蔵という名の問い
新しい家庭教師はジュリアンと名乗った。
ある朝、書斎へ行くと、見知らぬ青年が当たり前の顔で書を広げていた。痩せて、目もとに皮肉な笑みを刻んだ男。家令はまた「お嬢様がお召しになった、たいそうな学者でございます」と請け合い、アリシアが雇った覚えのないことなど、誰も気に留めなかった。
——また、一人。
セオのときと、同じだった。素性の知れぬ男がいつの間にか屋敷の一部になり、誰もそれを訝らない。訝るのは彼女だけ。
アリシアはもう叩き出せとは言わなかった。言っても通じないことを智で学んでいた。それに——叩き出そうとするたび、胸の奥の何かが首を横に振る。この男も手放すな、と。その感覚そのものがいちばん、気味が悪かった。
「家庭教師だそうですね」彼女は冷たく言った。「結構。では私に何を教えると?」
「さあ」ジュリアンは頬杖をついた。「教えることなど、あなたには何も。あなたはもう答えを全部、知っている。——知っているふりがお上手すぎるくらいに」
扇の動きがわずかに止まった。
この男は初手から、こちらの面の下を覗こうとしている。アリシアは直感した。セオが数字で覗く男なら、こちらは言葉で。
◇
「では今日の問いです、ご令嬢」ジュリアンは指を一本立てた。「飢饉の年。領民が蔵を開けてくれと門前に集まった。あなたなら、どうします」
「蔵は開けません」アリシアは即答した。「一度の慈悲は際限のない要求を呼びます。来年も再来年も彼らは門前に座る。蔵が空けば、領そのものが飢えて死ぬ」
「ほう。冷たい」
「正しい、と言ってほしいものですわ」
「正しいですよ。教科書どおりに」ジュリアンは薄く笑った。「百年前のどの侯爵もそう書き残している。下に厳しく。舐められるな。緩めれば家が傾く。——耳が腐るほど、聞いた台詞だ」
「なら、文句はないでしょう」
「文句はない。ただ、一つだけ」ジュリアンは身を乗り出した。「あなた、その教科書を諳んじるとき、いつも少しだけ声が硬くなる。今みたいに。——まるで自分に言い聞かせているように」
アリシアの扇が止まった。
「……気のせいですわ」
「でしょうね」ジュリアンはあっさり引いた。深追いはしない。突いて、相手の出方を見て、すぐ退く。それがこの男の試し方だった。「では次の問い。その飢饉の年——蔵を開けずになお領民を飢えさせない手は、あると思いますか」
アリシアは口を開きかけた。
ない。あるわけがない。蔵を開けるか、見殺すか。道は二つきり。それが現実だ。十何年、そう教わってきた。
「……ありませんわ」声がわずかに掠れた。「それが現実です」
「ふうん」ジュリアンは書を閉じた。閉じたまま、開く気はないらしい。「現実、ね。——覚えておきます」
それ以上は言わなかった。
◇
ジュリアンは退いた。だがその問いは退かなかった。
蔵を開けずに飢えさせない手はあるか。——ない、と答えた。その「ない」がその夜、喉に刺さった小骨のように抜けなかった。
折しも領地に飢えの兆しが差していた。
北寄りの村々で穀価が跳ねている。セオとミラが洗い出した、あの物流の歪み。北から伸びる細い管が穀物の流れをどこかで歪めていた。市に出る麦が減り、値だけが吊り上がる。村の蓄えは薄い。このままでは雪が来る前にいくつかの村が飢える。
これまでの彼女なら、答えは決まっていた。蔵は開けない。村の困窮は村の責任。以上。
なのに今夜は——その「以上」の先へ足が出てしまう。
(蔵は開けない。それはいい。……でも見殺すしか、ないの。本当に)
ジュリアンの声がまた蘇る。——自分に言い聞かせているように。
◇
アリシアは夜更けの執務室で領地の図を広げた。
蔵から村へまっすぐに引いた線を指でなぞってみた。施し。恵み。——だがその線の先で指は毎年同じ場所へ戻ってくる。門前に座る、物乞いの列へ。なぞるたびに列は長くなった。来年も再来年もその先も。
指を止めた。
この線ではない。
図の北の縁へ指を移した。毎年、雪解けで崩れる街道。架けかけのまま放られた橋。手が足りず、ずっと後回しにされてきた堰。崩れた箇所を一つずつ、指でたどっていく。
そして——飢えた村と、崩れた街道とを一本の線で結んだ。
指が止まった。
そこに三本目の線があった。蔵を開けるのでも見殺すのでもない。崩れた街道へ飢えた村の男たちを呼ぶ。鍬を槌を握らせる。恵むのではなく、働かせ、その手に麦を渡す。蔵には指一本、触れずに。
その線をなぞってみた。何度なぞっても門前の列は伸びなかった。働きには終わりがある。終われば、列はひとりでにほどけていった。
「……あったじゃない」
呟いた声は震えていなかった。掠れてもいなかった。
ないと答えたのは道がなかったからではない。探すのをやめていたからだ。蔵か、見殺しか。その二択の檻に自分で自分を閉じ込めていたから。
ジュリアンは答えを教えなかった。ただ、「ないと思うか」と、問うただけ。その問いの檻を内側から蹴破ったのは——彼女自身の頭だった。
その時、右手の中指の付け根が熱くなった。
爪の根もとに一画。智の人差し指とも違う、二つ目の指の二つ目の文字。
擦った。消えなかった。今度も刻まれて、残った。
アリシアはその手をもう握り込まなかった。ただ、しばらく見ていた。
◇
触れは出された。日当は市から買い付けた麦で。蔵の扉は閉じたまま。——それで足りたかどうかは村から戻る男たちの物乞いではない足取りが答えていた。
数日後、ジュリアンが書斎で待っていた。
「街道の件、聞きました」彼はめずらしく、頬杖をついていなかった。「蔵を開けず、見殺しもせず。施しでなく、労役と対価で。——“ない”はずの第三の道だ」
「投資ですわ」アリシアは扇を開いた。「来春には街道と堰が残ります。家の損にはなりません。慈悲ではありません」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
ジュリアンの皮肉な笑みがふと別のものに変わった。からかいではない、何か。
「私はね、ご令嬢。人を試すのが仕事のようなものでした」彼は静かに言った。「問いを投げて、相手の底を覗く。たいていの人間は教科書で答える。借り物の言葉で檻の中から。——退屈な仕事です」
「……それで?」
「あなたは教科書で答えた。そのうえで一人になってから、教科書を破った」ジュリアンは彼女を見た。「私の問いはたいてい、相手を檻に閉じ込めて、終わる。あなたといるときだけ、私の問いは——人を檻から出す。そんなふうに使われたのは、初めてです」
アリシアは何も言えなかった。
この男は皮肉で人を試す。その皮肉が彼女の傍でだけ、意地の悪い遊びではなく、人を自由にする鍵に変わる。——智の数字が彼女の傍でだけ、人を活かしたように。
「次の問いを用意しておきます」ジュリアンは書を取った。皮肉な笑みが戻っていた。「あなたがまた破ってくれるように。——退屈しのぎにちょうどいい」
窓の外、北の空はまだ昏かった。穀価の歪みは街道一本では止まらない。北から伸びる管の本当の太さを彼女はまだ知らなかった。




