第4話 優しさ、そして新たな旅立ち
戦闘描写は次の話で書かせて頂きます
果てしない逃避行の末、追手や絶望の影から逃れるようにして、ヘリオスと妹のマニーがたどり着いたのは、深い山々に抱かれた小さな村だった。人里離れたその場所には、ルミナス王国を襲ったような不穏な空気は一切なく、ただどこか懐かしい穏やかな時間が流れていた。
しかし、極限の緊張と疲労、そして目の前で父を奪われた深い絶望に引き裂かれた二人の足取りは限界を超えていた。ろくに食事もとれず、すり切れた衣服を纏ったボロボロの姿のまま、ヘリオスはマニーの手を引き、村の小道へと倒れ込むように足を踏み入れた。
「お兄ちゃん……足が、もう動かないよ……」
マニーがか細い声を漏らし、その小さな体がガクッと揺らぐ。ヘリオスは慌てて妹を抱き止め、震える歯を食いしばった。
「しっかりしろ、マニー! もうすぐ、安全そうな場所だ……!」
その時、畑仕事をしていた一人の老人が、二人の異様な様子に気づいて歩み寄ってきた。傍らには、優しげな笑みをたたえた一人の老女の姿もあった。
「おや、こんなボロボロになって……。おい、大丈夫かい?」
老人が心配そうに声をかけながら、ヘリオスたちの肩を支える。温かな手のぬくもりに触れた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、ヘリオスは膝をついた。
――二人は、その老夫婦の家に招き入れられた。
パチパチと薪が燃える暖炉の前で、熱いスープと湯気の立つパンが差し出される。生き返ったような心地の中で、マニーは小さく震えながらスープを口に含んだ。
「さあ、ゆっくりお食べ。おや、お嬢さん、そんなに怯えなくてもいいんだよ」
老女が優しくマニーの頭を撫でる。その穏やかな気遣いに触れたとき、ヘリオスの中で抑え込んでいたものが溢れ出した。他人に頼る余裕などないと思っていたはずなのに、この温かさに触れた途端、脳裏に焼き付いた悪夢のような記憶が蘇り、涙とともに言葉がこぼれ落ちた。
「……母さんは昔、病で死んだ。だから、俺たちには父さんしかいなかったんだ……」
ヘリオスは震える声で、絞り出すように語り始めた。
「王国が襲われた日、俺が少しの間だけ家を空けている隙に、ロキが家に押し入ったんだ。父さんは瀕死の重傷を負わされ、そして……俺が戻ったその目の前で、冷酷にトドメを刺された。すべてを奪われて、俺たちは追われるようにここへ逃げてきた……」
ポツリポツリと語られる凄惨な告白に、老夫婦の表情から穏やかさが消え、深刻な重みが走った。しかし、二人は途中で遮ることなく、ヘリオスの言葉を最後まで静かに聞き届けた。
すべてを話し終えたヘリオスは、うつむいたまま血が滲むほど拳を強く握りしめた。
「……話してくれて、ありがとうね。辛かったろうに、よくここまで生き延びたものだ」
老人が深いシワの刻まれた顔で静かに頷き、それから穏やかに微笑んだ。
「もしよければね、お前さんたち、しばらくこの村にいるといい。幸い、うちには部屋も余っている。ここでゆっくり傷を癒やしなさい」
その言葉は、凍てついたヘリオスの心に染み入るような、あまりにも甘い誘いだった。この村に留まれば、温かい食事があり、夜の寒さに怯えることもない。マニーを安全な場所で休ませることができる。
しかし、ヘリオスはすぐに強く首を横に振った。
「……ダメだ。そんなこと、できない」
「お兄ちゃん……?」
マニーが不安そうに見上げる。ヘリオスは苦しげに顔を歪めながら言葉を続けた。
「俺たちがここにいたら、この村にまで危険が及んだり、あいつらに見つかったりするかもしれない……。そんなの、絶対に嫌だ」
頑なに拒絶するヘリオスの瞳を見て、老人はため息をつきつつも、どこか誇らしげな、深い納得の色を浮かべた。
「……なるほどな。その年で、そこまで周りのことを考えられるか。お前さんは本当に強い子だ。だがね、このままあてもなく逃げ続けるだけでは、いつか二人ともすり潰されてしまうよ」
老人は立ち上がると、家の奥の古びた木箱から、一枚の古い地図と一着の布を取り出してきた。
「実はな、わしらも若い頃は、世界中を駆け巡る冒険者だったのさ。……おい、じいさんや」
老女が懐かしそうに微笑みながら、ヘリオスたちの前へいくつかの服を差し出した。それは長年大切に手入れされてきたであろう、丈夫な生地の旅装束だった。
「わしらの若い頃の身なりとは違うがね、お前さんたちの今のボロボロの服じゃ、すぐに目をつけられてしまう。これを着なさい。少しはまともに見えるはずだ」
