【5/7】愛しているけど、好きじゃない
「愛しているけど、好きじゃない」って、有名なドラマのセリフらしい。ふと頭に湧いてきたのは、どこかで目にしたからなんだろう。自分でこんなセリフが思いつくわけはない。
家族を想うと、特に子どもについて、愛してはいる。
「あした、服買いたいからお金ちょうだい」と言われて、「はーい」と手渡す。これは、「愛」だ。
「パソコンの調子悪いから、みてくれへん?」「夜ご飯、やっぱ家で食べるし用意しといて」「美容院でカラーしたから、お釣りないわ」
都合のいい人でいいの
という、もうこれは、ヒモに入れ込んでいるホステスさんみたいな関係で、はたから見ると、お子さんのこと大事にしているのね、と思われる。
この現象は、ひな鳥を護る親鳥の如くで。命を賭して、エサを獲りにいく。ひな鳥は、「ぴいぴい(腹減った、はよエサ持ってきてよ)」と主張するのみ。
とはいえ、親鳥といえば、巣立てばスンと知らんからなとなる。この感情が「愛しているけど、好きじゃない」って感じだなーとよく思う。似ているのだ私は親鳥に。
エサ探しながら、蛇や鷹、カラスに狙われる。自分も腹減ってるけど、我慢して。これは、まさに「愛している」だ。
だが、心中、「早く巣立ってくれ」と口にエサ咥えながら、呪文のように唱える。ここが、「好きじゃない」だ。
と言うことを踏まえると、家族を愛するというのは本能に近い。一方、好きか嫌いかというのは、本能から切り離されたもので、理性に近いのかもしれない。
理性というのは、論理的にできているようだが、前提の積み上げ条件によって揺らぐ不確かなモノだとも思う。
・そっけない彼女は、実は受験で僕のことを気遣って距離を取ってくれていた。
嫌いから、やっぱり好きに変化する事例
理性なんてもんは、感情の端っこを踏んでいることもあって、所詮これぐらいの曖昧さなのだ。だから、家族を「好き」でいるかどうか、ってのは曖昧であってよいと思う。いつだって変わるものだ。
だからって「愛しているけど、好きじゃない」が変だよっ、て思う人は
「愛しているし、好きでもある」
というのを想像して欲しい。これはこれで厄介な依存みたいだ。
家族は前提として「愛している」でいいと思う。そうでないと成り立たない。
だが、「好きかどうか」は別問題なのだ。そうしないと、バランスが取れないでしょう。
推しなんかは、「愛していないけど、好き」というのがピッタリだ。どんなことがあっても命を賭けてでも、とはならないからだ。仕事を辞めて、介護するぐらいの「愛している」は、推しには示せないものだ。(できる人が一定数いるから違うよ! なんて言われるけど)
でも、推しに対する「好き」ってのは、確かなモノだと思う。それは感情じゃん! って言う人いるけど、理性が感情に擬態しているだけだと思うのだ。自分の辛い時や楽しい時を、支えてくれる大切な存在として、推しがそこにあって、その判断は「理性的」だとよく思う。
「推し」は好きなのに、家族のことを「好き」でいられない時は、それでいいのだと思うのだ。
「愛しているし、好きだ」でもいいけれど、「好きだ」はいつでも「好きではない」に変わりやすい。
だから、「愛していないし、好きではない」にならないようにしなければとよく思う。これは、憎しみだから。
「愛している」ということは本能的だからそうそう「愛していない」に変わらないのだけど。
本能とはいえ、油断禁物なのだ。
とにかく、家族には「愛している」を必須としつつ、「好きかどうかはよくわからない、今どうかといえば、好きではないかな」ぐらいがちょうどいいと思うのだ。
どう思う?




