偶然という名の囁き
あの朝から、数日が過ぎた。
アリシアは夢のことをもう考えないと決めていた。決めれば、たいていのものは消えてくれる。帳簿の誤差も爪の線も胸の奥のあの疼きもそうやって布の下へ押し込めて生きてきた。八つの声も薬指の熱も同じ一枚の布の下だ。
朝、鏡の前で氷の面を被り直すとき、彼女は胸の内で短く唱える。誰も待ってなどいない。何も灯ってなどいない。唱えれば面はきちんと戻り、戻った面でいつもどおりの一日が回りだす。
ただ、このごろ、布の縁から何かが覗く。
押し込めたはずのものではなかった。もっと厄介な、外側から忍び寄ってくる何かだった。
◇
その朝、家令が一通の嘆願を取り次いだ。
北寄りの村の老女からだという。息子が流行り病で寝つき、今年の納めが立ちゆかない。どうか一季だけ、猶予を——と、震える字でしたためられていた。
「却下します」
アリシアは目を通し終わらぬうちに言った。
「一度の猶予は際限のない列を作ります。隣の村が聞けば、次はその村が門前に座る。情けはいずれ全員を飢えさせるための遠回りです。——そう伝えなさい」
家令は深く頭を垂れて退った。
胃の腑の奥が灼けるように軋んだ。老女の震える字が瞼の裏に残っている。猶予の出しようなら、すぐに三つ浮かんだ。納期の付け替え。種籾の前貸し。隣領との融通。どれも家の損にはならない。だが浮かんだ端から、彼女はそれを握り潰した。一つずつ、指の中で。
これでいい。これが義務だ。いつものようにそう自分へ言い聞かせて。
◇
数日後。家令が妙な顔をして戻ってきた。
「お嬢様。その、北寄りの村の件でございますが」
「却下したはずです。何か」
「はい、それが……村にはもう種籾と、当座の銀が届いておりまして」家令は手の中で帽子を捻った。「村の者は皆、『お嬢様のお慈悲だ』と申しております。お指図のとおりに使者が参った、と。納めは一季、繰り延べる手筈になっていると」
アリシアの扇が空中で止まった。
「……私はそんな指図はしていません」
「はい。私もそう思いまして、帳面を確かめましたが」家令は声を落とした。「届け出はたしかにこの家の印で出ております。日付はお嬢様が却下なさった、その翌朝で」
しん、と執務室が静まった。
握り潰したはずだった。指の中で一つずつ、たしかに。なのにその慈悲は彼女の手の届かぬところで彼女の名と印を借りて、村まで歩いていったのだ。
「……手違いでしょう」アリシアは扇を開いた。声は凍っていた。「古い指図と取り違えたのです。よくあること。——もう下がりなさい」
家令は納得のいかぬ顔のまま退った。
一人になって、アリシアは自分の右手を見た。印を押した覚えのない手。慈悲を握り潰したはずの手。
その手が知らぬ間に自分を裏切っている気がした。
◇
それがひと月で何件目になるのか、彼女はもう数えたくなかった。
切り捨てたはずの者が救われている。締めつけたはずの帳尻がなぜか緩やかに合っている。冷たく振る舞えば振る舞うほど、結末のほうが優しくなる。まるで彼女の冷酷を誰かが横から拾い上げ、せっせと別のものに作り替えているように。
その日もそうだった。
出入りの問屋が納めの目方をごまかしていた。小麦の樽がいつもより軽い。三割は欠けている。アリシアは即座に取引の停止を申し渡した。見せしめだ。一度でも舐められれば、商人という商人が群がってくる。
「二度とこの家の門をくぐらせるな。よその店にも触れて回りなさい。オルブライトは甘くない、と」
冷たく、隙なく。そう命じて、彼女は背を向けた。
——その停止が相手に届くことはなかった。
翌日、問屋は自分から、欠けた分の小麦を利息までつけて運び込んできた。蒼い顔で何度も額を床にこすりつけて。「とんだ手違いを。どうかお情けを」と。
