第32話 血塗れの遊戯と、救出の刃
月明かりは厚い雲の向こうへと隠れ、冷え切った夜の森林地帯には、不気味な静寂と荒々しい呼吸音だけが木霊していた。
聖都の騎士団長であるヴァルガスと、『血塗れの遊戯者』ジーク――二人の死闘は、まさに極限の局面を迎えていた。
地面を埋め尽くす霜はさらに厚さを増し、周囲の植物や折れた枝をまるでガラス細工のように凍てつかせていく。ジークが纏う【氷】のソルシュの魔力は、空間そのものの温度を奪い去り、呼吸をするたびに肺の奥が凍りつくような痛みを伴っていた。しかし、そこでの激しい攻防の末、戦局はわずかではあるがヴァルガスに傾きつつあった。
先ほどの突撃で放った風の刃がジークの衣服を引き裂き、その白く細い肢体にはいくつもの浅い切り傷が刻まれている。対するヴァルガスも、歴戦の勘と圧倒的な風の魔力を駆使してジークの決定的な一撃を回避し続け、着実に相手を追い詰めていた。剣技の腕前、そして騎士としての経験値において、かろうじてヴァルガスが優位に立っていることは紛れもない事実だった。
「ふむぅ……やるじゃないか、聖都の隊長さん。ただの筋肉ダルマの集団かと思っていたけれど、なかなかに楽しませてくれるねぇ!」
ジークは自身の頬についた薄っすらとした血の滲みを指先で拭い、ねっとりと湿った笑みを浮かべる。その瞳に焦りの色は一切なく、むしろ目の前の強敵をいたぶるための新たな遊戯を見つけたかのような、底知れぬ狂気が渦巻いていた。
――だが、ヴァルガスの内情は、決して楽観視できるものではなかった。
(くっ……! 体力が削られている上に……!)
戦闘の最中、ふとした拍子に、先ほどのレイヴンとの交戦で負った背中の傷が激しく疼いた。浅い傷だと思っていたそれは、レイヴンの放った鋭利な刃と光の特異属性による微細な呪詛を伴っていたらしく、時間の経過とともに全身へとしびれるような痛みを広げ始めていた。
傷口が熱を持つような疼きに、ヴァルガスの意識が一瞬だけそちらへと持っていかれる。
致命的な、ほんのコンマ数秒の気の緩み。
「――もらったぁ!」
そのわずかな迷いと隙を、狂気の殺し屋が逃すはずがなかった。
視界の端でジークの姿が消え、次の瞬間、ヴァルガスの目の前には、おぞましい冷気を纏った巨大な大鎌の切っ先が迫っていた。避けられない。直撃すれば、今度こそ胴体ごと両断されるか、全身を凍結させられて粉々に砕け散る。
(しまった……!)
