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無能という名の鉱脈

会計助手の青年はセオと名乗った。

名乗ったきり、彼は当たり前のように屋敷の数字の奥へ溶け込んでいった。

朝には執務室の隅に机が一つ増え、夕には帳面の山が見たことのない速さと正しさで片づいている。誰もそれを不思議がらなかった。家令は「お嬢様がお召しになった、たいそうな腕利き」と繰り返し、父までもが寝台から「よい人選だ」と満足げに頷いたという。

雇った覚えはない。書状を出した覚えもない。なのに屋敷じゅうがセオを初めからそこにいた者のように扱っていた。

(……気味が悪い)

アリシアだけがその一点を呑み込めずにいた。

素性の知れぬ男が一人、いつの間にか家の財布の中身を握っている。本来なら、考えるだけで背筋が寒くなる事態だ。なのに誰も寒がらない。寒がっているのは彼女ひとり。

セオはよく働いた。無駄がなく、私情がなく、過たない。数字の前の彼は氷よりも静かだった。——その静かさにだけ、彼女は見覚えがあった。

鏡の中の自分の静かさに。

数日後、アリシアは使用人の整理に着手した。

帳簿を口実に働きの鈍い者を選り分けていく。これは家のためだ。情をかければ箍がゆるむ。ゆるんだ箍は二度と締まらない。一人ずつ名を呼び、暇を告げるたびに胸の奥が冷たく軋んだ。だが顔には出さない。鉄の面の被り方だけは誰よりも仕込まれている。

最後の一人が下働きの娘だった。名をミラといった。

何を任せても遅い。皿を運ばせれば落とし、使いに出せば道に迷う。家令も持て余していた。切るのにこれほど理由の揃った娘もいない。

「ミラ。お前はこの家に向いていません。暇を——」

「一つ、計算が合いません」

声がした。

セオだった。いつの間にか、帳簿を抱えて、すぐ後ろに立っている。

「市の買い付けの記録です」彼は一枚を置いた。「この娘は過去に三度、商人の釣り銭の間違いをその場で見抜いています。いずれも勘定書きより速く」

「……それが何だと」

「皿を落とす者が数だけは誰より速く正しく見ている。私にはその理由が分かりません」抑揚のない声だった。事実だけがそこに置かれていた。「ただ、合わないのでお報せしました」

それだけ言って、彼は一歩下がった。答えは差し出さない。綻びを、ただ置いていく。

アリシアはその一枚を見下ろした。

ミラがすくみ上がって、こちらを見ている。暇をと続けかけた言葉が宙で止まっていた。

セオがそこにいるというだけで、なぜか、頭の靄が晴れていく。冷たく、透明に。

(皿を落とす手が釣り銭は見抜く。……この子は遅いのではないのだわ。速さの種類が違うだけ。皿の速さは持っていない。けれど、数の速さなら——)

そこまではセオの置いた一枚から、誰でもたどり着く。問題はその先だった。

冷酷な令嬢なら、ここでこう言えばいい。「では会計室へ移せ。使えるところで使う」と。それで終い。一人の娘の置き場所が一つ変わるだけ。

だがアリシアの思考はそこで止まらなかった。止まれなかった。

(——ミラだけ、ではない)

背筋がひやりとした。

(私はこの屋敷で何人を向かぬ場所に縛りつけてきた。皿を持てぬ者に皿を持たせ、それを「無能」と呼んできた。呼んできたのは——切り捨てる側の私だ)

それはセオが教えたことではなかった。セオは釣り銭の一件しか置いていない。その一点から、屋敷じゅうの「無能」たちへそして自分の冷酷そのものへと、思考を伸ばしたのは彼女自身だった。冴えた頭が初めて、自分の采配の裏側を覗き込んでいた。

