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体面という名の罠

新しい作法指南役はエドガーと名乗った。

物腰のすべてが美しい男だった。茶を注ぐ手つき一つ、辞儀の角度一つに千年の作法が宿っているような。声を荒げるところを誰も見たことがない。秘書も兼ね、アリシアの社交の差配をいつのまにか寸分の隙もなく、整えるようになっていた。

——また、一人。

もう数えるのも馬鹿らしかった。雇った覚えのない者が六人目。だがこの男の所作だけは認めざるを得なかった。アリシアの被る氷の面でさえ、エドガーの所作の前ではどこか、急ごしらえに見えた。

「お見事な作法ね」一度、皮肉のつもりでそう言った。

「恐れ入ります」エドガーは静かに頭を垂れた。「作法とは鎧でございます。心を見せぬための。——お嬢様もよく、ご存じのはずです」

扇の動きが止まった。この男もまた、こちらの面の下を見ている。

その夜、ヴェルニエ侯爵家の夜会に招かれていた。

アリシアの縁談相手、レナードが迎えに来た。仕立ての良い、整った顔立ちの青年だ。家柄も財も申し分ない。この縁談は傾いたオルブライト家にとって、数少ない、確かな後ろ盾になるはずだった。

「アリシア。今夜はくれぐれもそつなく」レナードは馬車の中で言った。悪気はなかった。「ヴェルニエ侯は口やかましい御方だ。君の……その、冷たすぎる評判も今夜ばかりは少し和らげてくれると助かる」

「努めますわ」

「それと」レナードが声を少し落とした。「最近、君の屋敷に素性の知れぬ男たちが何人も出入りしていると、社交界で噂になっている。庭師だの、守衛だの、商人だの。……外聞がよくない。君ほどの令嬢がなぜ、あんな得体の知れぬ連中を」

「有能ですから」

「能の問題ではない。体面の問題だ」レナードは眉を寄せた。「侯爵家の令嬢の周りにああも男が群れていてはあらぬ憶測を呼ぶ。君を妻に迎えようという者として、私の顔も立たない。——わかるね」

アリシアは窓の外へ目を向けた。

レナードの言うことは正しかった。何一つ、間違っていない。家格も、体面も、外聞も、縁談相手の顔も。——彼は貴族の物差しで貴族として、真っ当なことを言っている。

ただ、その物差しは智の数字を測れない。義の問いも忠の拳も孝の鼻も測れない。あの六人がなぜ屋敷にいるのか、なぜ手放せないのか。それをレナードの物差しは一目盛りも測れないのだった。

(私自身、測れていないのに)

そう思って、アリシアは口をつぐんだ。

夜会はきらびやかな嘘で満ちていた。いつものように。

そして、その嘘の中に罠が仕掛けられていた。

標的はアリシアではなかった。年若い、内気な令嬢——ヴェルニエ家と縁続きのエルザという娘だった。どこかの一派がエルザの恋文を盗み、それを夜会の最中に衆目の前で読み上げさせようとしていた。相手は家格の釣り合わぬ、下級貴族の青年。露見すれば、エルザの縁談は壊れ、家の名は地に落ちる。

仕掛けたのはヴェルニエ家の地位を狙う、別の一派だった。エルザを潰し、その動揺でヴェルニエ侯の足元を崩す。古典的で残酷な、社交界の手口。

その気配をアリシアは一目で読んだ。十何年、こういう場の空気だけで生き延びてきた。

(……巻き込まれるのは面倒だわ)

冷たい計算が働いた。エルザの件はヴェルニエ家の内輪のこと。オルブライトには関わりがない。下手に動けば、こちらが火の粉を被る。今夜の目的はレナードの顔を立て、つつがなく帰ること。——見て、見ぬふりをすれば、いい。エルザという娘を切り捨てれば。

それがいつもの彼女のやり方だった。

アリシアはエルザのほうへまっすぐ、歩いていった。

冷たく、切り捨てるために。関わりを断つ、と、示すために。——そのつもりで足を踏み出した。

すぐ後ろにエドガーが影のように従っていた。その所作の完璧な静けさが背中に伝わってくる。

その瞬間、アリシアの中で道筋が灼けた。

(——切り捨てる、必要はない。切り捨てる「ふり」で救えば、いい)

恋文が読み上げられる、その寸前だった。アリシアはエルザの前に立った。そして、衆目の中でことさらに冷たく、言い放った。

「エルザ様。あなたにお貸ししていた書物を返していただきたいの」

エルザがきょとんとした。貸した書物など、ない。

「先日、お貸しした、詩集ですわ」アリシアは扇を優雅に開いた。「中に私が書き付けた、覚え書きが挟まったまま。お返しいただかないと、困りますの。——ほら、そちらの方がお持ちの、その紙。それですわ。私の、覚え書き」

仕掛け人が手にした「恋文」を——アリシアは自分の落とし物だと、言い切った。

衆目が揺れた。オルブライト侯爵令嬢がそう言うのなら。あの、氷の令嬢が自分の持ち物だと、断じるのなら。誰がそれを恋文だと、言い張れる。仕掛け人の手が宙で止まった。その紙を開いて読み上げれば、今度は令嬢の覚え書きを盗んだ咎が自分に降りかかる。