反射的に大剣を構えようとしたが、背中の激痛と体勢の崩れから、筋肉が思うように反応しない。死の恐怖がヴァルガスの全身を駆け巡ったその時――。
『――ガキィィンッ!!』
世界を揺るがすような凄まじい金属音が夜の森に響き渡った。
衝撃波が周囲の樹木を根元からなぎ倒し、地面の雪と霜を一気に吹き飛ばす。あまりの強烈な衝突に、ヴァルガスは思わず目を固く閉じていた。
――しかし、致命的な痛撃は訪れなかった。
「……っ! 父上、下がっていてください!」
耳朶を打ったのは、聞き慣れた、しかしこの戦場にいるはずのない若々しく力強い声だった。
ヴァルガスが驚愕に目を見張りながらゆっくりと目を開けると、そこには自分の大剣を構えた腕を交差させ、ジークの巨大な大鎌を真っ向から受け止めている一人の青年の背中があった。
黄金色の髪を夜風になびかせ、凛とした佇まいで立つその少年――いや、青年こそ、ヴァルガスの最愛の息子であり、聖都騎士団の次代を担う若き精鋭、『ヴァルキリー』であった。
「ヴァルキリー……!? なぜお前がここにいる! 別働の捜索部隊として、西方を警戒しているはずでは……!」
「森の方から悲鳴が聞こえてきたので不審に思い、部隊を急ぎ反転させました! 間に合ってよかった……!」
ヴァルキリーの背後から、大勢の足音と威勢の良い怒号が次々と響き渡る。
別部隊としてヴァルガスの一団とは別行動をとっていた聖都の騎士たちが、次々に林道から飛び出してきたのだ。瞬く間に周囲を取り囲み、精鋭たちが一斉に剣を抜き放ってジークへと切っ先を向けた。
形勢は一気に逆転した。単騎で戦っていたヴァルガスに代わり、今や数十人もの精鋭騎士たちがジークを取り囲み、いつでも一斉攻撃を仕掛けられる万全の包囲網が完成していた。
「おやぁ……?」
ジークは頭上から自分を見下ろす大勢の聖騎士たちを見回し、大鎌を軽々と肩に担ぎ直した。その顔に恐怖や焦りは微塵もなく、どこか面倒くさそうに、しかし楽しげにため息をつく。
「なんだい、急にわらわらと賑やかな連中が増えちゃってさぁ。せっかく二人の世界で楽しくイカれた遊戯をしていたっていうのに、これじゃあ興ざめだねぇ」
ジークはふっと冷ややかな笑みを浮かべ、地面に転がるレイヴンの氷漬けにされた残骸を一瞥した。
「それに、僕の今日のコレクションはあいつの完璧なシルエットで十分に満足しちゃったしねぇ。……それにほら、僕には自分の中で大事なルールがあるんだよ」
ジークは薄気味悪い笑みを浮かべながら、血塗られた指で自分の指を一本ずつ折り曲げて数えてみせる。
「一日に命を奪うのは、最大でも五人までってね。今日もうすでにあそこのお友達を含めて、ちょうど五人分の美しい命を堪能しちゃったんだ。だから、これ以上殺すのは僕の美的センスに反するのさぁ」
その言葉に、包囲していた聖騎士たちが思わず息を呑み、殺気を昂らせる。
「ふざけたことを……! 仲間を玩具にし、これだけの犠牲を出しておいて、生きて帰れると思うな!」
ヴァルキリーが怒気を含んだ声で叫び、一歩前へ踏み出す。
しかし、ジークはまったく動じず、ヒラヒラと片手を振ってみせた。
「いやぁ、今日はこれ以上お仕事をする気はないのさ。また今度、君たちの誰かの首をコレクションにしにくるよ。それじゃあねぇ、聖都の騎士様たち、またすぐ会おうねぇ!」
次の瞬間、ジークの身体の周囲に猛烈な冷気の霧が渦巻いた。
【氷】の魔力が周囲を覆い始め、彼の姿を一瞬にして周囲の景色へと同化させていく。
「逃がすな! 追え!!」
ヴァルキリーが号令をかけ、聖騎士たちが一斉に突撃を仕掛けたが、彼らの刃が空を切ったときには、ジークの気配はすでにこの空間から完全に消え去っていた後だった。残されたのは、ただ凍りついた地面と、冷たい夜風の音だけだった。
静まり返った森の中で、ヴァルガスは深いため息をつきながら、痛む背中を押さえて膝をつく。
「父上! しっかりしてください……!」
駆け寄ってきたヴァルキリーが支えてくれる中、ヴァルガスは遠くの闇を見つめながら、歯を食いしばった。
「……取り逃がしたか。だが、『六人の大罪人』の狂気が王都のすぐ足元まで迫っているのは間違いない。……全軍、すぐに態勢を立て直せ! 王都への防衛網をさらに強化するぞ!」
聖都の騎士団は辛うじて全滅の危機を脱したものの、その胸のうちは、計り知れない暗黒の予感と新たな戦いの足音に重く閉ざされていたのだった。




