第75話 引き裂かれた平穏
月下の静寂が支配する村の中央で、かつての宿敵と対峙するヘリオス。
緊張感に満ちた空気の中、アスカリオンの柄を握る手にぐっと力がこもる。ロキが浮かべた余裕の笑みに対し、ヘリオスは鋭い視線を外さぬまま、ずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「ロキ……お前、生き延びていたのか。あの激闘のあと、どうやってその命を取り留めた?」
ヘリオスの問いかけに、ロキはふっと冷ややかな笑みを深め、どこか遠くを見るような、それでいて残虐な光を宿した瞳で答えた。
「――簡単なことさ。あのとき、お前の渾身の攻撃で俺は城の外へと吹き飛ばされた。……だがね、あの忠実な女、エルミラがさ。我が身のすべてを投げ出し、自身の命と引き換えにして、完全に息絶えていた俺の肉体を再び蘇らせたのさ。まぁ、あいつのおかげで、こうして再びお前の前に立っていられるってわけだ」
エルミラの名前が出た瞬間、ヘリオスの脳裏にかつての記憶がよぎる。しかし、同情や感傷に浸る暇など微塵もない。ロキが再び蘇ったということは、放置すればまた世界が、そしてこの愛しい村が破滅の淵に追いやられるということだ。
「……そうか。ならば、今度こそ完全に、お前の息の根を止める!」
ヘリオスが覚悟を決め、殺気を全身から解き放ったその瞬間――。
張り詰めた緊張の糸を断ち切るように、背後から澄んだ、しかし震える声が響いた。
「――ヘリオス……っ!」
振り返るまでもない。愛する妻・ミーナの声だった。
なぜ起きてきたのかと振り返ろうとしたヘリオスの目に飛び込んできたのは、夜風の中で青ざめた顔をしたミーナの姿、そしてその腕の中にしっかりと抱きしめられている、愛息レイの姿だった。
夜中に外の気配を感じ、目を覚ましたミーナが夫の姿を探してここまで来てしまったのだ。
「……ほう?」
ロキの視線が、ヘリオスからスライドしてミーナ、そしてその腕の中のレイへと向けられた。
一瞬の沈黙のあと、ロキはすべてを察したかのように、邪悪なまでに歪んだ、底意地の悪い笑みを浮かべる。
「なるほど……。お前にとっての守るべき宝物か。……最高だな、実に愉しい」
「っ、ロキ、やめろ……!」
ヘリオスが叫んだときには、すでに手遅れだった。
ロキは狂気を孕んだ笑みを浮かべたまま、自身の腕をまるで凶悪な大蛇の尾のように変形させ、先端を禍々しい鋭い棘へと変化させた。そして、容赦なくミーナのいる方向へとそれを放ったのだった。
「ミーナ、危ない――っ!」
反射的に身体が動いていた。
呪縛を断ち切るように跳び出したヘリオスは、鋭い棘がミーナへと到達するその軌道に、自らの身を投げ出した。
――グシャッ……!