「……これはご無礼を」仕掛け人は青ざめて、紙を引っ込めた。

一糸の乱れもなかった。

声を荒げず、誰の名も貶めず。ただ、完璧な作法と、家格の重みだけでアリシアは罠を空中で解体した。エルザの恋は守られた。エルザの名は傷一つ、つかなかった。仕掛け人の顔さえ、——表向きは——潰れなかった。

その時、左手の中指の付け根が熱くなった。爪の根もとに一画。五つ目の文字。擦っても消えなかった。

夜会の隅でエルザが震える声で礼を言いに来た。アリシアは扇の陰で短く、頷いただけだった。

その様子を少し離れて、レナードが見ていた。怪訝な顔で。彼の物差しでは今、何が起きたのか、半分も測れていない。なぜ、妻にと望む女が見ず知らずの令嬢のためにわざわざ、ありもしない詩集の話を。損得が合わない。

そして、レナードの目はアリシアの斜め後ろに控える、エドガーへと、移った。

完璧な所作で、ただ、主の傍に佇む男。会話には加わらない。手柄も誇らない。ただ、いるべき場所に当たり前のようにいる。その姿がレナードにはひどく据わりが悪かった。

夜会の貴族たちも同じだった。氷の令嬢の傍らにいつも静かに付き従う、美しい男たち。庭師がいる、と聞いた。守衛がいる、と。商人まで。それぞれは、ただの使用人。なのに揃って彼女の周りにいると、何か、別のものに見えてくる。

「アリシア」夜会の帰り際、レナードが低く言った。「あの、エドガーという男。それにほかの連中も。……君はあの者たちの、何なのだ」

「主ですわ」

「そういうことを訊いているのではない」レナードの声に初めて、苛立ちが滲んだ。「あの者たちが君をどういう目で見ているか。君は気づいているのか。——あれは家臣の目ではない」

「では何だと」

「男が女に向ける目だ。それか——もっと、悪い」レナードは声を潜めた。「素性も知れぬ者が六人。申し合わせたように侯爵家へ食い込んでいる。庭師、守衛、商人、指南役。……この家を内側から、乗っ取るつもりかもしれん。目を覚ませ、アリシア。君はたぶらかされて、いるのだ」

アリシアは答えなかった。

レナードは正しかった。あの六人の目は確かに家臣のものではない。彼はそれを誰よりも正確に見抜いていた。——そして、誰よりも完全に読み違えていた。

恋でも簒奪でもない。あの六人が自分をどんな目で見ているのか。それを彼女自身がいちばん、測りかねていた。ただ、レナードの言う「たぶらかし」とは何かが根本から、違う。それだけは分かるのだった。

屋敷へ戻ったのは夜半だった。

馬車を降りるとき、エドガーが手を差し伸べた。完璧な、所作で。

「お見事でございました」エドガーは静かに言った。「エルザ様の件。あの作法は私がお教えしたものではございません」

「あなたの所作を真似ただけよ」

「いいえ」エドガーは首を振った。「私の作法は人を立場で縛るためのものでした。家格の上下を寸分違わず、形にして、人をあるべき檻に収める。——それが礼節というものだと、思っておりました」

「……」

「ですがあなたの傍でだけ、私の作法は」エドガーは彼女を見た。「人の顔を立てて、守る。檻に収めるのではなく、檻から、そっと逃がす。同じ所作でまるで逆のことを。——あなたは不思議な、御方です」

智の数字。義の問い。忠の拳。孝の鼻。礼の作法。——五つ目の石が、同じ図面の上に積まれた。彼女の傍でだけ、縛るものが守るものに変わる。

その時だった。

門のほうで配下の一人が戸惑った声をあげていた。

「お嬢様……門が。門が開いて、おります。誰も開けていないのに」

アリシアは振り向いた。

夜半に固く閉ざしたはずの門がいつのまにか内側から、開いていた。その前にトマが一人、立っている。暗い街道のその先の闇を見つめて。

「トマ。——お前が開けたの」

トマはゆっくりと、こちらを向いた。その顔に戸惑いが浮かんでいた。自分の見ているものが信じられない、という顔だった。

「……いえ。私は何も。気づいたら、この手で閂を……ですが開けた覚えはないのです。本当に」

自分の手が自分の知らぬ間に北の闇へ向かって、閂を外していた。トマはたった今それを自分で見て、怯えていた。足はまだ一歩も門の外へ出ていない。けれど、その手はもう本人を置き去りにして、何かに応え始めていた。

「エドガー」アリシアは低く言った。「あれは」

エドガーの完璧な所作がわずかに強張った。常に静かなその目が初めて、油断なく、闇のほうを見据えていた。

「……作法の、外の、ものでございます」エドガーは静かに言った。「私の、手に負えるものではございません」

レナードの物差しでも測れない。礼の作法でも捌けない。何かがトマの手を本人の知らぬ間に北の闇へと、差し招いていた。

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