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末席という名の砦

新しく入った下働きの若者は、ニコと名乗った。

年の頃はまだ少年といってもいい。痩せて、目ばかりが大きく、誰にでもはにかむように笑う。厩番を振られると、馬の世話のかたわら、いつのまにか屋敷じゅうの末席の者たちと、馴染んでいた。年老いた洗濯女。足の悪い庭掃きの爺。言葉の遅い、厨房の下働きの子。——誰も名前を覚えていないような者たちの名をニコだけは全部、知っていた。

——また、一人。

七人目。アリシアはもうため息も出なかった。ただ、この若者の居場所がいつも屋敷のいちばん隅、いちばん下であることだけがほかの六人と、少し違っていた。

ある日、アリシアは廊下でその光景を見た。

足の悪い庭掃きの爺が箒を取り落とし、拾おうと、難儀していた。通りかかる者は誰も目を留めない。爺など、そこにいないかのように。それが当たり前だった。末席の者は風景の一部だ。見える必要がない。

ニコだけが駆け寄って、箒を拾った。そして、何でもないことのようにしばらく爺の話し相手になっていた。爺が何年も誰にも話していなかったらしい昔語りをニコはうん、うん、と、聞いていた。

(……変わった、子)

アリシアは思った。

人は上を見る。引き立ててくれる者、役に立つ者を見る。末席など、見ても得にならない。それが世の理だ。なのにあの若者はいちばん見られない者ばかりを見ている。まるで見られない者の中にこそ、何か、大事なものが隠れているとでもいうように。

その月の使用人の整理だった。

帳簿の上でいちばん下に名前の連なる者たち。老いた洗濯女、足の悪い庭掃き、言葉の遅い子。——働きは鈍い。給金に見合わない。切るなら、ここからだ。それが算盤の答えだった。

「この、末席の三名」アリシアは名簿を指で示した。「暇を出します。働きに給金が見合っていません。家の、無駄です」

家令が頷いた。当然の采配だった。

そのとき、厩のほうから戻ってきたニコが名簿をちらと、見た。何も言わなかった。ただ、その大きな目がほんの少し悲しそうに伏せられた。

それだけ、だった。ニコは何も主張しなかった。末席を庇いもしなかった。ただ、悲しそうに目を伏せて、厩へ戻っていった。

その伏せられた目がアリシアの中に棘のように残った。

夜、彼女はその三名の名をもう一度、見た。切る。それでいい。算盤は合っている。——なのにニコのあの悲しそうな目が算盤の上に重なって、消えない。

(あの子はなぜ、末席ばかりを見るのだろう)

ふと考えた。

見られない者。風景の一部。誰も目を留めない者。——だから、彼らはすべてを見ている。

道筋が灼けた。

老いた洗濯女は屋敷じゅうの者の衣を扱う。誰がいつ、どこの泥を裾につけて帰ったかを知っている。足の悪い庭掃きは一日じゅう、庭の隅に座っている。誰がどの門から出入りしたかを見ている。言葉の遅い子は喋らないぶん、誰よりもよく、見て、覚えている。

末席の者は無駄ではない。彼らは屋敷の目だ。いちばん下にいちばん低く、いちばん見られない場所に座っているからこそ——上からは決して見えないものを見ている。

「……名簿を書き換えます」アリシアは言った。声は震えていなかった。

「あの三名を切るのはやめます。役目を与えます。——屋敷の目になってもらう。出入りする者、見慣れぬ顔、おかしな動き。気づいたことを何でも私に報せるように。末席だからこそ、見える。誰にも見られずに見ることができる」

ミラのときは隠れた才を認める言葉が要った。お前は本当は有能なのだと。だがこの三名にはその言葉は要らない。老いていても足が悪くても言葉が遅くてもいい。直す必要はない。弱く、見られない者にしか、見えないものがある。弱さはそのまま役目になる。

切り捨てる手が最も弱い者に役目と、誇りを手渡していた。

その時、左手の人差し指の付け根が熱くなった。爪の根もとに一画。六つ目の文字。擦っても消えなかった。

翌朝、ニコが厩で馬を洗っていた。アリシアはそこへ足を運んだ。

「お前のあの目が」彼女は言った。「私に末席を切らせなかった。……お前はなぜ、いつもいちばん下ばかりを見ているの」

ニコは馬の背を撫でながら、はにかむように笑った。

「俺、ずっと末席だったんです」少年めいた声だった。「どこの家でもいちばん下。数を埋めるだけの。誰も名前を覚えてくれない。見てもらえない場所にいると……だんだん、自分がいないみたいになるんです」

「……」

「でもあんたの傍にいるときだけ」ニコは顔を上げた。その目が初めて、まっすぐ、彼女を見た。「末席が屋敷の目になる。いちばん見られない場所がいちばん大事な場所になる。——俺みたいなのでもちゃんと、誰かの役に立てる。そんなの初めてでした」

智の数字。義の問い。忠の拳。孝の鼻。礼の作法。——そして、悌の末席。

彼女の傍でだけ、見られない者が見る者に変わる。捨てられる場所が守る砦に変わる。六つ目の彩りが、同じ絵を成していた。

そのニコがある夜、血相を変えて、アリシアのもとへ来た。

「お嬢様。トマさんが」

末席の者を誰より見ているニコはトマの異変にも誰より早く、気づいていた。門番のトマ。古くから屋敷を守ってきた、いちばん実直でいちばん目立たない男。ニコはここしばらくずっとトマを気にかけていた。

「夜になると、いなくなるんです。厩の裏から、いつも北の木立のほうへ。俺、何度も追いかけて、連れ戻して……でも」

ニコの声が震えた。

「名前を呼んでも。肩を掴んでも。トマさんの目が……俺を見ないんです。俺の声が届いて、ないみたいに。あんなによく喋る人だったのに」

その夜明け、二人は北の木立の際でトマを見つけた。

霜の降りた草の中にトマは立っていた。北の暗い森のほうを見つめて。ニコが駆け寄り、その手を握った。氷のように冷たい手だった。

「トマさん。帰ろう。な、帰ろう」

ニコが引いた。トマは抗わなかった。素直についてきた。——それがいっそう、怖かった。トマはニコに従ったのではない。ただ、引かれるまま、抜け殻のように足を動かしただけだった。中身が半分、もうどこかへ行っている。

連れ戻す手応えは人を連れ戻す手応えではなかった。誰もいない、衣だけを引いているような。

ニコはトマの手を握ったまま、泣きそうな顔でアリシアを見た。見られない者を誰より見てきた、そのニコの目にすら——もうトマの焦点は返って、こなかった。

「……間に合わせます」アリシアは低く言った。自分でも何に間に合わせるのか、分からないまま。

北の木立が朝霧の奥でざわめいていた。

その奥から、ひやりと、あの匂いが——掘り返した、底のほうの生きていない土の匂いが風に乗って、微かに流れてきた。喉の奥の思い出せない小骨がまた、疼いた。

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