北という名の匂い
出入りの商会の若旦那はマルコと名乗った。
人好きのする、よく笑う若者だった。商談に来たはずがいつのまにか厨房でブルーノとパイを焼き、下働きの子供らに飴を配り、気づけば屋敷じゅうの者と顔馴染みになっている。商売敵のはずの他の問屋までがなぜか「マルコさんの目利きは信用できる」と口を揃え、彼を通すようになっていた。
——また、一人。
雇った覚えのない者がまた一人、当たり前のように屋敷の一部になっていた。今度は出入りの商人という形で。アリシアはもう驚かなかった。ただ、その自然さが相変わらず、気味が悪かった。
◇
その日、マルコは納屋で荷を検めていた。
小麦の袋をひょいと片手で持ち上げ、鼻を近づける。
「んー……これ、北のだ」
「は?」帳付けの下男がきょとんとした。
「北の土の匂いがする。豆もほら」マルコは別の袋を担いだ。「重さがいつもの南のより、ちょっと軽い。育った土が瘦せてる。……最近、多いなあ、北の」
下男が納品の控えを繰った。マルコの言うとおりだった。小麦も豆も香料も——ここふた月ばかり、北の産がじりじりと増えている。誰が指図したわけでもないのに。市場のほうがひとりでに北へ傾いていくように。
「マルコさん、すごいや。鼻で産地まで当てちまう」
「鼻だけが取り柄でね」マルコはへらりと笑った。「うちの親父にもよく言われたよ。お前は算盤は駄目だが鼻はいっちょ前だって」
アリシアは納屋の戸口でそれを聞いていた。
天然の人好きのする若者。だがその鼻がたった今誰も気づいていなかったものを嗅ぎ当てていた。北から、この屋敷へ何かがじわじわと、流れ込んでいる。穀物に紛れ、香料に紛れて。智とミラが帳簿の数字の中に見つけた、あの細い管。それを孝の鼻は匂いで辿っていた。
◇
数日後、大口の取引があった。
南の古い香料商。長年、足元を見て、強気の値をふっかけてくる相手だった。アリシアはこの日のために相手の弱みをセオに調べさせていた。
「先方の蔵はいま在庫がだぶついています」執務室で彼女は冷たく言った。「足元を見返してやりましょう。半値まで買い叩きます。今度はこちらが強気に出る番です」
「お嬢様」同席していたマルコがめずらしく、口を挟んだ。「あのー……その香料商さん、北のが増えて、困ってるんですよね、たぶん」
「……何が言いたいの」
「いや、なんとなく」マルコは頭をかいた。「困ってる人を半値で叩くと……その人、たぶん、北のほうに流れちゃうなあ、と」
それだけだった。マルコはまた、へらりと笑って、引っ込んだ。答えなど、何も差し出さずに。
だがその一言がアリシアの頭の中で火花を散らした。
(北のほうに流れる——)
そうだ。半値で叩けば、この商人は恨みを呑んでより高く買う相手へ靡く。北の、あの見えない管の、向こう側へ。——いや。一軒で済む話ではない。
道筋が灼けた。
一軒、叩けば、一軒が北へ落ちる。次の値踏みでまた一軒。そうやって、南の問屋が一軒ずつ、北の管に呑まれていく。気づいた時にはこの家の糧道は——麦も豆も塩もその喉元のすべてを北に握られている。飢饉の年でさえ、北に頭を下げて買うしか、なくなる。
(叩く相手じゃ、ない。これは——囲い込む、相手だ)
今のうちに南を束ねる。一軒ずつ攫われる前に丸ごと、この家の傘の下に。——それは慈悲ではない。いちばん、冷徹な、家の生存の算段だ。
「……方針を変えます」アリシアは扇を閉じた。声は震えていなかった。「半値で叩くのはやめます。逆にこちらから、長期の約定を。値は相場どおり。ただし、五年の独占。南の物流を丸ごと、この家の傘の下に入れます。——北に靡く隙を与えません」
買い叩いて、目先の一回に勝つのではない。囲い込んで糧道そのものを守り抜く。優しく見えるその采配はその実、まだ名も知れぬ何かに備える、最も冷たい備えでもあった。
その時、左手の親指の付け根が熱くなった。
爪の根もとに一画。これまでの右手とは違う、左手の最初の一画。四つ目の文字。擦っても消えなかった。
◇
約定は結ばれた。
南の香料商は足元を見返されるどころか、五年の安泰を約束され、深く頭を下げて帰っていった。これで南の物流はオルブライトの傘の下。北の管に靡く隙はない。
その夜、マルコが納屋で一人、荷の匂いを嗅いでいた。アリシアはなぜか、そこへ足が向いた。
「お前のあの一言がなければ」彼女は言った。「私はあの商人を半値で叩いて、北へ追いやっていた。……お前はなぜ、止めたの。商人なら、安く買えるほうが得でしょう」
「俺の鼻はね、お嬢さん」マルコは袋をそっと置いた。いつものへらりとした笑みが少し違っていた。「ガキの頃から、安く買い叩くための鼻だった。産地を当てて、瘦せた土を見抜いて、足元を見て、買い叩く。……それが目利きってもんだと、思ってた」
「……」
「でもあんたの傍にいるときだけ、この鼻は」マルコはちらと、戸の外へ目をやった。「人を囲い込むために匂うんだ。叩いて潰すんじゃなくて……生かして、傘の下に入れるために嗅ぐ。そんな使い方、知らなかったなあ」
智の数字。義の問い。忠の拳。——そして、孝の鼻。
彼女の傍でだけ、壊すものが守るものに変わる。叩くものが囲うものに変わる。同じ主題がまた一つ、別の音色で鳴っていた。
「……それでね、お嬢さん」マルコの声がふと低くなった。笑いが薄れた。「一つ、気になることがあるんだ」
彼は納屋の隅の古い樽を指さした。
「あの樽、北の荷なんだけど。匂いが……変なんだ。土の匂いはいつもの北の土なんだけど、その奥にもう一つ。なんていうか……生きてない土の匂い。掘り返した、底のほうの。冷たくて、……いやな匂いだ」
マルコはそこで言葉を切った。自分でも何を嗅いだのか、分からないという顔だった。
「ごめん、変なこと言った。気のせい、かな」
アリシアはその樽を見た。背筋を冷たいものが撫でた。
——掘り返した、底のほうの生きていない土の匂い。
その匂いをどこかで嗅いだ気がした。いつ、どこでかは思い出せない。喉の奥に引っかかった小骨のように思い出せないまま、ただ、厭な感じだけが残る。北から伸びる、細い管。セオが数字で見つけ、マルコが匂いで辿る、その管の先に何があるのか。マルコは知らない。ただ、嗅いだだけだ。アリシアもまだ知らなかった。
◇
帰り道、門のそばを通った。
トマが立っていた。
「ご苦労」と、声をかけた。
返事はなかった。トマは、ただ、暗がりのほうを見ていた。アリシアがすぐ前に立っても、その焦点は彼女をすり抜けて、ずっと遠くの何かを見ている。
「……トマ」
呼びかけてもトマは振り向かなかった。
門の一拍の遅れはいつのまにか答えそのものの消失に変わっていた。
人の異変と、物の異変が。トマの遠い目と、樽の冷たい匂いとが。屋敷の外の同じ一点を——誰も名指せないまま——静かに指していた。




