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悪役という名の檻

夜会の広間はきらびやかな嘘で満ちていた。

オルブライト侯爵令嬢アリシアは、その中央で扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が一つ。それだけで近くの貴族たちが口をつぐむ。

「——アリシア様。その、先日の件、どうか今一度のご温情を」

膝をつかんばかりに縋ってきたのは、取り潰しの噂が立つ小さな男爵だった。アリシアは彼を氷の目で見下ろす。

「ご温情?」声は凍っていた。「期日に納めぬ者へ施す温情を私は持ち合わせておりません。一度緩めれば、次がその次が列をなす。——下がりなさい。見苦しい」

男爵が屈辱に顔を歪めて退く。周囲が息を呑んだ。

氷の令嬢。情を知らぬ算盤。必要悪の体現者。社交界が貼ったその札をアリシアは自分から被ってきた。

——本当はあの男爵を救う手が三つ、すぐに浮かんでいた。三年の猶予。再建のための融資。納期の付け替え。どれも家の損にはならない。浮かんだ端から、彼女はそれを握り潰した。一つずつ、指の中で。

情けは弱さ。弱さは死。

傾いた家を守る道は一つしかないと、彼女は信じてきた。信じるほかになかった。父は病がちで後ろ盾は薄い。舐められれば食い潰される。ならば誰よりも冷たく、誰よりも隙なく。恐れられることだけがこの家と、この家の者とを守る鎧だ。百年前のどの侯爵もそう書き残している。下に厳しくあれ、緩めるな。それは施しではなく、上に立つ者の義務なのだと。

だから演じる。胃の腑が灼けるほど、完璧に。

氷の面の下で彼女がいつも少しだけ泣きそうになっていることを誰も知らない。知られてはならなかった。知られた瞬間にこの鎧は一枚の紙に変わる。

奇妙なことが続いていた。

三日前、市の立つ広場でのこと。痩せた貧民の子供が人混みによろけ、あろうことかアリシアの腰へ縋りついた。供の護衛の手がすぐさま鞭へ伸びる。無礼討ち。当然の罰だ。誰も咎めはしない。

(——ああ、鞭打ちだわ。やだな)

そう思った、まさにその時だった。

脇に積まれていた三段の樽。その縄が誰も触れていないのにぷつりと切れた。よろけた子供を追うように傾いた一樽がアリシアのすぐ脇をごろりと音を立てて転がり抜けていく。広場が騒然となった。鞭のことなど、もう誰も見ていない。

アリシアはその隙に護衛へ刃のような叱責を投げた。

「主の傍で迂闊に得物を抜くとは何事です。賊が紛れていたらどうするつもりでした。——下がりなさい」

護衛は青ざめて萎れ、その混乱のうちに子供は人混みへ紛れて消えた。誰も鞭を受けなかった。

表向き、アリシアはまた一つ冷酷に振る舞った。家の規律は守られた。だが鞭は振られなかった。

(……あの縄はなぜ切れたのかしら)

そんな“偶然”がこのところ、いくつも続いていた。握り潰したはずの慈悲がいつも横合いから、誰か別の手で代わりに叶えられていくような。気のせいだと思いたかった。思おうとするほど、背筋が冷たくなった。

夜半。自室に戻ったアリシアは燭台ひとつの灯りで領地の書類を繰っていた。

指が重い。疲れていた。

ふとその右手が目に入った。

薬指の爪。その根もとに見覚えのない線が一画、淡く浮いていた。古い文字のほんの書き出しのような一筋。光を帯びて、にじむように。

拭った。指先で擦った。すると線は墨が水に溶けるようにすっと消えた。後には何も残らない。ただの爪だ。

「……灯りのせいね」

そう呟いて、彼女は書類へ目を戻した。戻したがしばらく字が頭に入ってこなかった。

扉のそばで侍女のノエラが燭台を持って立っていた。主が自分の指を見つめ、擦り、見なかったことにする。その一部始終を静かに見ていた。咎めず、驚かず、ただ見ていた。まるでいつかこうなることを初めから知っていたかのように。

その夜、アリシアは夢を見た。

暗い、果てのない広間。その床に八つの影が片膝をついていた。

光を纏った八人の男。顔はよく見えない。だがその全員が彼女を見上げ、長く待っていたという顔をしていた。

『——おかえりなさいませ』

八つの声がひとつの祈りのように重なる。

『我らはあなたの——』

その先は風がさらって聞こえなかった。

ただ一人が彼女の右手を取り、その薬指にそっと唇を寄せた。

『いずれ、ここに灯ります。あなたがご自分を取り戻す——その日に』

指先が熱い。八つの影が頭を垂れる。広間が光に——

「……っ」

跳ね起きた。自室のいつもの天井。窓の外は白み始めている。汗をかいていた。

右手の薬指を見る。何もない。ただの指だ。線も文字も熱も。

「……変な夢」

昨夜のワインが過ぎたのね。疲れた頭が見る泡だ。意味などない。そう決めて、彼女は夢を隅へ押しやった。決めて、見ない。それが彼女の得意なやり方だった。帳簿の誤差も爪の線も胸の奥のあの疼きもみなそうやって布の下に押し込めてきた。

その朝、屋敷はいつもどおりだった。

庭に見知らぬ庭師はいなかった。書斎に新しい家庭教師もいない。厨房から大男の怒声も焼きたてのパイの匂いもしなかった。八人の男など、夢の中にしかいなかった。

廊下は静かで冷たく、彼女は一人だった。いつものように。

(……当たり前だわ)

そのことにほっとしている自分にアリシアは少しだけ戸惑った。何に怯えていたというのだろう。夢の中のあの八つの声に。『おかえりなさいませ』——まるで帰る場所があるかのような、あの声に。

「ばかばかしい」

呟いて、彼女は鏡の前でいつもの氷の令嬢の顔を被り直した。

誰も待ってなどいない。何も灯ってなどいない。

——まだ。

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