駒という名の反転
闇はいよいよ世界を覆っていた。
村は灯を落とし、街道は途絶え、人々は屋敷の奥へ、寺の跡へ、僧のいる場所へと身を寄せ合った。怯える者が増えるほど、あの旅の僧の静かな声に縋る者も増えていった。
僧は変わらず穏やかだった。闇に呑まれゆく世界の真ん中で、ただ一人、怯えていなかった。喪ったものを恨まず、迫る闇に揺らがず。彼もまた、この崩れゆく世の犠牲者のように見えた。慰めることしかできぬ無力な、もう一人の被害者のように。
◇
アリシアが僧の前に立ったのは、その夜だった。
「お待ちしておりました」僧は穏やかに微笑んだ。「申し上げたでしょう。あなたが私を、本当に必要とする夜が来る、と。——ほら。来たでしょう」
アリシアは答えなかった。ただ、その僧を長いあいだ見た。十何年、人の顔色だけで生き延びてきた目で。値踏みでなく見透かすように。あの夕暮れ、この僧が彼女にそうしたように。
そして、見えた。
「あなたは」アリシアは低く言った。「被害者では、ない」
僧は否定しなかった。微笑んだまま、静かに目を伏せた。それは、肯定だった。
「多くを失った、とあなたは言った」アリシアは続けた。「寺を、人を、すべてを。恨みもなく、と。——失ったのではない。捧げたのね。あなたが自分で。だから恨みがない。捧げたものを、人は恨まない」
僧は、答えなかった。否定も、しなかった。
「闇とずっと昔から親しんできたかのようにあなたは語った」彼女の声は震えていなかった。「かのように、ではなかった。あなたは本当に親しんでいた。——あれは、あなたのものだから」
「闇はゆっくりと満ちる、と言った。いずれ夜が来る、と。——あなたは、知っていたのではない。あなたが来させたのね」
僧はゆっくりと顔を上げた。その目に狂気はなかった。怯えも、後悔も、なかった。ただ揺るがぬ——どこまでも静かな確信だけがそこにあった。
「ええ」僧は言った。穏やかに。まるで善いことを語るように。
「この世は、弱さに満ちています」僧は言った。「弱い者は呑まれ、優しい者から死んでいく。情けは弱さ。弱さは、死。——あなたも、そう信じておられる。違いますか」
アリシアは答えなかった。
「ならば」僧は続けた。「いっそすべてを終わらせることがいちばん深い慈悲ではありませんか。苦しみも、弱さも、呑まれる恐怖も、みな終わる。私はそのためにすべてを捧げました。寺を、人を、この身を。——世界を、浄めるために」
それは、檻の理屈の、いちばん奥の部屋だった。
◇
アリシアはその言葉の意味を、ゆっくりと理解した。
あの夕暮れに僧が彼女の冷たさを肯定したのは、偶然ではなかった。彼は彼女を檻の理屈を信じる同類と見たのだ。そして彼自身がその理屈をいちばん奥まで突き詰めた者だった。
情けは弱さ、弱さは死。その理屈を、十何年、彼女も胸に抱いてきた。だが彼女はその慈悲を幾度も握り潰しては、それでも捨てきれずにきた。
僧は、捨てきった。最後の一片まで、慈悲も、弱さも、ためらいも。そうして辿り着いた場所が世界を終わらせることを慈悲と呼ぶ、この場所だった。
これは彼女が選ばなかった道の果てだった。
アリシアは寒気を覚えた。恐ろしかったのは、僧の狂気ではない。狂ってなど、いなかった。彼はどこまでも正しく首尾一貫していた。彼女自身が信じてきた理屈を、ただ、彼女よりも誠実に最後まで信じただけだった。
僧はまた穏やかに微笑んだ。
「あなたも、いずれここへいらっしゃる」と僧は言った。咎めるでも、誘うでもなく。ただ確信として。「情けを捨てきったとき。——お待ちしております。今度こそ」
アリシアは答えなかった。ただ、氷の令嬢のまま踵を返し、背を見せた。彼女はその道を選ばない。まだ選んでいない。——だが、選ばずにいられるのか。徳を捨てず、なお、この闇を引き受けられるのか。その問いは、まだ声にならなかった。
そして、僧の起こした闇は——もはや僧のものでさえなかった。
起こした者が誰であれ、いま世界へ満ちていく闇は、誰を狙うのでもなく、ただ寄る辺を失った者を、村を、人を、あてもなく呑んでいった。名もなく。無人称に。起こした者を得てもなお闇は無人称のままだった。
闇にそれを起こした人間がいたと分かった。だが、あの闇をどうするのかという答えは、依然誰の手の中にもなかった。




