針という名の来歴
世界が青白い闇に踏みにじられたその翌朝にも、庭の隅ではシリルが薬草を摘んでいた。
その同じ朝、井戸端ではニコがゆうべの傷の手当てに駆け回っていた。門前で群れを受け止めたブルーノの擦り傷に大袈裟に騒ぎ立て、ほかの皆にも「ほら、じっとして」と当人たちより当人たちの傷を案じている。岩のような大男たちが年下のニコに子供のように手を取られて、ばつの悪い顔をしていた。——蹂躙の翌朝でさえ、八人はまだ互いの擦り傷を案じあう、ただの人間だった。
シリルの手の触れた草はどこか生き返ったように青々としていた。枯れかけた薔薇さえ彼が通れば息を吹き返す。庭師仲間は昔からそれを囁いていた。——よく晴れた、湖のような目をした男だった。
シリルは細い針で薬草の蔓を傷んだ茎へ継いでいた。指先が迷わなかった。傷んだものと生きるものとを、針一本でつなぎ直していく。その手つきはあまりに静かで、あまりに慈悲深かった。
——だからこそ、見ている者はふと、奇妙なことを思うのだった。
これほど命を慈しむ手は。いったいどれほど命をその手にかけてきたのだろう、と。
シリルの来歴を誰も正しくは知らなかった。ただ、その手は癒やすことを知りすぎていた。そして、終わらせることも知っていた。苦しむものを苦しませずに痛まぬようにこと切れさせる——それもまたひとつの慈悲ではあった。咲かせるのと同じ迷いのない指で、摘み取るように。
その手は北の匂い——掘り返した底のほうの、生きていない土の匂いも知っていた。「ずっと昔、北で嗅いだ」といつか彼は言った。それ以上は語らなかった。
◇
この屋敷で、最初に北に呼ばれたのは、門番のトマだった。実直で、古くからの男だった。ある日、その手が本人の知らぬ間に北の闇へと閂を外し始めた。焦点は人をすり抜け、中身が半分、どこか遠くへ行ってしまっていた。屋敷じゅうが怯えてすくみ、触れることさえ恐れた。
そのとき退かなかったのは、シリルだけだった。
シリルだけがトマの氷のように冷たい手を両手で包んだ。怯えもせず、退きもせず。討つのでも除けるのでもなく、ただその傍らに在ろうとした。それがシリルの慈悲だった。
——いま、世界を呑んだあの闇の中心にも、抱えきれぬものを抱えて溺れる、幼いものがいた。シリルの手なら、あの子の傍らにも、退かずに在れるのかもしれない。
だが、傍らに在って、それから、どうするのか。
ひとりの苦しむ者なら、苦しませずに終わらせることもできた。摘み取る慈悲はそこまでは届く。けれど、世界をまるごと呑むほどのあの溢れを摘み取れるのか。一本の針で、こと切れさせられるほどの、小さなものなのか。——誰にもわからなかった。シリルにも。
◇
その日、アリシアは離れの庭でシリルと行き合った。
シリルは薬草を摘む手を止め、その湖のような目で彼女をしばらく見た。値踏みではなかった。レナードの物差しとも、僧の囁きとも違った。もっと静かに彼女の奥の伏せられたものを見ていた。
「お嬢様」やがてシリルは穏やかに言った。「あなたは、握り潰してこられた。情けを弱さだと信じて。御自分でも、見ないことにして。——けれど」
シリルはほんの少し目を伏せた。
「いつか、申し上げました。泣きたかったのでしょう、と。なのにあなたは泣かなかった。——いいえ。泣けなかった」
アリシアは足を止めた。何も、言わなかった。
慈悲は確かにそこにあった。氷の下に布の下に十何年、伏せられたまま。シリルの目はそれを見ていた。
だが、見られても、アリシアはそれを出しはしなかった。出せなかった。氷の令嬢のまま、彼女は背を向けた。慈悲は伏せられたまま、采配は緩まぬままだった。
シリルはそれ以上、何も言わなかった。ただ、摘んだ薬草を籠へ入れた。命を慈しむ手と命を終わらせる手——その同じ一つの手で。
哀れむことはできる。退かずに傍らに在ることもできる。だが、世界を呑むほどのものをどうすれば受け止められるのか——その答えだけはまだ誰の手の中にもなかった。
針の来歴は癒やすことと終わらせることを知っていた。だが、受け止めることは——それは、まだ来歴の外にあった。