生々しい肉を抉る音が、静まり返った夜の村に響き渡った。
目を開けたミーナの視界に映ったのは、愛しい夫の背中だった。しかし、その背中を貫き、腹部へと突き抜けたロキの棘からは、真っ赤な鮮血がとめどなく溢れ出し、冷たい地面へとポタポタと落ちていく。
「へ……り、おす……?」
頭が真っ白になり、声にならない悲鳴がミーナの喉から漏れる。
ヘリオスの身体がぐらりと揺れ、しかし彼は倒れるまいと歯を食いしばり、自分の腹部を貫く棘に手を掛けながら、振り返ってミーナへと力なく微笑みかけた。
「はは……大丈夫、だ……心配、するな……」
口の端から鮮血を伝わせながらも、いつもと変わらない優しい笑みを浮かべるヘリオス。しかし、その傷の深さは一目でわかった。血は止まる気配を見せず、彼の体温が急速に奪われていくのが見て取れる。
「そんな……嘘よ、嘘だわ……! 血が、こんなに……っ! ヘリオス、しっかりして……!」
ミーナの瞳から大粒の涙が溢れ落ち、抱いていたレイの頬へと零れ落ちた。
震える手でヘリオスの頬に触れようとするミーナに対し、ヘリオスは痛みを堪えながら、必死の思いで言葉を紡いだ。
「ミーナ……聞いてくれ。この村から、みんなを連れて……すぐに避難してくれ……!」
「そ、そんなこと言わないでよ……! じゃあ、ヘリオスはどうするの……っ!? 一緒に行くんでしょ……!?」
ミーナの切実な問いかけに、ヘリオスはゆっくりと、しかし力強く首を横に振った。
彼は愛する妻の目を見つめ、どこまでも優しく、いつもの穏やかな声音でこう告げた。
「……大丈夫だ。これが終わったら、ちゃんとみんなの所に行くよ。だから……約束だ」
その言葉に込められた意味を、ミーナは痛いほど理解した。ここで自分が留まれば足手まといになる。レイを守り、ケルトやマーサ、村の人々を安全な場所へ逃がすことが、今自分にできる唯一の選択なのだと。
「……ううん……分かった……約束よ、絶対に、絶対に私たちのところに戻ってきて……!」
ミーナは涙を拭い、唇を噛み締めながらその場から身を翻そうとした――その時、母の腕の中で不安を察知したのか、レイが突然、甲高い声を上げて激しく泣き出した。
「うわぁぁぁん……っ!」
「レイ……っ」
幼い息子の泣き声に胸が締め付けられる思いの中、ヘリオスは力のない足取りで一歩近づき、自分の血に染まっていない方の手で、レイの小さな頭をそっと撫でた。
「レイ……泣かないで。ママと一緒に、いい子で待っていてくれ……大丈夫だよ」
パパの温もりを感じ取ったのか、レイの泣き声が少しだけ小さくなる。
ミーナはもう振り返るまいと強く決意し、愛する夫の背中をしっかりと見据えたあと、覚悟を決めて走り出した。
暗闇の中、村人たちを起こすために走るミーナの必死の声が響き渡る。
愛する家族が遠ざかっていくのを確認したヘリオスは、ゆっくりと向き直り、目の前に立つロキへと視線を戻した。
「……邪魔者は消えたか。さて、虫けらの始末の続きをしようか、ヘリオス?」
ロキが冷徹な笑みを浮かべる中、ヘリオスの中で何かがプツリと音を立ててちぎれた。
愛する家族を脅かし、穏やかな日常を踏みにじろうとする者に対する、底知れない怒りと、戦士としての覚悟。
――ドクンッ……!
ヘリオスの心臓が、常人ではありえない力強い音を打つ。
彼の全身から、黒みを帯びた圧倒的な深紅の闘気が奔流のように吹き上がった。かつての死闘をも超える、内なる『龍の血』の完全解放だった。
荒れ狂う暴風のような闘気が夜の闇を切り裂き、大地を揺るがす。
負傷した腹部の痛みを闘気で無理やりねじ伏せ、ヘリオスはアスカリオンを再びしっかりと構え直した。
「ロキ……今度こそ、お前をこの世界から消し去る」
対するロキもまた、ヘリオスのただならぬ気迫に目を細め、その全身から禍々しい闇の魔力を爆発的に解放させた。
月夜の下、すべてを賭けた最後の決戦の火蓋が、今、静かに切って落とされたのだった。
静まり返った夜の村を舞台に、圧倒的な気迫がぶつかり合う。
負傷した腹部から流れる血など意に介さぬ様子で、ヘリオスは全身から沸き立つ闘気を極限まで高めていった。
「行くぞ、ロキ――!」
ヘリオスの咆哮とともに、彼の纏う深紅の闘気が凄まじい熱量を伴った業火へと姿を変える。それは単なる炎ではない。自らの血脈に流れる竜の力をすべて解放した、魂の絶技。
「『天翔炎牙』――ッ!!」
轟音と共に放たれた灼熱の奔流が、空間そのものを焼き尽くすほどの勢いでロキへと直撃する。
対するロキは不敵な笑みを崩さぬまま、その両手から禍々しい闇の光を迸らせた。彼が手にしたのは、あらゆる物質や事象を意のままに生み出す『創造の力』の極致。
「フッ、その程度の熱量で俺を滅ぼせるものか! 『虚空創世・絶神の楔』――っ!」
ロキの作り出した無数の黒い結晶と光の刃が、空間を穿ちながらヘリオスの炎へと正面から叩きつけられる。
灼熱の炎と、すべてを無に帰すかのような創造の力が激突し、夜空を昼間のように明るく染め上げるほどの凄まじい閃光と爆風が吹き荒れた。
衝撃波が村の周囲の大地を抉り飛ばし、二人はそのまま間合いを詰めて激しく激突する。
ガキィィィン……ッ!