「……整理の名簿をもう一度」

声は自分でも意外なほど、静かだった。驚きではない。決意だった。

「全部、私が見ます。ミラは会計室へ。皿ではなく、帳簿を持たせなさい。——ほかの者も暇を告げる前にもう一度、向き不向きを検めます。切るのはそれからです」

ミラの目から、ぼろぼろと涙が零れた。何が起きたか分からぬ顔のまま、それでも何度も頭を下げて、下がっていった。

その時だった。

右手の――人差し指の付け根が熱くなった。

見れば、爪の根もとに一画。古い文字の書き出しのような一筋。薬指のあれとは違う指。違う文字。

擦った。いつものように指先で強く。

消えなかった。

何度擦っても墨で刻みつけたように消えなかった。これまで、浮いては溶けていた薄い線が今度は彼女の指に残った。

アリシアは握り込んだその手をしばらく開けなかった。

その夜、執務室にセオが報告に来た。

整理の名簿は組み替えられていた。切られるはずだった数名がそれぞれ別の場所へ移されている。アリシアが一人ずつ向きを検めて、置き直したのだ。

セオはその名簿を長いこと見ていた。

「一つ、計算が合いません」やがて彼は言った。

「……またそれ」

「下を締めることだけを信じる者は」セオは名簿に目を落としたまま続けた。「向かぬ者を切って、それで終いにします。行く先など、考えない。考えれば、刃が鈍るからです」

「……」

「あなたは切る前に行く先を考えた。切るより、活かすほうへ手を伸ばした。冷たい采配の顔をして、一人も捨てていない」彼は顔を上げた。氷の目がまっすぐ彼女を見ていた。「あなたの規律には慈悲が混じっています。数字が合わない」

アリシアは何も言い返せなかった。

誰も知らないはずだった。氷の面の下で彼女がいつも握り潰した慈悲のことを思って、少しだけ泣きそうになっていることを。隠してきた。十何年、誰の目にも触れぬように。

なのにこの男は、いちばん無機質な、数字という冷たいものを通して、彼女が隠した一点だけを正確に見つけ出す。

「……不愉快ですわ」辛うじてそう言った。「人の帳簿の裏を勝手に読まないでちょうだい」

「申し訳ありません」セオは頭を垂れた。詫びの色は声になかった。代わりにひどく静かな戸惑いのようなものが滲んでいた。「私はこれまで合わぬ数字を誤りとして消してきました。見つけて、正して、消す。それだけが私の計算でした」

彼はミラが下がっていった戸口へ目をやった。

「ですがあなたの傍ではその同じ数字が……人を活かす。今日、私の算盤は初めて一人を消すのではなく、活かす側に回しました。あなたの数字は合わないのに消したくない。——なぜか、その答えだけはまだ計算できずにいます」

アリシアは扇の陰でわずかに目を見開いた。

ミラの一件は数日で屋敷じゅうの語り草になった。

「無能と切り捨てられたあの娘が実は会計の才。アリシア様は皿を運ぶ手つき一つでそれを見抜いておられたのだ……!」

家令がまた涙ぐんでいた。

「いや、それだけではない。あえて『無能』と罵り、一度突き放すことで本人に甘えを捨てさせ、覚醒を促された……! なんと、なんとお深いお考えか……!」

(違いますわ)

アリシアは扇の陰で声にならない悲鳴をあげた。

(私はただ、向かぬ場所から外そうとして、なぜか正しい場所に置いてしまっただけで……! そんな深謀、どこにもありませんわ……!)

噂は屋敷を出ていった。出入りの商人が広め、隣家の使用人が聞きつけ、いつのまにか社交界の隅で囁かれていた。オルブライトの令嬢は人を見る目が恐ろしい、と。冷酷に切り捨てているようでいて、その実、一人残らず、最も活きる場所へ配しているのだ、と。

身に覚えのない名声がまた一つ、彼女に着せられた。

冷酷であろうとするほど、結末のほうが優しくなっていく。

名簿を検め直し、ミラを会計室へ送ったのは、ほかの誰でもない、彼女自身の手だった。切るつもりで活かしていた。捨てるつもりで拾っていた。

(……なぜ、私はそんなことを)

その理由を彼女は考えようとして——やめた。考えれば、戻れなくなる気がした。だから、いつものように蓋をした。追わない。見ない。それが昔から、彼女の得意技だったから。

ただ、小さな据わりの悪さだけが胸の底に石のように残った。それが救いなのか、もっと深い淵の入口なのか。彼女は考えないことにした。

会計室へ移って数日。ミラは屋敷の仕入れ帳の歪みを独力で洗い出した。古い誤記ではない。新しい歪みを。

セオはその一件の前で足を止めていた。

「これは不正ではありませんね」低く言った。「不正なら、辻褄を合わせようとします。これは……合わせる気がない。まるで勘定そのものが人の理から、外れかけているような」

北の寺院領の、香料。あの、一夜で直されずに残った、ただ一件。

ミラの洗い出した歪みはそこへ細い管のように繋がっていた。屋敷の外から、北から、何かが数字に紛れて伸びてくる。セオの声に初めて、わずかな硬さが混じった。

「お嬢様。この管の先に何があるのか。——私にはまだ計算できません」

窓の外で北の空が暮れていく。

アリシアの右手の人差し指に刻まれた一画がその時、ひそかに熱を持った。

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