采配という名の問い
聖女が退いたあとも、夜は明けなかった。
◇
青白い闇はなお世界を呑んでいた。庭の向こうでは盾となった者たちがまだ血を流して闇を押し留めていた。遠くのどこかで拾いすぎた少年がなお溺れていた。——誰を狙うのでもなく。ただ、世界がそこで軋んでいた。
アリシアはその庭に立ち尽くしていた。
己が何者かを知ってしまった。視る側として、拾ってしまう側として、生まれついた。それはもう知らなかったことには戻らない。
だが、知ることと引き受けることは違う。聖女は去り際、何も命じなかった。どう生きよとも、何をせよとも。——ただ、問いだけが残された。
胸の奥で影のように差していたものがいま輪郭を持ちはじめていた。声になろうとしていた。
——お前は、これから、どうするのか。
知った素性をまた布の下へ押し込めて、氷の令嬢のまま采配を振るうのか。それとも別の何かになるのか。——その先が見えなかった。
◇
問いの前で、アリシアははじめて正面からそれを量った。
道は二つ知っていた。
ひとつは哀れみの道だった。苦しむものを苦しませず終わらせてやる、痛みを摘み取る優しい手の道だった。——だがそれは、自分の手ではなかった。自分は優しくはなかった。それに、と彼女は思った。あの溺れる者は終わらせてほしいのではない。摘み取って消すことは、あれの救いにはならない。哀れみの道は彼女の答えにならなかった。
もうひとつはあの僧の道だった。情けを捨てきり、すべてを檻の理屈で割り切ってゆく冷たい確信の道だった。——いつか、あなたもこちらへ来る。情けを捨てきったとき。僧はそう告げていた。彼女の冷たさを、己の同類と見て。
だが、それは違った。
彼女は捨てきれる側ではなかった。幾度も慈悲を握り潰しては、それでも捨てきれずにきた。拾ってしまうから、捨てきれない。——僧の道は彼女の道のちょうど逆だった。あの確信の人が辿りついた岸の反対の岸に彼女は生まれつき立っていた。
二つとも、彼女の道ではなかった。
では、何が残るのか。
——そのとき、はじめて別の輪郭が見えた。
彼女には采配があった。十何年、家を、人を、戦を冷たく差配してきた鉄の意志。世界を遠ざけ、距離に置き、握り締めるように律してきたあの強さ。
その強さを捨てる必要はなかった。
ただ向ける先を変えればよかった。
世界を遠ざけてきた同じ手で、世界の痛みを抱えればよい。突き放す采配を、受け止める采配へ。——優しくなるのではない。柔らかくなるのでもない。冷たい強さはそのまま要る。ただ、その強さの差し向ける先だけが変わる。
拾ってしまうことが何を受け止めるのかを彼女に与え、采配の強さがそれをどう支えきるのかを与える。
強いまま、開く。
——仁では、ない。僧でも、ない。彼女だけの、第三の道。
◇
それが見えても、彼女はまだ手を開かなかった。
握り締めた拳の中に何が在るのかは、もう解っていた。いつかこの手はほどかれねばならない。世界の痛みを、握り潰すためでなく抱えるために。——だが、いまではなかった。それはもっと先、闇が極まりすべてが問われる場所ではじめて為される。
氷は溶けなかった。令嬢は軟らかくならず、膝もつかなかった。ただ、いつか握る手をほどくという、その一点だけが冷たい強さの芯に楔のように打ち込まれた。
アリシアは庭の闇へまっすぐ目を向けた。握った拳は、握ったまま。もう迷いはなかった。
——いつか、この手を、ほどく。
その意志を据えたまま、令嬢は夜の中に立っていた。




