レイがぼそっと呟くと、ノイはまっすぐで力強い瞳をレイに向け、少し熱を帯びた声で言った。
「だけどさ、逆に考えるんだよ。魔力がなくたって、血の滲むような努力次第で、あそこまで圧倒的な強さにたどり着けるんだぜ? 人間の可能性ってすげぇよな」
ノイはそこで言葉を区切り、笑みを消して真剣なトーンで続けた。
「だからこそ、俺たちはあの人に背中を預けられるし、この隊のみんなも隊長のことを心から信頼してるんだ。……あんな背中を見せられたら、惚れちまうよな」
そのノイのまっすぐな瞳と言葉を聞いたレイは、痛む頬を押さえていた手をそっと下ろし、ふっと小さく笑った。
「……たしかにね。あそこまでの領域にたどり着いた男の背中は、ずるいくらいにかっこいいよな」
「だろ? ま、色々あったけどさ!」
ノイは自分のグラスを掲げ、パーンと景気よく音を鳴らした。
「今日で地獄の特訓も一区切りだ。明日からも、気合入れて頑張ろうぜ、レイ!」
「ああ、そうだな!」
仲間たちの温かさと、自分たちが目指すべき途方もなく高い「背中」を胸に刻みながら、レイは新しい仲間と共に、明日へ向けてしっかりと食事を口に運ぶのだった。




