問いという名の淵
夜は底へ向かっていた。
◇
蒼い闇は、もう庭を越えていた。
世界の縁が軋みながら崩れていく。遠くの空が裂け、近くの土が沈み、立っていた者がひとりまたひとりと膝を折った。
盾となった者たちは、なお盾だった。だが、その盾は欠けていった。血を流し、倒れ伏し、それでも前へ手を伸ばし——伸ばしたまま、動かなくなる者があった。誰も立ち上がりはしなかった。立ち上がれる夜ではなかった。
アリシアは、その崩落の只中に立っていた。
退かなかった。だが、止められもしなかった。采配のすべてを尽くしても、闇は退かず、味方は減り、世界は底へ向かう。氷の令嬢が十何年握り締めてきたあの采配。それをもってしても、この夜は止まらなかった。
◇
胸の奥で、あの夜に据えた楔は、まだ芯に在った。——いつか、この手をほどく。
だが、いつかとはいつなのか。
闇はいま極まり、盾はいま欠け、あの少年はいま溺れている。すべてがいま底へ落ちていく。——なのに彼女の手はまだ握られたままだった。ほどくのはいつか——この夜ではなかった。
その隔たりが刃のように彼女を裂いた。
道は見えていた。受け止める采配へ、強さの向きを変える。それは定まった。だが、定まった道とその道を歩くこととのあいだには、なお越えられぬ夜があった。意志は据わっても、執行はまだ遠い。その遠いあいだに世界はこうして失われていく。
そして、もうひとつあった。握り締めてきたこの手をほどくとは、世界の痛みをまるごとこの身へ通すことだった。遠ざけてきたものから距離を取り払い、抱えること。それが何を彼女に強いるのか、ほどいた先で己が保つのか壊れるのか、女神ではない彼女には見通せなかった。
——本当にほどけるのか。
問いは答えを持たなかった。
それでも、楔は折れなかった。最暗の只中で見えぬ先へ向かって、その一点だけが冷たい芯に打ち込まれたまま動かなかった。彼女は退かなかった。慰めも希望も握らなかった。ただ据えた意志のまま淵の縁に立っていた。
◇
闇の中心で、あの少年が底を打った。
拾いすぎた業に、なお呑まれて。救えぬ己を悲しんで、ただ下へ下へと沈んでいく。——誰を呼ぶのでもなく。誰を狙うのでもなく。ただひとりで溺れていた。
底のほうで、少年は思った。——もう拾えない。これ以上は、抱えられない。
誰に言うのでもなく、ただ自分の内側へ。流れ込んでくるものに名前をつける力さえ、もう残っていなかった。いっそこのまま沈んでしまえれば、もう何も感じなくて済む——そう願うことだけが幼い心に残っていた。助けは、呼ばなかった。呼べることを、彼は知らなかった。誰かが来るということがどういうことか、一度も知らないまま。
その絶望がアリシアに届いた。
視えてしまった。拾ってしまった。あの少年がどれほど深く沈んでいるか、どれほど受け止められたがっているか、嗅ぐようにそれが届いた。——届いてなお彼女の手はまだ開かなかった。届くのにまだ受け止められない。それがこの夜のいちばん深い痛みだった。
いま歩き出せば、間に合うのか。それとも、間に合わぬのか。——その問いにも答えはなかった。
彼女はその淵の縁に据えた意志のまま立っていた。まだ歩いてはいなかった。だが、もう退きはしなかった。道は定まり、最暗を耐え——歩き出すのはこの夜ではなかった。
——夜は明けない。闇は退かない。問いは解けない。
その最も鋭い一点を解かぬまま宙に吊って、長い夜は淵の縁で閉じた。




