証という名の素性
その夜、世界がひとときだけ息を潜めた。
蹂躙は続いていた。青白い闇はなお世界を呑んでいた。だがその夜だけ屋敷の庭にふしぎな静けさが降りた。風が止み、闇の気配が一歩退いたように。
◇
庭の奥にひとりの女が立っていた。
いつ来たのかわからなかった。ただ彼女が立つだけで、あたりの空気がしんと正された。
ざわめいていた夜気が彼女のいるあたりだけ、凪いでいた。荒れていた闇さえ、その一画にはおよばなかった。
古い簡素な衣の年経た静かな佇まい。衣は色を失うほど洗いさらされ、裾も袖も古びていた。背は高くも低くもなく、若くも老いてもいなかった。ただ、長い長い年月をくぐってきた者だけがまとう静けさがその身のまわりに満ちていた。
けれどひと目で知れた。——聖女だ、と。世が翳るたび、遠くからじっと見ておられるという、あの伝説の。
アリシアは息を呑んだ。女神だの聖女だの自分には関わりのない古い物語だと——そう決めて聞き流してきたあの言葉。それがいま目の前に立っていた。
聖女は、アリシアを見た。
ただ見た。それだけだった。だがその目は、彼女の冷たさの下を、布の下を、そのもっと奥のいちばん深いところまでまっすぐに見ていた。値踏みでも憐れみでもない。ただ知っているという目だった。
その目に見据えられて、アリシアは身じろぎひとつできなかった。背に薄く汗が滲んだ。それでも、目をそらさなかった。
聖女はゆっくりと片手を上げた。その指先に涙のような露のような雫がひとつ結ばれた。それを聖女はアリシアの手の甲へそっと落とした。
ひと粒は、思いのほか冷たかった。重さというほどの重さもなく、ただ皮膚のうえで小さく丸まっていた。アリシアはそれを払わなかった。冷たいひと粒がゆっくりと肌の温みに溶けていくのを、ただ感じていた。
ひとことも説明はなかった。
◇
雫が肌に触れたその静けさの中で。アリシアはふいに解ってしまった。これまでばらばらだったものがひとつの線で繋がってしまった。
息がいちど浅くなった。胸の奥で、何かが音もなく傾いだ。だが彼女は声を上げなかった。手の甲の雫を見つめたまま、背筋だけはまっすぐに立っていた。
あの夜、北の風に混じった匂いに喉の奥の小骨が疼いたのは、気のせいではなかった。蹂躙の夜、青白い群れの中心に誰にも見えぬはずの哀れみをほんの一瞬見てしまったのも、気のせいではなかった。
彼女はずっと拾ってしまう側だった。世界の痛みが、業が、彼女には届いてしまう。嗅げてしまう。視えてしまう。生まれたときから、そういうふうにできていた。
そして、あの小さな印も。母からそのまた母から伝わり、家の記録より古く誰が最初に持っていたかも知れぬあの品も——ただ古いだけのものではなかった。
聖女がようやく口を開いた。低く、短く。
「あれは、印です」と聖女は言った。「あなたがどの線から来たのかを示す、ただの印。力では、ありません。——あなたが先で、印は後。あなたがもとからそうであったことを、ただ、指し示すだけ」
「あなたは」聖女は続けた。「視る側として、生まれた。世界の痛みを、拾ってしまう側として。——ずっと、お一人で。誰にも知られぬまま」
闇が彼女を選んだのではなかった。北が彼女を狙ったのでもなかった。ただ彼女が生まれつき、世界のほうへ開いていた。痛むものが痛むと彼女に届く。それだけのことだった。それが彼女の生まれついたかたちだった。
◇
聖女の目がアリシアの両手へ落ちた。
八本の指。そのどれにも見えぬ文字が灯っていた。十何年の采配が刻みつけてきた、徳の文字が。——だが、両の小指、二本だけが白かった。何も刻まれず、灯らぬまま。
聖女はその二本の白い小指をしばらく見ていた。
「二つ、まだ白い」と聖女は言った。それだけだった。「——時が満ちれば」
それ以上は言わなかった。何が満ちるのか。満ちればどうなるのか。——聖女は告げなかった。
アリシアは、立ち尽くしていた。
十何年、自分が何者かを知っているつもりだった。氷の令嬢。必要悪。冷たく家を守る、采配の人。——その確信がいま足元から崩れていく。自分は、それだけではなかった。もっと別の、知らなかった何かとして生まれついていた。
僧は、いつか彼女もあの道へ来ると告げた。情けを捨てきったとき、と。——だが彼女は捨てきれる側ではなかった。生まれつき、拾ってしまう側だった。それは、僧の道のちょうど逆だった。
——だが彼女は膝をつかなかった。取り乱しもしなかった。知ってしまった素性を、これからどう生きるのか。引き受けるのか、また布の下へ押し込めるのか。——その問いの前で、彼女はまだ氷のままだった。
知ることと引き受けることは、違う。彼女は知った。だが、まだ引き受けてはいなかった。
聖女は、もう何も言わなかった。来たときと同じように、静かに退いていった。あの伝説の通り、戦うのでも討つのでもなく、ただ見届けるために来た者だった。
後に残されたのは、白い小指を二本持つひとりの令嬢だった。己の素性を知り、なおそれを伏せたまま立っている。
その胸の奥で、ひとつの問いが影のように差しかけていた。まだ声にはならない。だが、もう消えもしない問いが。
——自分は、これから、どうするのか。