「そ、そんな……他人である俺たちに、そこまで……!」
「いいんだよ。困った時はお互い様さ。それに、お前さんたちが行くべき場所を教えてあげよう」
老人は地図の一点を指さした。
「隣の国にある『聖都オクヘイム』へ行きなさい。あそこの冒険者協会は、この大陸でも最大規模だ。腕利きの者たちが集まっているし、そこならお前さんたちの力になってくれるかもしれない。力を持つ者たちが集まる場所なら、隠れることも、あるいは抗う術を見つけることもできるだろう」
聖都オクヘイム――その名を聞いたヘリオスの胸の奥で、かすかな灯火が揺らいだ。逃げるだけの人生から、何かを掴みに行くための道筋が、そこに示された気がした。
その夜、老夫婦の厚意により、二人は温かいベッドで体を休めることになった。しかし、静まり返った部屋の中で、ヘリオスとマニーの間には重苦しい沈黙が流れていた。
旅立ちの準備を控え、聖都オクヘイムへ向かう決意を固めたヘリオスに対し、マニーはどこか言い淀むように小さく震える手を重ね合わせ、絞り出すような声を上げた。
「お兄ちゃん……私も、一緒に戦うよ。ロキのやつに、父さんの仇を討ちたい……!」
その瞳には、家族を奪われた深い悲しみと、兄と同じ強い復讐心が灯っていた。しかし、ヘリオスは即座に首を横に振った。
「ダメだ、マニー。お前は戦わなくていい」
「どうして……!? 私だって、お兄ちゃんの負担になりたくないし、力になりたいの……!」
マニーが涙を浮かべて食い下がる。その気持ちが痛いほど分かるからこそ、ヘリオスは胸が張り裂けそうだった。母を昔に亡くし、今や世界でたった一人の血を分けた肉親――唯一残されたたった一人の妹なのだ。これ以上、あんな残酷な地獄に彼女を引きずり込むわけにはいかない。危険な目に合わせるなど、絶対にできなかった。
「俺の気持ちも分かってくれ、マニー。……お前を失うくらいなら、俺は何を失ってもいい。だから、お前は安全な場所で息を潜めていてくれ。それが、俺の願いだ」
ヘリオスが震える声でそう諭すと、マニーはそれ以上言葉を続けることができなかった。兄の瞳に宿る圧倒的なまでの決意と、自分を失いたくないという深い愛情を痛いほど感じ取ったからだ。
マニーはぽろぽろと涙をこぼしながら、小さくうなずいた。
「……うん……分かったよ、お兄ちゃん。でも……置いていかないで。そばにいて……それだけは、約束して……」
「ああ、絶対に離さない。俺が必ず、お前を守り抜くから」
ヘリオスは泣きじゃくる妹を強く抱きしめ、心の中で固く誓った。どんなに過酷な道になろうとも、この温もりだけは絶対に守り抜くと――。
そして翌朝、眩しい朝日が山あいの村を照らし出す頃、出発の準備を整えた二人が家の玄関に立っていた。老夫婦が見送りのために外に出てきている。
「おじいさん、おばあさん……本当にお世話になりました。このご恩は、絶対に忘れません」
ヘリオスが深く頭を下げ、マニーもそれに続いて小さくお辞儀をした。老人は満足そうに笑うと、そっと小さな革袋をヘリオスの手に握らせた。
「これを持っていきなさい。大した額じゃないがね、わしらの貯えだ。お前さんたちが聖都に着くまでの、およそ一ヶ月分くらいは生きていけるだけの資金だよ」
「こ、こんな大金、受け取れません……!」
「いいから受け取りなさい。これは施しじゃない。未来への投資さ。……生き抜くんだよ。どんなに辛くても、命を捨てちゃいけない」
老女が優しく微笑み、マニーの頬をそっと撫でた。マニーはこらえきれず、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、老女の手をギュッと両手で握りしめた。
「うん……! ありがとう、おばあちゃん……っ!」
「さあ、行きなさい。聖都オクヘイムへの道は長い。気を付けてな」
老夫婦に見送られながら、ヘリオスとマニーは村の出口へと歩き出した。
新しく身に纏った旅装束は、ボロボロだった彼らに少しだけ確かな輪郭を与えてくれていた。
「お兄ちゃん、聖都に向かおう……」
マニーが涙を拭いながら、少しだけ前を向いて尋ねる。ヘリオスはしっかりとその小さな手を握り返し、遠くに見える空の向こうを見据えて力強く頷いた。
「ああ、行こう。俺たちは生き延びてみせる。……父さんの仇を討つために」
感謝の想いを胸に、二人は新たな運命が待ち受ける聖都オクヘイムへと向けて、力強く足を踏み出したのだった。




