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拳という名の盾

新しい守衛長はブルーノと名乗った。

山のような大男だった。岩を削り損ねたような顔に熊でも絞め殺しそうな腕。門に立たせれば、それだけで賊の十人や二十人、回れ右をして帰りそうな——守衛長としては申し分のない、面構えだった。

問題はその男がなぜか厨房を支配し始めたことだった。

「遅ぇ! パイは焼きたてが命だ! 冷めた菓子なんざ、靴の底と変わらねぇ!」

朝から、厨房から、地鳴りのような怒声が響く。覗けば、白い前掛けを腹に巻いたブルーノが焼きたての山を大皿に積み上げ、料理人どもを叱り飛ばしていた。守衛長の仕事はどこへ行ったのか。

「家令」アリシアはこめかみを押さえた。「なぜ、守衛長が厨房に」

「はあ、それが」家令も困り顔だった。「門の守りは配下に寸分の隙もなく仕込んでおられまして。手が空くと、どうも厨房が気になるご様子で……料理人どもも、あの方の焼くパイにはすっかり舌を巻いておりまして」

職分という概念がこの屋敷から、また一つ、消えていく音がした。

その日、廊下で若い侍女がブルーノに捕まっていた。

「おい、お前」ブルーノがぬっと屈み込む。侍女がひっと首をすくめた。山賊に追い剝ぎされる村娘の顔だった。

ブルーノはその手に焼きたてのパイをどんと押しつけた。

「……顔色が悪ぃ。昨日から、ろくに食ってねぇだろう。倒れる前に食え」

「え……」

「冷める前にだ!」

侍女が恐る恐る、口に運ぶ。次の瞬間、その目にじわりと涙が滲んだ。

「お……おいしい……」

「当たり前だ!」

ブルーノは満足げに鼻を鳴らし、のしのしと去っていった。後に残された侍女はパイを両手で抱えたまま、まだ少し泣いていた。

その一部始終を柱の陰で見ていたアリシアは、奇妙な心地になった。

あの大男は人を怒鳴る。怒鳴りながら、いちばん腹を空かせた者にいちばん旨いものをいちばん先に食わせる。叱る声と、与える手とがちぐはぐに同じ方を向いている。

(……変な、男)

そう思いながら、なぜか、口元がほんの少しだけ緩んでいた。氷の面が知らぬ間に一枚、薄くなっていた。

その帰り、アリシアは門のそばを通った。

門番のトマが立っていた。古くからの実直な男だ。

「ご苦労」何の気なしに声をかけた。

「……はい。ご苦労さまです」

返事が一拍、遅れた。

ほんのわずか。だが十何年、人の顔色だけで生き延びてきたアリシアの耳には、その半拍の遅れが引っかかった。トマの目は彼女を見ているようでその奥の焦点がどこか、別の遠くを見ていた。

「……トマ。疲れているの」

「いえ」また、一拍。「……何も。ご心配なく」

気のせいだ、と思った。思おうとした。

門を離れると、ブルーノがいつの間にか、すぐ後ろに立っていた。トマのほうをじっと見ている。岩のような顔から、いつもの笑いがふっと、消えていた。

何か言いかけて——けれどブルーノは結局、何も言わなかった。ただ、その目だけがしばらく門のほうを離れなかった。

それから、数日後のことだった。

門前が騒がしくなった。

北のほうから流れてきたという、痩せた男たちの一団だった。十人ばかり。飢えと、行き場のなさに目が血走っている。施しをよこせ、と門を叩き、聞き入れられぬと見るや、石を投げ、罵り、暴れ始めた。

「お嬢様、ご指示を!」配下がブルーノを見、アリシアを見た。

アリシアは門の上から、その一団を見下ろした。

賊だ。家の威を舐めている。一度でも許せば、次がその次が来る。——答えは決まっていた。

「派手に叩き出し——」

なさい、と言いかけた、その時だった。

すぐ隣でブルーノが拳を握っていた。

殴るための拳ではなかった。岩のような腕が門の前に立ち塞がるように構えられている。配下を背に庇い、暴れる男たちの石から、誰も傷つけまいと——盾のように。

その拳を見た瞬間、アリシアの頭の中で道筋がひと息に灼け抜けた。

(——あの子たちが見ているのは、拳の大きさじゃない。叩き出される側か、まだ守られる側か。それを確かめている。叩けば、思い知らせるだけ。次はもっと荒れて、戻ってくる)

「——ブルーノ」声は低く、しかし、震えていなかった。「叩き出さなくていい。その拳を門の前に立てなさい。一歩も退かず、一発も振るわず。——あの子たちがその拳を自分を守る側のものと、思い違えるまで」

ブルーノの岩のような顔がわずかに動いた。

「……へえ」

そして、笑った。獰猛な、けれど、どこか嬉しげな笑みだった。

ブルーノは門を開けた。暴れる一団の前にたった一人、立ちはだかった。拳を構え、一歩も退かず。石が当たっても罵りを浴びても、ただ、立っていた。誰も殴らなかった。誰も傷つけなかった。

殴られると身構えていた男たちが殴られないことに戸惑い始めた。立ち塞がる大男が自分たちを叩き出すのではなく、自分たちごと、何かから庇おうとしている——そう気づいたとき、血走った目から、少しずつ、力が抜けていった。

やがて誰からともなく、石を捨てた。一人が膝をついた。泣き出す者もいた。ブルーノはその一人ひとりにのしのしと歩み寄り——焼きたてのパイを配って回った。どこに隠していたのか、前掛けの下から、山ほど。

「……食え。話はそれからだ」

一滴の血も流れなかった。

その夜、ブルーノが厨房の隅で一人、鍋を磨いていた。アリシアはなぜか、そこへ足が向いた。

「昼間のこと」彼女は扇を閉じた。「お前はなぜ、笑ったの。叩き出せと言いかけた私を止めもせず。なのに私が拳を盾にしろと言ったら——嬉しそうに笑った」

ブルーノは鍋を磨く手を止めた。

「……俺の拳はな、お嬢」低い声だった。「ガキの頃から、壊すためのもんだった。殴って、潰して、黙らせる。それしか、知らなかった。守衛長なんてのも要はそれが得意だってだけの話だ」

「……」

「でもあんたの傍にいるときだけは」ブルーノは磨きかけの鍋を見つめた。「この拳が守るために振れる。壊すんじゃなく、庇うために。——そんな振り方があるなんざ、俺は知らなかった。あんたが教えてくれた」

アリシアは何も言えなかった。

智の数字が彼女の傍でだけ、人を活かしたように。義の問いが人を檻から出したように。——この大男の拳もまた、彼女の傍でだけ、壊す拳から、守る拳へと、変わるのだという。

その時、右手の親指の付け根が熱くなった。

爪の根もとに一画。これで三つ目の指の三つ目の文字。擦っても消えなかった。

ブルーノは何も訊かなかった。ただ、磨き終えた鍋を静かに棚へ戻した。その横顔から、いつもの怒声の気配がふと抜けていた。

その夜から、屋敷の門は変わった。

叩き出されると思った流民たちは、施しではなく、仕事を与えられ、北寄りの街道普請の列に加わった。門を守る配下たちはブルーノの「盾の拳」を見て、何かを変えた。賊を、ただ恐れて閉め出すのではない。守るべきものが内側にあるから、立つのだ、と。

恐怖で固く閉ざされていた門が——今は誇りで静かに締まっている。

ただ、その門の傍らでトマだけが一人、誰もいない暗がりのほうをじっと見ていた。

その背中にだけは誇りも温もりもまだ届いていないようだった。

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