ヘリオスの愛剣アスカリオンと、ロキの硬質化した腕が鋭く噛み合い、火花が激しく散る。
至近距離での凄まじい鍔迫り合い。互いの筋肉が悲鳴を上げ、尋常ではない圧力が周囲の空気を歪ませる中、ヘリオスは歯を食いしばりながら鋭い視線をロキに向けた。
「っ……一つ聞く……! なぜ、俺がこの遠く離れた山間の村にいることが分かった……!?」
聖都からも遠く離れ、完全に身を潜めていたはずのこの場所を、なぜロキはピンポイントで見つけ出すことができたのか。その疑問をぶつけたヘリオスに対し、ロキはねっとりと歪んだ笑みを浮かべ、余裕の表情で答えを囁いた。
「ふっ、簡単なことさ。……お前を探すために、この世界の『世界樹』の根を利用させてもらったのさ」
「世界樹の根を……だと……?」
「そうだ。お前たちのような虫けらが隠れようとも、この世界の理を司る世界樹はすべての土地と繋がっている。その地下深くに根を張らせて、お前の気配を隅々まで探し出したのさ」
信じがたい事実を突きつけられ、ヘリオスは目を見張る。しかし、世界樹ほどの巨大な自然の理を、一人の人間が都合よく利用できるはずがない。
「そんなことができるわけがない……! お前がどれだけ強大でも、世界樹の力をそこまで勝手に操るなど……!」
ヘリオスの疑念を嘲笑うように、ロキはさらに続けざまに語った。
「ふはは、普通なら不可能だろうさ。だがな、俺は忘れたのか? 私は『創造の神』だ。……この世界の地下に巡る世界樹の地脈の要所に、かつて俺の造物である**『神の釘』**を何本も深く差し込んであるのさ」
神の釘――それこそは、人々から無尽蔵に魔力を吸い取り、世界を我が物にしようとしたロキの忌まわしき遺産だった。
「その『神の釘』が地脈を通じて周囲の人間から魔力を吸い上げ、世界樹のシステムに干渉している。そもそも、この世界の人間はどれほど自覚がなかろうと、誰もが多少なりとも『魔力』を帯びて生きているものだ。……だからこそ、この村に暮らす人間たちの微かな魔力の潮流が、あの神の釘を通して世界樹の地脈へと流れ込み、この場所の特異な反応として俺の網に引っかかったというわけよ!」
ロキの言葉に、ヘリオスはすべてを理解した。
自分たちがどれほど隠れようとも、人間である以上、生活の中で放つ微小な魔力の波紋が地脈を伝わり、ロキの手元へと居場所を教えてしまっていたのだ。
「……っ、くそ……!」
鍔迫り合いの圧力が増し、ロキの瞳に冷酷なまでの殺意の光が宿る。
すべてを計算し尽くし、執念深く自らを追い詰めてきた宿敵を前に、ヘリオスはさらなる闘気を燃え上がらせ、一歩も引かぬと剣に全体重を乗せたのだった。




