闇という名の蹂躙
その夜、闇が世界を呑んだ。
崩落の果てに開いた門の向こうから、それは溢れ出した。北の闇のいちばん奥に、長く息を潜めていたもの。それが堰を切って、あふれ出した。
青白い灯りが地を這って広がった。ひとつ、ふたつ、やがて数えきれず。声もなく足音もなく、掘り返した底のほうの生きていない土の匂いを引きずって。——人の形をした、何か、だった。
かつて人だった者たち。北に呼ばれ、連れていかれ、もう戻れなくなった者たち。一人、また一人と人であることをやめて、いま群れになって、世界へあふれ出していた。
村が呑まれた。森も街道も野も、青白い灯りの洪水にひたひたと踏みにじられていった。
灯りは家々の窓へ這い上がり、戸の隙間から内へ滲んだ。逃げ惑う足が泥を蹴り、倒れた荷車の輪がむなしく空を回った。畑の畝は青白い足の群れに均され、井戸も祠も同じ色の水位の下へ沈んでいく。誰かの叫びが起きては、すぐに声もなく呑まれて消えた。群れはそれを狙ったのではない。ただ、満ちる水のように、低いところから順に世界を浸していった。
◇
その洪水の中心に。
ひとりの少年がいた。
幼い、痩せた少年だった。青白い群れの真ん中に、ぽつんと。膝を抱えてうずくまり、その小さな体から——何かがあふれ続けていた。
膝に額を埋め、痩せた背がたえまなく震えていた。指先は氷のように冷えきり、それでいて、体の芯のどこかが灼けるように熱い。流れ込むものに終わりがなかった。遠くで誰かが喪われるたび、その嘆きが見えない水となって少年の胸へ押し寄せ、いっぱいになり、こらえる間もなく外へこぼれた。抱える器が小さすぎた。それでも、流れ込むものは容赦なく満ちつづけた。
何がとは言えない。ただ、世界じゅうの苦が、痛みが、喪われたものへの嘆きが、その少年の内側へ流れ込み、抱えきれずに外へあふれ、形を得ていた。青白い群れも、踏みにじられる世界も、その少年からこぼれ出ていた。
この子は、はじめからこうだった。誰かが泣けば、その涙が自分の頬を伝う。遠い村が呑まれれば、呑まれた者の嘆きが波のように内側へ寄せてくる。拾うまいとしても、拾ってしまう。感じまいとしても、感じてしまう。だからいつも独りだった。そばに寄れば、その者の痛みまで流れ込んでくる。だから誰も、彼を抱いてはやれなかった。
少年は、泣いていた。声もなく。
涙は頬を伝うそばから、青白い光の中へ溶けて消えた。しゃくりあげる肩が小さく上下し、握りしめた両手の爪が自分の腕に薄い跡を刻んでいた。痛みは感じていないようだった。彼を満たすものが大きすぎて、自分の体の痛みなど、もう端のほうにしか残っていなかった。
「……救えるものか」少年はうつむいたまま、つぶやいた。誰に言うのでもなく。「こんなにいっぱい……救えるものか。……戻れないよ。もう誰も……戻れないよ」
少年は、もっと小さくつぶやいた。「……ぼくのせいだ。ぜんぶ、ぼくに流れてくる。とまらないんだ。……とめかたがわからないよ」
それは世界を襲う魔物の声ではなかった。抱えきれぬものを抱えさせられた、幼いものの泣き声だった。
少年は、誰も狙ってはいなかった。襲おうともしていなかった。ただ、自分の中からあふれ続けるものに溺れていた。その溢れが世界を呑んでいるだけだった。
溺れる者がもがけば、波がいっそう高く立つように——少年がこらえようと身を縮めるほど、あふれるものは勢いを増した。とめようとする力さえ、外へ流れ出る圧へ変わっていく。少年にできるのは、ただ膝を抱え、その奔流が過ぎるのを待つことだけだった。けれど奔流は、過ぎなかった。
◇
青白い洪水はやがてオルブライト侯爵家の領の縁にも達した。
八人が立った。
屋敷の門前にそれぞれの持ち場を捨てて。庭師も、料理人も、護衛も——みな生身のまま、押し寄せる青白い群れの前にただ人として立ち塞がった。
鍬を握る手も、椀を磨く手も、その夜はみな同じように拳を固めた。腕と背のほかに頼れる得物はなかった。それでも誰ひとり、退こうとはしなかった。守る者たちがその背の内にいた——だから八人の足は、門前の石に根を張った。
忠の拳が群れの最初の波を受け止めた。第一部のあの夜と同じように。殴るためでなく止めるために。だが——押しても押しても、群れは引かなかった。倒しても、倒れた数だけまた満ちた。八人は身ひとつで耐えた。耐えられた。だが、晴らすことはできなかった。
これは討って終わる戦ではなかった。誰の目にも、それは明らかだった。
アリシアは物見から、それを氷の目で見下ろしていた。うろたえもしなかった。蹂躙する青白い群れと、その中心でうずくまる小さな影とをただ見ていた。
世界はその中心の影を、世界を呑む魔物として見た。八人もそう見て、立ち塞がった。
だが、アリシアの目は——ほんの一瞬、その小さな影の中に別のものを見た気がした。
魔物ではなく。襲う者ではなく。ただ、溺れて泣いている、幼いもの。
なぜそんなものが見えたのか。彼女にはわからなかった。見えるはずのないものだった。あの距離で、あの闇の中で。なのに一瞬確かに見えた気がした。
物見の手すりにかけた指がほんの一瞬、白くなるほど強く木をつかんだ。それだけだった。次の瞬きのあいだに彼女はその指の力をといていた。
アリシアはその一瞬の何かを、いつものように布の下へ押しやった。見たくないものを見ないことにする、昔からの癖で。今は目の前の采配がある。怯えた者を奥へ、門を固め、八人に指図を。——氷の令嬢のまま、彼女はその夜を捌いていった。
領のあちこちで、怯えた者たちはあの旅の僧の静かな声にいっそう強く縋っていった。闇が深まるほど、その確信は人の心に根を伸ばしていった。
それでも。
その夜、世界を呑んだ闇は、晴れなかった。八人の生身でも、彼女の采配でも。力ではどうにもならぬものがいま、世界の真ん中で、声もなく泣いていた。
長い夜は、まだ始まったばかりだった。