なぜ急に詫びる気になったのか、家令が問うても問屋は要領を得なかった。「いえ、その……なぜか、このままではいけない気がいたしまして」と口ごもる。「ここ幾晩か、どうにも夢見が悪く……気づけば、夜のうちに樽を積み直しておりました」。誰に咎められたわけでもない。ただ、本人の胸の内で何かが勝手に正しいほうへ傾いて、足が勝手にこの家の門へ向いた。そうとしか、言いようがないらしかった。
罰は振られなかった。だが欠けは埋まり、商人は震え上がり、家の威は損なわれなかった。アリシアが望んだ結末より、ずっと角の立たぬ形で。
運び込まれた樽の前に立って、アリシアはふと足を止めた。
樽から、かすかに土の匂いがした。
畑の、生きた土の匂いではない。もっと冷たい。掘り返したばかりの、底のほうの土のような。北から来た荷だと、誰かが言っていた気がする。
(……気のせいね)
匂いはすぐに薄れた。彼女はそれ以上、嗅がなかった。嗅げば、布の下のものがまた一つ顔を出しそうだった。
◇
夜。湯あみを終え、ノエラに髪を解かせていた時だった。
櫛がゆっくりと髪を梳いていく。その規則正しい音の合間にふいに別の音が混じった。
『——おかえりなさいませ』
八つの声。低く、重なって、ひとつの祈りのように。
アリシアは息を止めた。耳のすぐ後ろで聞こえた。振り向けば、暗い広間に片膝をついた影が——そんなはずはない。ここは自室だ。鏡には髪を解くノエラと、自分しか映っていない。
櫛の音だけがまた規則正しく戻っていた。
(……疲れているのね)
その時、右手の薬指がずきりと疼いた。
見れば、爪の根もとにあの線が一画。淡く、にじむように浮いている。あの夜と同じ、古い文字の書き出しのような一筋。
擦った。指先で強く。線は墨が水に溶けるように消えた。後には何も残らない。ただの爪だ。いつもの。
鏡越しにノエラと目が合った。
侍女は櫛を止めていた。咎めず、驚かず、主が自分の指を擦り、何でもない顔をする、その一部始終を静かに見ている。まるでいつかこうなることを初めから知っていたかのように。
「……何か」アリシアは硬い声で言った。
「いいえ」ノエラはまた櫛を動かしはじめた。「何も。お疲れでございましょう、お嬢様」
それだけだった。その声がどこか、知っているのに知らぬふりをする者の声に聞こえたのは、きっとこちらが疲れているせいだ。
◇
寝台に入ってもしばらく眠れなかった。
天井を見上げ、アリシアは今日のことを一つずつ並べ直した。北の村。問屋の小麦。耳の後ろの声。爪の線。土の匂い。
——全部、説明はつく。取り違え。商人の小心。疲れた頭の幻聴。灯りのいたずら。荷の古さ。一つずつなら、どれもありふれた偶然だ。
ただ、それがいくつも続いている。
握り潰した慈悲が必ず、横合いの誰かの手で叶えられていく。まるで彼女のすぐ後ろに誰かが立っていて、彼女が捨てたものをこぼさぬように拾い集めているように。冷たい札の裏側でずっと優しい囁きが続いているように。
(振り向いてはいけない)
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
「……幻覚よ」
声に出して、彼女は言った。
「疲れているのね。それだけ」
決めれば、消える。帳簿の誤差も爪の線も八つの声も。決めて、見ない。それが彼女の得意なやり方だった。十何年、そうやって生き延びてきた。
アリシアは目を閉じた。
背後で——耳のずっと奥のほうで囁きが一つ、また聞こえた気がした。何を言ったのかは聞き取らないことにした。
誰も待ってなどいない。何も灯ってなどいない。
——まだ。




