幻覚という名の逃げ場
アリシアには逃げ場がいくつかあった。
灯りのせい。疲れのせい。ワインが過ぎたのね。寝ぼけていたのよ。どれも世界がほんの少し形を崩したとき、それを元の形へ押し戻すためのちいさな呪文だった。唱えれば、たいていのものは元に戻る。戻らなくても戻ったことにして、見ない。
十何年、その逃げ場で生き延びてきた。
だからこの夜も彼女はいつもの呪文を用意していた。まさか、その逃げ場のほうが先に塞がれるとは、思わずに。
◇
夜半。執務室でアリシアは古い帳簿を繰っていた。
前の家令の代から積もった誤記が支出の列にいくつも残っている。桁の取り違え、二重の付け、消し忘れた仮の数字。直すには丸一日かかる。彼女はため息をついて、頁の端に印をつけた。明日、まとめて直そう。
ただ、一件だけ、印をつける手が止まった。
北の寺院領から入る、香料の代金。
そこだけ、誤記とは違う動き方をしていた。桁を間違えたのでも付け落としたのでもない。数字そのものが月を追うごとにほんのわずかずつ、合わなくなっていく。誰かが掠め取っているなら、辻褄を合わせようとする跡が残るはずだ。だがその跡がない。まるで合わせる気がそもそも無いように。自然に積もる誤差ではこんな崩れ方はしない。
(……北、ね)
問屋の樽の冷たい土の匂いがふと鼻の奥に蘇った。
気のせいだ、と彼女は帳簿を閉じた。今夜は遅い。疲れた頭が数字に意味を見たがっているだけ。——いつもの呪文。彼女は燭を消し、寝室へ下がった。
◇
翌朝、もう一度、帳簿を開いた。
誤記が消えていた。
支出の列は一行残らず、正しく組み直されていた。桁は揃い、二重の付けは払われ、仮の数字は本来の数に置き換わっている。昨夜、丸一日かかると見積もったものがすべて。
筆跡はなかった。
書き直した跡も消した跡もない。新しい墨の艶も古い墨との段差もない。ただ数字が初めからそうであったかのように整然と正しく並んでいた。誰かが直したのではなく、最初から、間違えてなどいなかったかのように。
アリシアの指が頁の上で止まった。
呪文を探した。
灯りのせい——いや、朝の光だ。疲れのせい——昨夜はちゃんと見た。寝ぼけていた——では今、目の前にある正しい列は何だ。会計係は昨夜、屋敷を出ていた。執務室の鍵は彼女が持っている。誰も入っていない。
逃げ場が一つずつ、塞がっていった。唱えるそばから、呪文が空をすべっていく。
これは疲れた頭が見た泡ではない。泡なら、朝には乾いて消える。なのにこれは消えるどころか、世界のほうが昨夜より正しくなっている。
布の下に押し込もうとした。入りきらなかった。初めて、入りきらなかった。
「……っ」
彼女は頁を伏せた。指先がひどく冷たかった。
伏せてもその下で数字が正しく並んでいることをもう知ってしまっている。知らないことにはできなかった。
◇
その日、アリシアは執務室にこもった。
組み直された帳簿を端から検めていく。誰の手も借りず、一人で。直されたものはすべて正しかった。一つの間違いもなく。——それがいっそ気味が悪かった。
そして、たった一件だけ、直されていないものがあった。
北の寺院領の香料の代金。
ほかのすべてが正しく整えられた中でその一件だけが昨夜のまま、わずかに崩れたまま残っていた。直す者がそこには手を出さなかった——あるいはそこだけは直せなかったかのように。
アリシアは長くその列を見ていた。
屋敷の中の歪みは一夜で消える。だが屋敷の外から伸びてくるものは、消せない。北から、細い管のようなものがこの家の帳面の奥へ一本、伸びている。香料に紛れ、数字に紛れて、静かに。
それが何なのか、彼女には分からなかった。ただ、分からないものがもう屋敷の中まで入り込んでいる。その一点だけがはっきりと分かった。
◇
翌朝のことだった。
朝の支度に来た侍女がなぜか頬を上気させていた。「お嬢様。あの、新しくいらした会計の方がもう執務室に……」
「……何の話」
廊下に出て、アリシアは足を止めた。
執務室の前に見知らぬ青年が立っていた。
痩せて、背が高く、表情というものがほとんどない。氷を彫ったような顔。手には彼女が昨日こもって検めていた、あの帳簿を抱えている。青年は当たり前の朝のようにわずかに頭を垂れた。
「お待ちしておりました」声は無機質だった。「会計の補佐に上がりました。——一つ、お報せが」
「待ちなさい」アリシアは遮った。「あなた、誰です。私はあなたを雇った覚えはありません」
そこへ家令がほくほくと駆けてきた。「これはお嬢様、もうお会いでしたか。昨日お召しになった会計助手でございます。たいそうな腕利きと評判の」
「召していません」
「またご謙遜を。お指図の書状、しかと頂戴しております」
——書状。彼女が書いた覚えのない、彼女の印の。
アリシアの背筋を冷たいものが走った。村のときと、同じだ。問屋のときと、同じ。彼女の知らぬところで彼女の名を借りて、何かが正しい側へ勝手に歩いていく。
青年だけがその騒ぎの中で静かに彼女を見ていた。氷の目で氷の令嬢を。まるでずっと前から知っている者を見るように。
廊下の隅でノエラが一人、驚いていなかった。
「お報せ、と言いましたね」アリシアは辛うじて声を保った。「何ですか」
青年は抱えた帳簿をほんの少し持ち上げた。
「この帳面は昨夜のうちにどなたかが直しています。一行残らず、正しく。私が参るより前に」無機質な声だった。直したのが誰なのか、その平らかな声は青年自身も知らないのだと告げていた。彼もまた、ただ読んでいる。何かが直し、何かを残した、その痕を。
「ただ、一件だけ」青年の指が頁の上で止まった。
その指がどこで止まるか、アリシアには言われる前から分かっていた。昨日、一人きりでこもって、ようやくたどり着いた一行。
北の寺院領の香料。
「ここだけは直されていません」青年は言った。「直した“何か”がここには手を出さなかった。——あるいは手を出せなかった」
二人の視線が同じ一行の上で静かに重なった。屋敷の中の歪みは一夜で消える。だが外から伸びてくるものには、その“何か”でさえ触れられない。彼女が昨日ようやくたどり着いた場所へ見知らぬ青年がたった今同じ歩幅で追いついてきた。
その時だった。
右手の薬指の根もとがほんの少しだけ熱を持った。
青年に応えたのではない。あの香料の一行——屋敷の外から、名も知れぬまま伸びてくる気配に指の奥の何かが静かに身じろぎしたのだ。いつか夢で誰かが唇を寄せた指。「いずれ、ここに灯ります」と告げられた、あの指。
アリシアはその手を握り込んだ。いつものように布の下へ。
だが熱は引かなかった。握っても握っても。
逃げ場はもうどこにもなかった。




