第74話 月下の微笑み
あれから一年の歳月が流れた。
山間の村に吹く風はすっかり初夏の陽気を帯び、ケルトとマーサの営む家には、毎日賑やかで温かい笑い声が絶え間なく響き渡っていた。
あの日の夜に誕生したヘリオスとミーナの息子――レイは、すくすくと健やかに成長し、ちょうど一歳の誕生日を迎えていた。
「あっ、ちょ……待って、レイ! そっちは危ないよ!」
リビングの床を、レイが両手をパタパタと動かしながら、よちよちとおぼつかない足取りで歩いている。
バランスを崩して尻餅をつきそうになると、すぐ傍で見守っていたミーナが慌てて駆け寄り、柔らかく体を支え上げた。
「ん……まっ、ま……!」
レイはふにゃりと可愛らしい笑顔を浮かべ、拙い発音で何かを訴えるように母親を見上げる。その小さくてたどたどしい言葉を聞いた瞬間、ミーナはすっかり骨抜きにされてしまったかのように、その場にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。
「もう……! なんて可愛いの……! ママって呼んでくれた今の聞いた……!?」
「いや、今の声は『ママ』じゃなくて『マンマ(ご飯)』の気もするけど……でも、めちゃくちゃ可愛いな……!」
ヘリオスもまた、レイの愛らしい仕草にすっかり心を撃ち抜かれ、メロメロの笑顔を浮かべながらしゃがみ込む。父親としての頼もしさと、我が子を溺愛するあまりのデロデロに緩みきった表情が隠しきれない。
さらに、その様子を近くで見ていたマニーは、もう我慢できないといった様子でレイに飛びついた。
「レイ、お姉ちゃんだよー! こっち向いて、よしよし!」
「わあ、すっかり走り回るようになっちまって……本当にお前は、わしらの自慢の孫だよ」
ケルトとマーサの老夫婦も、縁側に腰掛けながら目を細め、目を細めて孫の成長を細やかに見守っている。
あの日、写真機に収めた夫婦の誓い、そして過酷な旅の果てに見つけたこの穏やかな日常。そのすべてが、目の前をよちよちと歩く小さなレイという存在によって、何倍にも輝いて感じられた。
家族全員が完全にデロデロのメロメロになりながら、レイの一挙手一投足に一喜一憂する。
笑顔と愛しさに満ちあふれたこの村での毎日は、かけがえのない幸福の形そのものだった。
心地よい初夏の風が吹き抜ける午前中、ケルトとマーサの家の広大な畑では、ヘリオスとケルトが額に汗を浮かべながら農作業に励んでいた。
「お父さん、こっちの畝の土寄せ、もうすぐ終わるよ」
「おお、頼むぞヘリオス。今年の作物は一段と育ちが良いな」
ヘリオスが力強く鍬を振るい、ケルトが優しく相槌を打つ。土の匂いと瑞々しい緑に囲まれた畑は、いつの時代も変わらない穏やかな労働の喜びにあふれていた。
そんな賑やかな作業の音が響く傍らで、日陰に置かれた木製のベンチに腰掛け、のんびりと畑仕事を見守っている人物がいた。
――ミーナだ。
彼女の腕の中には、すっかりお昼寝から起きたばかりのレイがすっぽりと抱きしめられている。
1歳になり好奇心が旺盛になったレイは、パパやじいちゃんが動かす鍬や、あちこちに飛ぶ蝶々を興味津々な瞳でじっと追いかけていた。
「あっ、ぱー……!」
レイが小さく手を伸ばし、畑で汗を流すヘリオスを指さして可愛らしい声をあげる。
その声に気づいたヘリオスは、作業の手を止め、パッと顔を輝かせて振り返った。鍬を杖がわりに軽く支えながら、汗だくのまま満面の笑みでレイに手を振り返す。
「おっ、レイ。応援してくれてるのか? もうちょっとで仕事終わるから、終わったら一緒に遊ぼうな!」
ヘリオスの楽しそうな声を聞いたレイは、嬉しそうに「うー!」と声を上げ、ミーナの腕の中でバタバタと足を元気に動かした。
その愛らしい姿に、ミーナは思わずフッと柔らかく微笑み、レイの柔らかい頬に自分の頬を優しくすり寄せた。
「ふふ、パパが頑張ってくれているの、レイにもちゃんと分かっているみたいね」
少し離れた場所で農作業を手伝っているマーサやマニーも、その微笑ましい光景に気づいて思わず手を止め、温かい目を細める。
かつては過酷な戦いや宿命に翻弄され、離れ離れになることも多かった彼らだったが、今はこの穏やかな大地の真ん中で、何気ない日常の幸せをたっぷりと噛み締めていた。
汗を流すヘリオスの姿と、それを優しく見守るミーナの腕の中のレイ。
家族の温もりがいっぱいに詰まった畑の景色は、どこまでも優しく、いつまでも続いていく未来の輝きに満ちあふれていた。夜のとばりが村をすっぽりと包み込み、虫の音だけが静かに響く真夜中。
ケルトとマーサの家も深い静寂に沈み、一日の農作業で心地よい疲労感に包まれた家族全員が、それぞれのベッドですうすうと穏やかな寝息を立てて眠りについていた。
ミーナの腕の中で安心しきったように眠るレイの寝顔を確認し、ヘリオスもまた自室のベッドに横たわっていた。
――だが、突如として、ヘリオスの全身の産毛が逆立つような強い悪寒が走った。
(……なんだ……この気配は……?)
数々の死闘を潜り抜けてきた戦士としての勘が、全身に危険信号を鳴り響かせる。
隣で眠るミーナを起こさないよう、ヘリオスはそっと音を立てずにベッドから抜け出し、部屋の隅に立てかけてあった愛剣――アスカリオンの柄に手をかけた。
ひんやりとした鋼の感触が手に馴染む。魔力を通さずとも伝わってくるその信頼できる重みを感じながら、ヘリオスは月明かりだけが差し込む暗がりの中を、音もなく静かに戸口へと歩み寄った。
ギギィ……と、古い木戸をわずかに押し開き、誰もいない深夜の村道へと足を踏み出す。
夜風は冷たく、どこか不気味なほどの静けさが漂う中――村の中央、見晴らしのいい開けた場所に、ふわりと黒衣を纏った人影が佇んでいた。
月光がその男の顔をかすかに照らし出す。
青色の髪、そして不敵に歪められた端正な顔立ち。かつて大陸を、そして世界を恐怖のどん底に陥れた宿敵
――ロキだった。
「……っ、ロキ……!」
ヘリオスは息を呑み、反射的にアスカリオンを構えた。
穏やかな日常の終わりを告げるかのように、静まり返った夜の闇の中で、二人の視線が鋭く激突したのだった。夜の静寂を切り裂くように、ひんやりとした風が二人の間を吹き抜けた。
愛剣アスカリオンをしっかりと握りしめ、いつでも迎撃できるように身構えるヘリオス。
対するロキは、かつて黒曜の城で見せた狂気的なまでの危険な雰囲気をどこか潜め、夜の闇に溶け込む黒衣のまま、ゆったりとした足取りで一歩二歩とヘリオスに歩み寄ってきた。
そして、まるで旧友と久しぶりに再会したかのような、どこか余裕を含んだ柔らかな笑みをその顔に浮かべる。
「やあ、ヘリオス。そんなに警戒しなくてもいいさ。久しいねぇ」
ロキは月明かりの下で人懐っこいような、それでいて底知れない不気味さを漂わせる笑顔を向けながら、親しげに語りかけてきたのだった。




